第 三 十 五 話
某年某月、署内施設にて奇妙な音が聞こえてくるとの報告を受けて、私はそこへ向かった。原因に目星は付いていたので、「それ」を目撃したときも私は大して驚くことはなかった。
「無駄ですよ、そんなことをしても。そんなに簡単に牢を破られたら我々の面目は丸つぶれだ」
牢屋の中には一人、男がいた。男は片腕をあげて力を込める。するとその腕はきれいな緑色に変色し、先端が刃物のように尖り始める。変形が終わると同時に、男はその腕を格子に向かって斜めに振り下ろす。
まずい、と思い私は急いで耳を塞いだ。まるで黒板を爪でひっかいた音よりも、もっとたちの悪い音が署内に響き渡った。
「やはりだめか。だがたとえ無理だとわかっていても、次こそは何か現状が変わるかもしれない。そう思うことってあるだろう」
男の自慢の爪先は醜く砕け散っていた。
「その諦めの悪さをもっとポジティブなことに使ってほしいんですがね、斗森さん。ここの職員達も迷惑している。金輪際、さっきみたいなことはよしてください」
「そんなことより、だ」
彼は格子ではなく、会話の流れを断ち切った。
「見つかったかい?あいつは」
「あなたのおかげで問題なく、身柄を確保しましたよ。今はとある理由で病院にいますが、そのうちここに来ることになるでしょうね」 私は冷静に嘘偽り無く、事実だけを述べた。「そうか、ここに来るとなると、気まずいね。なんてったって道ずれにした相手だ。収容するのはなるべく遠くの部屋にしてほしいものだ」
「彼は……話してくれましたよ。一から十まで全部」
私も会話を遮るようにして続けた。
「強引な聞き方をしてもさわりの部分しか話してくれなかったあなたとは大違いだ」
「ああ、そう。じゃあこいつのことも知ってるか」
私は気持ち程度で置かれている鉄製の机の下から出てきたそいつを見て目を丸くした。まるであるはずのない幻覚を見せられているような気分に陥ったのだ。
「まさかとは思うが、カモノハシなんて呼ばないよな?」
「ビーク!」
紛れもなく、それは先日私が捕らえた合成獣と同じ生き物だった。
「やれやれ、こんな大きな生き物の持ち込みを許してしまうとは。案外ザルな警備だな」「イマイチ状況が掴みきれないな。どうやってここに持ち込んだんだ、とかなんで今までばれなかったのか、とか聞きたいことは山ほどある。でも一番に聞きたいのは、何でこいつがあなたと一緒にいるのかだ」
斗森は不思議そうな顔をしていた。
「なんでって、あいつから聞いてないのか」
「ビークが二匹いるなんて今初めて知った」
「ははあ、どうやらあいつは全部正直に話したわけじゃないらしいな」
私は正直に言って、かなり困惑していた。確かによく考えてみれば、会って間もない男の奇天烈な話をどうしてここまで信じ込んでしまったのか。いや、最初のうちは疑っていたかもしれない。でも巧みな話術にはめられてしまった。
「一体、何が本当で何が嘘なのか……」
「安心しなって。こいつを見て一瞬でビークと呼ぶあたり、九割方は本当の話をあんたは聞いたんだと思うね、俺は。証拠としてこの言葉を贈ろう」
斗森は言った。
「未来は最初から一つに決まっている、だ。あいつが自慢げに話していた説。これは聞き覚えがあるだろう?」
確かに、私は奴からその話を聞いた。そして最後は「自分は最初から逮捕される運命だった」と悟っているようだった。
「ああ、黒原から聞いたさ」
「それはよかった。じゃあこの説が果たして本当なのか検証してみようじゃないか」
彼は突然、こんな風なことを言い始めた。
「不思議には思わないか?間違いなくビークは俺達が生みだした生き物だ。俺達以外の人間が知っているわけがない。なのに周りの人間はこいつのことをしっかりと認知していて、カモノハシという名前呼んでいる」
私はその話を聞いていて頭がどうにかなりそうだった。
「俺達が生み出すまではこんなヘンテコな生き物はいなかったんだ。それは間違いない。たまたま俺達が無知でカモノハシという生き物を知らなかったとか、そういうことでもない。絶対にいなかったはずなのに、こいつがこの世に生を受けた瞬間、世界が誤作動を起こした」
斗森はビークを抱えて私に差し出した。
「このままじゃダメだよな。誤作動は直さないと。要するに辻褄を合わせないといけない。幸いビークは二匹いる」
「私があなたがたの尻拭いをしろと?」
「もちろん、できることなら自分でケリをつけたかった。でも俺もあいつも、この場所から出ることができない。となると事情を知ってるあんたにしか頼めないんだよ」
深々と頭を下げ、より前にビークを突き出した。私は観念するほか無かった。
「おい、係官!こんなところにカモノハシが棲み着いているぜ」
私が大声で知らせると、事務室から一人の男がやってきて、そいつを取り上げた。
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