004

 食事を終えた僕は、ヒイロと共に大浴場を訪れていた。思えば、彼と湯船に浸かると云うのは、数年ぶりである。十二歳の頃までは、しょっちゅう、お互いの背中を流し合ったものだけれど、僕が辺境伯様の邸宅をほとんど訪れなくなってしまってからは、そんな機会もめっきり減っていた。だから、お互い、久しぶりに見た幼馴染の裸体に驚いたのは、言うまでもない――線の細い優男のイメージがあった幼馴染の身体は、まだ胸が少し薄いものの、全体的に大きく、厳めしく変貌していた。いたるところに、鍛錬の跡が見て取れるのだ。あーあ、あの泣き虫のヒイロきゅんが、こんな立派な漢になって……、何だか少し寂しいぜ。

「……しかし、今日の辺境伯様は様子がおかしかったね。僕が未だに剣を握ってることを聞いても怒鳴らなかったし、ミナーヴァにはずっと慇懃だったし」

「そりゃあ、こちとら魔法使い様の御機嫌取りで必死だったからな」

「えー、そうなの? 最初は帰れって言ったくせに」

「あれはお前だけに言ったんだよ。魔法使いを帰すつもりは無かった」

「でも、なーんか、ミナーヴァに冷たくなかった?」

「そう思うのはお前が変人だからだよ――海外でどうなのかまでは知らないけど、少なくともこの国じゃ、魔法使いってのは神様とほぼ同等の存在なんだぜ? つまり連中は、人類を超越した怪物なわけ。気軽に魔物の臓腑運びをお願いできる相手じゃねえの」

「酷い言い草だね。ミナーヴァが聞いたらきっと傷つくよ」

「きっと傷つくって、お前……よく今日会ったばかりの奴の肩を持てるよな」

「別に肩を持ってる訳じゃあ無いけれど、それこそ肩書だけで、その人の人となりを決めつけるのは、どうかと思うなあ。少なくとも、ミナーヴァは怪物なんかでは無いよ。たしかに言っていることは滅茶苦茶だけど、悪い人では絶対にない」

「どうだかね――まーあ? お前が無駄に人外さんと親和性が高いのは、今に始まったことじゃねえから、魔法使いに馴れ馴れしくしてんのも、あるいはいつも通りなんだろうけれど、今回ばかりはそんなお前に、父上も感謝してると思うぜ? もしかしたら、これを機にまた剣を握ることを許してくれるかも知れないしな」

「えっ、なんで?」

「そりゃあお前、上手くいけば、魔法使いをこの町で囲えるかも知れないだろ?」

「……?」

「だから、もしもこのまま、あの魔法使いがお前を完全に気に入って、籍でも入れるってなれば、この町であの魔法使いが暮らすことになるかも知れねえだろ? そしたら、エングルスは他の都市よりも、魔法使いを囲ってる分、色々と優位に立てる」

「つまり、なんだ、辺境伯様は、僕とミナーヴァを政治の道具にするつもりなのか?」

「その為にはまず、お前があの魔法使いを落とすのが絶対条件だけどな」

「僕の意志は完全に無視なんだな」

「別に良いだろ、お前にはこれって云う意思なんかねえんだから。それに、もしもあの魔法使いと結婚出来れば、親父さんの畑を継ぐ必要は無くなるぜ、きっと」

「……妹はどうなる?」

「さあな。まあ、でも、畑の後継者に成れそうな男をあてがわれることになんじゃね?」

「…………」

「――あっ、もう上がんのかよ!」

 僕はヒイロを残して浴場を後にした。そそくさと、辺境伯様に与えられた部屋に向かう――扉を開ければ、そこには既に、白いネグリジェに着替えたミナーヴァの姿が在った。入口に背を向けて二人掛けのソファに座し、暗くなった窓の外を見上げる彼女もまた、食後まもなく、ママさんに連れられて浴場へ行っていたはずだけれど……、女性の入浴は長い、と云うのは決めつけだったらしい。僕の入室に気が付いた彼女は、ふっと静かに微笑んで、自分の右隣、ソファの座面を軽く叩いた。

 一瞬、どういう意味か判じかねたけれど、幼い頃、母さんがそんな風に僕を呼んでいたのを思い出して、それが僕を隣に招いているのだと分かった。

「久しぶりに友人の背中を流した気分はどうだい?」

 わざわざ逆らう理由も思いつかなかったので、素直に彼女の右隣に腰を落ち着けて、彼女と一緒になって窓の外を見上げた。煌びやかな星々が見える。

「うーん、まあ、それなりに楽しかったよ? ……ミナーヴァは? 随分と早かったみたいだけれど、もしかして、誰かとお風呂に浸かるの嫌いだった?」

「そんな事は無いよ、楽しく入浴させてもらった――ただ、私は長風呂が苦手でね。すぐに逆上せてしまうから、一足先に上がらせてもらったのさ」

「流石の魔法使いも、おのぼせには勝てないんだな」

「いやいや、魔術さえ使って良いのなら、のぼせる事は無いさ。何時間でも、それこそ沸騰したお湯にだって浸かっていられるとも」

「マジで?」

「大マジさ」

「魔術ってすげーな」

「ノートにも使えるよ」

「――⁉」

驚いた僕は、思わず空を見上げるのを止め、隣の彼女を見やった。視線がぶつかる――彼女は、僕が星々から視線を切るよりも前から、僕の方を見ていたらしい。星を見上げたのなんか久しぶりだったから、割と夢中で、それこそものすごい阿保面で見ていた気がするけれど……口は開けてなかったよな?

「何なら、私が教えてあげようか?」

「……いや、いらない」

「ふうん……、まっ、気が変わったら言ってよ。その時にはちゃんと先生するからさ」

 その時は、うん、頼むよ。とは言ったものの、その時とやらは訪れないと思う。魔術に対する憧れはあるけれど、怪物扱いされるのは御免だ。ただでさえ、僕は、町の人から腫物を触るような扱われ方をしていると云うのに、異能まで手にしてしまったら、いよいよ以って仲間外れをされかねない。そうなってしまえば、面の皮の厚さに定評のある僕と云えども、エングルスに居続けるのは難しい――そう云えば、ミナーヴァは、僕が、僕の意志で故郷を捨てると言っていたが、あれは、あるいはそう云う意味だったのだろうか? 

 ねえ、と彼女を呼ぶ。

「うん?」

「ミナーヴァは、結局、僕に何をやらせたいの?」

「それは、どういう意味かな……?」

「さっき、森を抜けた時にミナーヴァは、僕が、自分の意志で故郷を捨てると言ったけれど、僕は――少なくとも今の僕には、エングルスを離れるつもりがない」

「そうだろうねえ」

「だったらミナーヴァは、何のために此処まで――僕に会いに来たの?」

「……先に言っておくけど、君がこれから迎える悲劇ってやつは、わざわざ私が何をしなくとも、勝手に君を襲う――つうか、もうすでに悲劇自体は始まってるんだぜ? だから、私が君に何かをやらせるような事は無い。あくまでも私は、ただの傍観者なのさ」

 しかし、傍観者だと言うのなら、僕と直接に関わる必要は無かったはずだ。

「それは確かにその通りなんだけどね……、なんだろ、ドルオタの心理みたいな感じなのかな? 別に、お付き合いしたい訳でも、結婚したい訳でも、まして、君の人生に大きく干渉したい訳でもないんだけれど、なまじっか応援している自覚があるものだから、認知はしてほしい――みたいな」

「……なるほど?」

 よく分からなかった。

「まあ、兎にも角にも、強いて今の君に言ってあげられるのは一つだけ――君が辺境伯と幼馴染君の思惑を気にする必要は無い、ってことさ」

「思惑って……知ってたの?」

「知っていた訳じゃあ無いけれど、何となく、察しは付いてたさ。魔法使いなんぞをやってると、どうしても政とは無関係でいられないからね……、だから、君が気にする必要は無い。それは私の問題だ。これまで通り、のらりくらりと躱して見せるさ。まーあ? 躱し損ねて、君と契りを交わすことになったとしても、それはそれで、私的にそんな悪い展開では無いしね」

 むしろアリよりのアリ。そう冗談めかしたミナーヴァは僕の左手を掴み、ゆらりと、煙が薫るかのような緩い動作で立ち上がった。「さて、私も長旅で疲れてるし、君も君で疲れてるだろから、今日はこの辺にして、もう寝ようぜ」と、僕を引っ張っる――ふわりと身体が宙に浮き、ベッドに優しく叩きつけられた。

 ミナーヴァの起術反応は綺麗だ。

「今のも魔術なの?」

 ぐいっと押し倒される。

「ああ、そうだよ。身体能力を強化したんだ」

「ミナーヴァの腕は細いのに、軽々と僕を投げるだなんてすごいね」

 言いながら、僕は寝台から下りた。

「ベッドはミナーヴァが使いなよ。僕はソファで寝るから」

「えー、それじゃあ体が休まらないだろ!」

「僕の場合はむしろ、そんな柔らかいベッドの方が休まらないよ」

 いつも安物の堅い寝具で寝ている僕には、そんな柔らかいマットレスは勿体ない。

「灯り、消すね」

「はいはい、おやすみ、ノート」

「おやすみ」

 ソファの前にあるローテーブルの上の燭台にて、溶けながらに輝く三本の灯火を握り潰してソファに横たわり、ゆっくりと夜空を見上げた。

 星座の名前は、あまりよく知らない。

 そも、夜空を見上げる習慣が無かった。夜の静寂が苦手だから――僕はいつも、瞼を閉じるのとほぼ同時に夢へと堕ちるのだ。でも、今日は少し違った。愉しそうに妄言を謳う、ヘンテコな魔法使いと出会ってしまったからだろう――冠を戴く滑稽な自分の姿を妄想して、その馬鹿馬鹿しさを鼻で嗤った僕は、ミナーヴァの寝息が聞こえるまで、星々を望んでいた。

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