編集済
貴重な戦争体験のお話ありがとうございます。
恐らく大分昔にお聞きになられた話かと思いますが、時系列や状況が詳しく書かれており、感服いたしました。
私の祖父もシンガポールの空港の開発でシンガポールに行ったらしいですが(軍人ではなく土木工学の学者として)、オランダ人捕虜が土足で作業するのに慣れてなくて衛生面で亡くなる事が多くて苦慮したらしく、地元民から鶏を分けて貰ったりしていたらしいです。
ですが、戦後軍人でもないのにも関わらず祖父は捕虜虐待の疑いで裁判を受けて、捕虜によれば食事に出されていたゴボウを木の根っこを喰わされていたと主張したとのことです。
あやうく祖父は処刑にされるところでしたが、コックに雇っていた華僑が、祖父が苦心して鶏を調達していた件について発言してくれたり、祖父と一緒に居た部隊にたまたま僧侶が従軍しており、死んだ捕虜を弔っていた事から死刑を免れたという出来事があったそうです。
私の場合、祖父から直接聞いたのではなく、幼い頃に祖父は亡くなり、父から伝え聞いたので何処までが事実か分かりませんが、直接聞いてみたい話でした。
この時、祖父が死んでいたら今の私が居ないと思う気持ちは同じで、感慨深いですね。
作者からの返信
麗玲 様
返信ありがとうございます!!
祖父からの話は、何度も何度もよく聞いていたので覚えておりましたw
麗玲さんの
「オランダ人捕虜が土足で作業できずに病気になる」という話は、現場にいた人ならではの話ですね。
戦争で敗れた側は容赦なく「処刑」されることがままありますが、お爺さんも完全に巻き込まれそうな危ない状況でしたね。
日頃の行いが、華僑の方と僧侶の方に響いて助かったので何よりです。
おっしゃる通り、あの時代は死が隣り合わせだっただ、生き抜いた人たちの子孫であることが何やら感慨深いものを感じます。
価値のある凄い話ですね。
私は祖父母に戦争の話は聞けなかったです。
祖父は中曽根康弘と同じ船に乗っていたと言ってました(青葉??)
祖母は広島の県庁に勤めていましたが、8月6日にたまたま遠い親戚の葬儀の為に仕事を休み、山の方へ行っていた為に命拾いしたそうです。
原爆で県庁は吹き飛び、一緒に働いていた人達は皆いなくなったと聞きました。
偶然が重なって、みんな生まれたんだろうと思います。
作者からの返信
塩塚様
いつもありがとうございます!またツイッターでの励ましもありがとうございました。
お爺様、青葉の乗組員とはすごかったんですね。海軍は撃沈されれば確実に死と言われてたようですから本当に運が良かったんですね。
しかもお婆様も、その親戚の方のご葬儀がなければ原爆投下に見舞われ…
あの戦争がいかに凄まじかったのかを感じずにはいられません。
貴重なお話、ありがとうございます。
私も幼い頃、戦場に臨んだ祖父の話を聴きましたが、ヨシダケイ様のように大系的に聴き留めていなかったのが、悔やまれます。
>黒河よりすぐに十五キロの道を自動車で山>神府憲兵隊に戻った。
私の祖父は、当時から車の運転や整備が出来、重宝されたと話してくれたことを思い出しました。
作者からの返信
秋山文里さん
返信遅れてすみません。
感想ありがとうございました‼️
秋山さんのお爺さんは、車の運転や整備ができたということは、優れた整備士だったのでしょう。おっしゃるように当時、車の運転が出来る人は少なかったと思いますので。ちなみに、祖父は満州では「馬」を移動手段としてたとも語ってました。まだまだ語らなきゃならない話がたくさんありますね。