第 十 九 話
その雨蛙は間違いなく、辞書との融合に成功しています。ですが結果は端末の予測とは少し違った物で、辞書は頭部収まっているのではなく背中に羽のような形で張り付いています。今にも紙の翼をバサバサ羽ばたかせて飛んでいってしまいそうです。
「そんなに先の話でもないんじゃないか?精度百パーセントの完璧な予測マシン」
「それもそうだけど、今は他にやることがあるんじゃない?」
三佳村さんは言いました。
「ほら、知能テストをしないと。何かいい方法はないかしら」
うーん、と僕達は唸りました。実験対象が猿であれば高い場所にあるバナナをどのようにして取るのか、というような実験をするのでしょうか。いかんせん眼前に佇むのは立派な蛙ですから、どういう知能試験をすればいいのかわかりません。
斗森は準備室の棚をガサゴソ漁って、錆びたペンケースを取り出しました。
「いや、これに何か特段の理由があるわけじゃないんだけれど」
それを机に置くとガシャっと音を立てました。
「これで何かやってくれるんじゃないかと思って」
「そんな、曲芸師じゃあるまいし」
辞書蛙は目の前のペンケースを開けようと努力しました。形状からその場所はパカっと開く、ということは理解しているようでしたが、しばらくすると諦めてしまって寝そべるようにしました。
「今の環境じゃこれは開けられないって思ったのか?」
「割りに早いうちに諦めたな。根性のないやつだ」
僕はペンケースの蓋を開けてやりました。中にはもう人の手では握ることのできないぐらいに短くなった鉛筆が数本と、よく分からない紙くずが入っていました。
「これレシートだ。もうめっきり見なくなったよな」
「何もかも電子化が進んでる。紙は淘汰される運命なのかもしれない」
そこにはコンビニでジュースを買ったことが残されていました。くしゃくしゃに丸められたそれをなんとか広げて、前に差し出しました。するとぴょんっとそいつは起き上がり、ケースの中の鉛筆を手に取ります。ミニマムなそのサイズは奴のために作られたのかと思うくらいにジャストサイズでした。丸くなった黒鉛をレシートの上で滑らせました
「驚」
レシートの上に印字されている文字の上から、辞書蛙はその複雑な漢字を書いて見せまいした。驚いたのはこちらの方でした。
「辞書の情報が全て雨蛙にインプットされているのか?」
「す、すごい。それもかなりの達筆だな」
「書道家みたいね」
その一文字を書くと疲れたのか、また横になりました。今度は片手で頭を支えて休日のオヤジのような寝方です。
「だとすれば、こいつはもう僕らより語彙力は高いかもしれないぞ」
斗森と三佳村さんは苦笑しました。
「とうとう自分たちより知識のある生物を作っちゃったのね……」
「しかも、気まぐれな芸術家肌でプライドが高そうです」
奴は自慢の背中をパラパラとなびかせています。
「でも、これで一つ分かったことがある。この合成実験は素材の材質とか、構成している物質意外の要素も、結果に影響を与えるってことだ」
僕は大きく頷きました。
「そうじゃなきゃ、今回の実験だって本の引っ付いたカエルが出来て終いのはずだからな」
「本来ならそれでも十分いすごいことなんだけど」
三佳村さんは奴の背中のページをめくってみました。中身は合成前の辞書と全く同じなようです。
「もう、そんなことですごいと思うような俺達じゃないですよ」
斗森は筒状の入れ物の蓋を開けて、中に入っている熱帯魚用の餌をエンゼルアンコウ合成体が泳いでいる水槽の中に適量落としました。絢爛なヒレを震わせて、嬉しそうに食事を楽しみます。
「俺達の最終的な目標は人間なんです。そうなるとかなりの知能素が必要になるでしょう」
「待て、急に聞き覚えのない単語を使うなって」
ちのーそって何、と三佳村さんは斗森に聞きました。
「混ぜた時に、完成した生物の知能が上がる素材。知能素材で、知能素。今考えた」
突拍子もない、と思いましたが、何かしら呼称する名前があるのは便利です。名付けの才を生まれ持ってなかった彼にしては、響きもなかなか素敵です。
「知能素、ね。でもどうだろうか。」
僕は一つ、疑問がありました。
「人を人として成り立たせるのは知能とか知識だけじゃないだろう」
「どういうこと?」
「だからですね、今回みたいに知能のない生物にそれを与えることができるのはわかりました」
辞書蛙はそれを聞くとむくりと起き上がり、レシートをひっくり返して白い面に「怒」と書き上げました。どうやら「知能のない生物」と言われたのが癇に障ったようです。
「怒」も何も、ついさっきまでただのアマガエルだったじゃないか、と口走りそうになりましたが、よしておきました。こちら側が読めない漢字を書かれて、奴にマウントを取られるのは芳しくありません。気付けばもうすっかり、紙を通して会話ができるようになっていました。
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