第 三 十 一 話

 フラスコの中は坂下裕人の鮮血で赤くなり、大きなワイングラスを見ているようでした。

 言われた通りに一切合切をフラスコの中に詰め込んでいると斗森は最後にビークを中に入れました。僕はその特徴を忘れていました。

「そういうことか」

「ああ、あとはこれで合成を開始すればいい」

 フラスコの蓋を閉め、特に惜しむような素振りもせずに僕は合成のスイッチを入れました。特に変わった様子はありません。以前と同じように、それらは全てビークに吸われてこの世から無くなりました。

「他を凌駕し、どんなものにも影響を受けない存在。だったな」

 斗森がビークを引き上げます。

「ケロッとしている。恐ろしい奴」

 ビークはもう斗森を嫌がってはいませんでした。

「俺の腕の刃の気配が気にらなかったんだろうが、慣れたのか」

「もうちょっと隠滅したい物があるから、頑張ってくれよ」

 そしてついに、僕達は科学の城をただの廃校舎にまで戻してしまいました。

「やっと、終わった」

「質量という概念はないのか、こいつ」

 依然としてビークに変わった様子は見られません。斗森はビークを迎えました。でもこれまで通りに優しくではなく、殺意剥き出しの腕でです。

「おい、何やってる?」

 斗森は答えました。

「何って後はこいつを埋葬して、一件落着だろう。悲しいことだが仕方のないことだ」

 ビークは怯えている様でした。人間の様に表情で気持ちを読み取る事はできませんが、奴の挙動でそれを理解できます。

「ま、待てって。僕がそいつを責任を持って預かるよ」

 今になってみると、僕はどうしてこんなことを言ったのでしょうか。自分でもわかりません。怖がるビークを可哀想と感じたのか、はたまた大事な実験結果を失うのが惜しかったのか。とにかく僕はビークに死んで欲しくないと思ったのです。斗森からは生物実験につながる唯一の証拠だから決して、人には見せない様にと忠告を受けました。こうして僕達の作り上げた結晶が「ビーク」なのです。

 警察から遠くに逃げる方法を二人で思案した結果、「二人共バラバラの時代にタイムマシンで飛び、適当に暮らす」のがやはり最適だろうという結論に至りました。自身の知らない時代でたくましく生き延びるためには、当然ながらかなりの準備が必要です。僕達は一度、まだ坂下を作ろうとするよりも前の時代に飛んで逃避行に備えることにしました。

 何もこの時代ではなくても準備することは可能なのです。でも三人で仲良く活動していた頃の僕達の姿をこの目に焼き付けておきたかったのです。斗森には

「見つかるかもしれないし、危険だ」

 と言われました。本当にこの男を説得するのは大変、骨が折れます。

「なあ、気持ちはわからなくもないが、もうそろそろ離れた方がいいと思うな」

「なあに、時間的にもまだ余裕はあるだろう」

 僕達は思い切って科学準備室に潜入しました。まだ坂下作成のための器具も、実験によって生まれた合成生物もいないこの部屋を見るのは久しぶりでした。とてもノスタルジーな気分になります。

「ん、そんなの坂下の城に物を移した時に見ただろう?全部あっち側に運んだ後の準備室は随分スッキリしていた」

 斗森は不思議そうに言いました。

「それでも違うんだよ、何かが起きる前と後じゃ気の感覚が違うんだ」

 彼は「ふーん」と興味が無さそうです。そんな呑気なことを話していると、科学室の入り口の扉が開く音がしました。誰かが入ってきたのです。

「馬鹿な、活動時間はまだ三十分くらい先のはず」

「いいから隠れろ!」

 急いで身を潜める場所を探します。僕は掃除用具を入れる縦長の物入れの中に、斗森は近くにあった机を死角になる様に配置し身を隠しました。

「そこにいるのはわかっている。さっさと出てくるんだ」

 準備室に入ってきた男はそう言いました。紛れもなく、それは斗森の声でした。

「物盗りだとしたら運の悪いことだ。ここは実質、不要な備品を置いておくための物置部屋に過ぎない。お宝なんて、無いわけ。今すぐ自首したら多少、刑は軽くなるかもな」

 完全にばれている、と僕は思いました。すぐにでもここを飛び出して自白してしまいたかったです。

「と、言っても誰もいないか。何か物音が聞こえた気がしたんだが、どうやら気のせいだったらしい」

 僕は額の冷や汗を拭いました。出ていかなくてよかった、この瞬間ほど自分の臆病さに感謝した事はありません。こんなふうな独り言を喋った後、彼は意味のなくその部屋を見回った後、この部屋を去っていきました。

「行った……か?」

「今だ、逃げるぞ、早く早く!」

 一目散にその場から撤退しました。

「どうだ、手強かったろう。俺は」

 元坂下城、現旧校舎に戻ってきて、一言目に斗森はそう言いました。

「ああ、それはもう大層手強かった。あんな自信満々に独り言を言う人間がいるとはな」

 斗森は頭をかきました。

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