第 三 十 ニ 話

「微生物同士の合成に着手し始めた頃は、ああやって早めに来てたんだった。あんな劇的な独り言を言っていたのは刑事物の映画を観た後だったからだ。今やっと思い出したよ」「本当に、お前と居ると心臓に悪い」

 近くに居たビークを撫でようとしました。すると、僕の指を自慢のクチバシでくわえようとしてきたのでパッと手を引き、つまむようにクチバシをおさえました。ビークは「ブー」と鳴いていました。

「まあ、いい。何の問題も無く準備が終わってよかった」

「一番の収穫は……これだな」

 斗森は赤色の小さい冊子を見せました。大々的に菊のマークが印されいます。

「昔のパスポートっておしゃれだったんだな」

「今ではもう電子化が進んで見ることも少なくなっているが……。何でもかんでもデジタル化するのはどうかと思うけどな。大昔のパスポートは偽造も簡単、ほらお前の分」

 彼の投げたそれを僕はキャッチしました。

「投げるな」

「他にもいろいろ買ってはみたけど、使うかどうかはイマイチかもな。それに、こんな物無くてもなんとかやっていけるような自信があるんだ」

 根拠にない地震ほど怖いものはない、それを僕達は身に染みて感じただろう。というようなことを言いかけましたがやめておきました。今から遠くへ逃げようとしているのにそんなことを言うのは何せ縁起が悪いです。

 僕達はしばらくの間その場所で雑談をしていました。あの時お前はこんな馬鹿なことをしただとか、高校時代なんとかちゃんのことが実は好きだったとか、本当にたわいもない話です。長年ともに過ごしてきた仲間との別れというのは、意外とドラマチックなものではありません。ですが、僕は今後の人生でこの瞬間を忘れることは絶対にないでしょう。そう感じさせる本当に豊かな時間を過ごしていました。

「たまに人間を作ろうなんて考えなかったら、今頃どんな生活をしているんだろうと考える時がある」

「無いよ、そんな世界線は」

 僕は一秒の間も開けずに答えました。

「例えば僕達が三佳村さんと出会わなくて、科学サークルにも入らず、お前が微生物の合成なんてしなかったとする。それでもその時はその時だ。僕達はまた何かしらの環境や力に振り回されて、誰かを作ろうと奮闘するだろう」

 未来は最初から決まっていて、たとえどんな過程を辿ろうとも同じ結末になる。という説を僕は唱えました。

「それは、いいな。なんてったってあの時ああしておけば……って考えなくて済む」

「どの道、パラレルワールドの事なんか考えない方がいいさ。そんな物があるのか無いのかは置いといてな。そうじゃ無いと辛すぎる」

 人とはどうにもならないことで悩んでしまうものです。この時はその顕著な例と言ってよいでしょう。「考えないほうがいい」なんて言いながらも、僕達はそういう思考を巡らせていました。

「三佳村さんには、本当に悪いことをしたな。人の都合に勝手に首を突っ込んで、好奇心に任せて行動した結果、彼女を追い詰めることになってしまった」

 斗森は頭を抱え、今にも途切れそうな声で言いました

「申し訳なかったと思っている」

「でも、少なくとも三佳村さんはお前のことを嫌いだとは思ってなかったと思うね。それはあんな喧嘩別れしたとしても」

 僕はビークを入れるために用意したケージを開封しながら言いました。

「三佳村さんは自分が自ら犠牲になったことについて手紙で実験を成功させるにはこうするしかなかったとか、事の始まりは自分がきっかけだったからとかそんな風に書いていたけど……。一番の理由はお前が研究のために、自分を犠牲にするヤツだってわかってたからじゃないかと思うんだ」

「じゃあ俺を守るために、自分を?」

「今となっては真相は藪の中、だけどね」

 斗森はビークを見つめていました。

「悪かったな」

 ビークは気にせず、組み立てたケージの中へと入っていきました。

「でも、それじゃやっぱり振り出しに戻っただけじゃないか、阿保だよ。あの人は」

「ああ、確かに。生粋の阿保でいい人だった」

 支度も少しずつ整い始め、僕達に別れの時間が訪れようとしていました。おそらくこれが最後の会話だと理解していたからだと思うのですが、彼と話している時間はとても短いものに感じました。

「なあ、終わったか?」

 斗森が尋ねます。

「ああ、もうどんな時代に行ったとしても怖くない。準備バッチシだ」

 僕達ははふっと微笑んでゆっくりと立ち上がり、あの古びた冷蔵庫を目指して歩み始めました。 

 何てこと無い一室の、何てこと無いとある夕暮れのことでした。

「じゃあな」

「ああ。元気で」

 斗森は僕に別れを告げて、適当な数字にダイヤルを合わせます。そしてその冷蔵庫に飲まれていきました。

「まったく、客観的に見ても衝撃シーンだな、これは」

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