第4話

風邪を引いた。熱を出した。

夢を見てしまうから、眠れなくて、眠りたくなくて。

すっかり情緒不安定な私を見て、お抱えの医者はマリッジブルーだろうと診断した。

もしかして、本当にそうなのかもしれない。

心から幸せになれる未来を想像出来なくて不安だから、心が揺れてしまうんだ。

月明かりが入らない様しっかりとカーテンを閉めた部屋の中で、ギュッと自分の膝を抱きしめる。

 明日は、私とペルレの結婚式だ。

幸せな花嫁になれよ、と珍しく顔を朗らかにしたグラウ兄様が言っていた。

私の頭を大きな手で嬉しそうに撫でるロート兄様。

ブラウ兄様は、まるで経験があるかの様な口ぶりで、私に花嫁としての心得を語った。

旦那様には、優しくしてやれよとか。暴力を振るっちゃ駄目だぞ、とか。

それを見て、父様と母様は幸せそうに泣き笑いした。

やれやれと肩を竦めるシュバルツと、寂しそうに眉を下げるヴァイス。

なのに、私は曖昧な笑みを浮かべるしか出来なかった。

おもむろに顔を上げれば、鏡台の鏡に真っ白な自分の顔が映る。

指で口角を無理やり上げてみたけれど、目尻の小皺がにゅっと歪んだだけだった。

十二年は、短くない。

酷く切実に、そう感じた。


***


 教会の鐘が鳴る。

透ける様な青空の下、私の結婚式を祝福する様にさまざまな色の花びらが舞った。

最後にもう一度鏡で姿を確認して、透明な白のベールを被る。

ヴァイスが、私のベールとドレスが地面につかない様そっと持ち上げた。


「姉様、おめでとう、ございます……。虐められたら、すぐに帰って来るんですよ?僕が、そいつをシメに伺いますから」


すぐ傍に佇むペルレを一瞥して、ヴァイスがにこりと笑う。

苦笑するペルレと互いに顔を見合せて、私はヴァイスの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。

物騒な事を言う弟である。

けれど、確かな暖かさがじんわりと胸に広がった。


「……姉様、式の直前でこういう事は止めてください。帽子を被らないといけなくなるじゃないですか」

「あなたがあんまり可愛い事を言うのが悪いわ。大好きよ、ヴァイス」


いじけて見せる弟の頭をもう一度撫で、私は差し出されたペルレの腕をそっと取った。

いつも通り、穏やかな笑みを浮かべるペルレ。

真っ白なタキシード。真っ白なドレスを着た私。真っ白な教会。

窓の外で真っ白な鳩が何羽か飛んで、それを合図に私たちは誰ともなく礼拝堂へ赴いた。

招待客の視線が一斉に集まり、丸眼鏡をかけた神父が優しい笑みで見つめて来る。

つい視線を招待席へ滑らせたけれど、望んでいた姿は見つからなかった。

心底、ほっとする。

けれど、同時に耐え切れない程の悲しみも襲って来た。

私は結局彼に何も伝えられないまま、他の人の妻になる。

『おめでとう、おめでとう!』

『いやーこれで我が国の未来も安泰だな!』

『摂政王さま……じいは嬉しいですぞぉ!』

私の気持ちなんて素知らぬ招待客たちが、優しい笑みで祝福する様に手を叩く。

その音に神父が慈愛に満ちた表情で頷き、緩慢に口を開いた。ああ、眩暈がする。


「新郎ペルレ・エーデルシュタイン・ドラッヘ・フェアシュプレヒン公、汝は新婦ローゼ・ヴルカーン・ライン・ブリレ・アルムホルト嬢が病める時も、健やかなる時も愛を持って、生涯支えあう事を誓いますか?」

「誓います」


問われた誓いの言葉に、ペルレが力強く頷いた。

酷くなる眩暈。私はこれから、思ってもいない誓いの言葉で、神を、ペルレを、自分自身を欺くのだ。


「新婦ローゼ・ヴルカーン・ライン・ブリレ・アルムホルト嬢、汝は新郎ペルレ・エーデルシュタイン・ドラッヘ・フェアシュプレヒン公が病める時も、健やかなる時も愛を持って、生涯支えあう事を誓いますか?」


ああ、やっぱり。

当然ともいうべき流れに、花束を握る手が小刻みに震えた。

けれど、大勢の招待客を前にいつまでも押し黙っているわけにもいかず、私は緩々と口を開いた。


「…ち、誓いますわ…」


その時。


「はい、ストップ。そこまでです。神様が見ているのに、嘘なんてついちゃ駄目でしょう?罰が当たりますよ、ローゼ」


唐突に響いた足音と声。

脳髄に、じんと響いた。

呼ばれた名を反芻しながら、信じられない様な気持ちで振り返る。


「ア、アイト……。何で、来たの」

「招待状(しろばら)を頂きましたから。蕾だった薔薇も無事に枯れて、まぁギリギリ二ミリですけど、目標も超えましたし?早速、攫いに参りました」


白い光の中で佇む少年の姿に目が眩んだ。

正装ではなくいつも通りの格好で、アイトは枯れた一輪の白薔薇を手に、淡く笑っていた。

招待客の騒めきなんて聞こえていないかの様な面持ちで、平然と差し出される手の平。

黒い皮手袋との距離は、たった数メートルだった。


「ほら、ぼうっとしていないで下さいよ。自分がすべきことは分かるでしょう?」


彼の手を取れば、どんな結果になるかは勿論分かっている。

とても愚かしい事だとも。

けれど、伸ばさずにはいられなかった。

私より僅かに高くなった月色の瞳が、綺麗な三日月形に細められる。

暖かな指が、私の物を絡め取った。


「では、叔父上。お預けしていた僕の花嫁は、頂いて行きますね。今まで僕の代わりに面倒を見ていて下さって本当にありがとうございました。幾千にも、幾万にも、ごきげんよう」


私の手を強く握ったまま、アイトは相変わらず気障な動作で一礼した。

それと共に、思い出した様に広がる騒めき。喧騒。振り返れば、涙で滲んだ視界には呆然とするペルレと混乱した家族の姿が映った。

本当に、ごめんなさい。

彼らに小さく頭を下げ、私はアイトに手を引かれるまま礼拝堂を駆け出た。

後でどんなお叱りでも受けるから、今だけは許してと酷く我が儘な事を願いながら。


 白い薔薇が咲く墓地を走り抜けて、丘に登る。

古びた教会の扉を開ければ、アイトは少しほっとした面持ちを浮かべた。

流石にここに来たとは思わないだろう、と独り言ちる様に呟く。

その頬に振る、優しいステンドグラスの光。綺麗な綺麗なあなた。

あまりにも現実味のない光景に、再び涙が零れた。

やっぱり、私は夢を見ているんじゃないだろうか。

都合の良い、夢の様な夢を。


「……全く。泣き虫なおばさんですね。元から肌の水分が枯渇気味なのに、これ以上乾燥したらどうするんですか」

「肌が乾燥してて悪かったわね。嫌なら、あなたの婚約者でも探しに行けば良いじゃないの。確かまだ八歳だったでしょう、イーリス嬢は。きっとお肌もぴちぴちのぷにぷによ」

「それはとても魅力的な提案ですが、残念ながら副宰相にシメられそうなので、やめておきますよ。

婚約者と言ってもまだ本決まりじゃありませんでしたし。それにあなたが叔父上と婚約なんてするから、むしゃくしゃしてやっただけに決まっているでしょう?」


妖精(エンプ)の様に悪戯っぽい笑顔で、アイトが笑う。

全く。とんだ我が儘坊ちゃんに引っかかった物だ。自分の事ながら趣味を疑いたくなる。


「……相変わらず、衝動的なのね。本当に不誠実(ふまじめ)な人」

「おや、酷い事をおっしゃいますね?誓いの言葉を幾ら囁いた所であなたは信じない癖に。前から薄々思っていたのですが、おばさん、思考が大分ファンシーですよね。口では信じないとか言っていても、本当は期待してるんでしょう?永遠の愛を」

「う、うるさいわねっ!幾つになっても女ってそういうものなのよ!」


図星を刺されてしまい、思わず大きな顔に血が昇る。

何でも見透かされていたみたいで、非常に恥ずかしい。

そんな私を見てアイトはくすくすと笑うと、相変わらず不誠実な顔で、甘やかに声を潜めた。

近い距離にある唇に、ぞくりと眩暈がする。ああ、今なら、どんな嘘でも信じれそう。


「――だから、証明してあげますよ。僕の一生と、あなたの一生をかけて。どうせ、あなたはおばさんだから、僕より先に死ぬんです。あなたが死ぬまで変わらない愛があれば、僕が不誠実じゃないって信じて下さるでしょう?」


私の髪に、そっと枯れた白薔薇を挿し込みながらアイトは優しく微笑んだ。

涙が滲む目元に軽やかなキスが落ちる。


「……枯れた白薔薇を送るなんて、随分気障な事をするのね。ちゃんと意味は分かっているの?」

「ええ。あなたに生涯を誓ってあげると言っているんです。もう愛するには若いなんて言わせません。だから大人しく僕と人生の墓場に入って下さいよ」

「……私、あなたよりずっと早く皺くちゃになるわよ。あなたはまだ若いのに、こんな誓いを口にして恐くないの?私、あなたが嘘をついたら遠慮なく針千本飲ますわよ?」

「仕方ないじゃないですか。インスタントな愛情じゃ満足してくれないから、一生をかけるしかなくなったんですよ。惚れた方が負けってやつです。すでに肌が乾燥していようが、目尻の小皺がここ数ヶ月でまた増えようが、あなたを好きになってしまったんですから、今更皺くちゃくらいでどうにもなりませんよ」


やれやれと言う風にアイトが肩を竦める。

その言葉が妙におかしくて、嬉しくて、私は思わずくすりと笑ってしまった。


「神様が聞いてるんだから、嘘は駄目よ?」

「あなたの方こそ。こんな幼気な美少年を誑し込んだんだから、ちゃんと責任は取ってくださいよ。僕はまだ、あなたが言う誓約(うそ)すら頂けてないんですけど。お子ちゃまなので、とびきり甘いのを下さい。チョコレートよりも、キャンディよりも、ずっと、ずっと」


綺麗な月色を細める顔が、あまりに可愛らしくて。

気付いた時には、アイトの頬に手をやり、唇を重ねていた。


「あら、顔が真っ赤ね。耳も凄く熱いわ」

「う、うるさいですね!あなたと違って、こっちは初めてだったんですよ!」


頬を真っ赤に染め上げながら、アイトは年相応に表情を崩した。

私も一応今世では初めてだったんだけど、それを伝えるのは何だか癪だから、取りあえず黙っていよう。


「これで責任逃れは出来なくなりましたね。ちゃんと愛してくださいよ。ヤリ逃げは許しませんから」

「ええ。嘘が、真実に変わる日まで。ずっと、あなたを愛しているわ」


これからの事を思うと、頭が痛くなる。

きっと、大変な事も沢山あるだろう。十二年の時間はけして短くないのだから。

けれど、健やかなる時も、病める時も。

死が二人を分かつまで。

あなたが甘やかな嘘をつき続ける限り、私は騙されていよう。



(fin.)

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