ひき逃げ男
丘月文
ひき逃げ男
私はホテルのロビーで人と待ち合わせをしていた。ただ相手を待つだけの手待ち無沙汰な時間だ。
見るともなしに周囲を眺めていた私は、一人の不審な男を発見した。
格好は特に怪しげではない。デニムのパンツにパーカーとラフな姿で、これからちょっと観光にでも行くような雰囲気だ。
だがよく見ていれば、彼が落ち着かない様子で周囲をうかがっていることが分かる。そわそわと不安げに、しかし何かを探すかのような目をしているのだ。
私は注意深く彼を観察した。もちろん、そうと悟られぬよう、スマホをいじくっているフリをして。
彼は不意に歩きだし、そして迷うことなくそこへとたどり着いた。
そのピアノの前に。
私はこの時まで―彼がそのピアノの前に立つまで―その存在にまったく気付いていなかった。
調度品のようにぽつんと壁ぎわに置いてあったのは木目が美しいアップライトピアノ。
躊躇うことなくピアノを開けると、彼はさっと椅子に座った。
まさか、と、私が思った瞬間。
――タ、ラ、タララ、タラララララ、
重なる旋律。寄せては返す音の波。聞き覚えのある、それは。
(…………………バッハ、だ)
流れるその曲を私は思い出した。
(『主よ、人の望みの喜びよ』だ)
静謐で慈愛に満ちた
ほんの少し前まで、こんなことが起こるだなんて予想もしていなかった。そもそも、この場にピアノがあったことさえ知らずにいたというのに。
なんという幸運。私はうっとりとピアノの音に耳を傾ける。
気付けば、同じようにロビーにいた人々は彼の演奏に聴き入り、行き過ぎる人さえ足を止めている。
いち早く彼を発見していた私は少しばかり得意気だ。
曲は続く。繰り返し、寄せて返す。波のように。風のように。
周りの人々は彼の音楽に入り込み、心を預け、また楽しんでいる。そんな時が数分間続き、そしてついに演奏が終わった。
私は思わず拍手を送った。
彼は恥ずかしげに、しかし少々得意気に、丁寧にお辞儀をすると、まるで逃げるように外へと出て行った。
後日に知ったのだが、彼のような行いを『弾き逃げ』というらしい。
成る程、だとするのなら、目撃者は多ければ多い方が良いに違いない、と私は笑った。
ひき逃げ男 丘月文 @okatuki
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