第 七 話

「もう、終わりにするか」

 彼は薬品がずらりと並ぶ科学の城にて、破格の大きさの丸底フラスコの前で立ち尽くしました。このフラスコ一つで四畳半の部屋を埋め尽くすことができそうな大きさです。

 本来、「終わりにする」とか「諦める」という言葉を人が使うときは、たくさんの努力を惜しんでも達成できず、渋々「諦める」という使い方をしそうなものですが、彼の場合の「終わりにする」はそれには当てはまりません。

 坂下裕人は自分の目的を達成することで決着をつけました。フラスコの中はとてつもない時間をかけて配合された劇薬がブクブクと沸き立っています。脇にかけてあった梯子を使って一歩ずつよじ登り、眼下にフラスコの口が見渡せるところまで来た時、彼の体は力なく崩れ落ちました。

 彼はようやく、自分を犠牲にゴールテープを切ることができたのです。

 

 私が目を覚ましたのは黄色味がかったよく分からない水の中でした。恐らくかなりの時間私はここの中にいたはずなのに、意識し始めたらなんだか溺れ死にそうな気がして、急いで水面から顔を出しました。

 周囲を見渡すとそこは暗がりで、ビーカーに入ったカラフルな液体がまるでネオンのように光って見えたのが印象的でした。自分が一体何者なのか、ここはどこなのか。分からないことばかりなので、私は一旦ここから出て周囲を探索しようと考えました。

 なんの記憶も私にはありませんが、人並みの頭脳と一般的な常識は身についていました。当時は訳がわかりませんでしたが、きっと坂下裕人の脳内の情報が遺伝したのかもしれません。体になかなか力が入らず、金魚鉢ならぬ人間鉢から這い上がるのにはとても苦労しました。身体中もふやけていて皺々です。

 そこから出て振り返ると、丸い容器にエナジードリンクみたいに鮮やかな液体が満たされていて「不思議なところに私は入っていたんだなあ」と思いました。

 前を向き直ると、とてもわかりやすい位置に無骨な木の机が置いてありました。その上には女性用の衣服、中身の詰まった封筒が二つ、A五サイズサイズのノート、一枚の置き手紙が置いてありました。

 見ろ、と言わんばかりに堂々と置かれていたので、私のために用意されたものだろうということは察しがつきました。どれから手に取ろうかとワクワクしましたが、最初に置き手紙を見てみることにしました。この状況について何か書いてあるかもしれません。手紙の中身はこんな風でした。

「成功したか。それはよかった。身分を証明できるものと、少々の金は用意できたから、あとは自由に暮らしたらいい。何がなんだか分からないだろうが、俺が書き続けた日記を一緒に置いておく。それを読めば大体のことは理解できるだろう。信じがたいかもしれないが、そこに書かれている内容は全て事実だ。とりあえず、君は負い目を感じることはない。俺が勝手にしたことだから」

 二つあった封筒の片方はパスポートなどの書類、もう片方はパンパンに札束が入っていました。パスポートには「ミカムラ」という名が記されています。漢数字の三に、にんべんの横に土が二つで佳、市町村の村で三佳村。

 手紙を書いた彼が適当に見繕った物なので、この名前は彼が決めたのでしょうか。それはわかりませんでしたが、普遍的なようで、どこか稀な雰囲気を醸し出すこの名前を、私はとても気に入りました。

 置き手紙と封筒二つを端に避け、次に私は置いてあった服を身につけました。体についた薬品がまだ乾き切っていませんでしたが、お構いなしです。服のセンスからして、彼は休日にはブティックで洋服を買うようなオシャレな人ではなかったんでしょう。そういうことは日記を見る前から感じ取ることができました。

 お楽しみも残すところ後一つになりました。A五のノートですが、これがきっと彼の日記でしょう。私はいまだに柔らかい指でゆっくりと、ページをめくり始めました。なんだか途方もないことを一生懸命にやる人なんだなあと読み進めていると、最終的に彼は自身を犠牲にし私を作り出したことに気がつきました。 

 なぜそんなことをしたのでしょうか?自分が死んでしまっては何にもなりません。しかも、そうまでして作り出した私は「坂下裕人」なんて人のこと一つも覚えていないのです。

「なんで……なの?」

 生前の私は「あなたのためなら死んでもいい」なんて人から思われるほどに清い女だったのでしょうか?それはわかりません。でもこの命、無駄にしてはいけないと私は決意しました。あの世で見ている彼に顔向けができないからです。

「気にするな」

 と言われてしまうかもしれないけれど、後悔のないように生きる義務が、私にはあるように感じます。全身の水気を軽く払い、私は彼の作り上げた科学に城をあとにしました。

 体の薬品はほとんど乾いていたはずなのに、顔から溢れた一筋の滴でまた少し、濡れてしまいました。

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