第110話 大家さんはパン作りの修行中

 その日の夕方頃、ある程度酔いを冷ました俺は、大家の家の扉を叩いた。

「はーい」フェリの明るい声が聞こえ、やがて扉が開かれた。「あら、シャルルさん」

「やあフェリさん」

 帽子を取り、俺は挨拶する。

「夫に用事?」

「えぇ、まあ」

 すると彼女は振り向き、

「あなたー、シャルルさんがご用事ですって」

 と、奥へと声を張り上げた。

「粉だらけで結構なら通してもらえ!」

 フィンチの声がする。粉だらけとは。

「大丈夫ですか?」

 フェリは首を傾げる。

「大丈夫です」

 と、俺は答えた。

「じゃあ、どうぞ」

 フェリが道を開ける。中に足を踏み入れるのは久しぶりだ。使い込まれた木造のテーブルと椅子、隅にはチェストが置かれ、その上には小さな肖像画が乗せられていた。

「すみませんね、こんな格好で」

 奥の扉が開き、フィンチが姿をあらわした。腰エプロン姿だ。袖をめくってはいるが、確かに粉だらけだった。

「どうしたんですか?」

 と、俺が聞くと、彼は笑い、

「いや、最近パン作りに凝っていてね。中々上手くいかないんだが、それがまた楽しくて」

 そう言った。

「そうなんですか」

「食べてみるかい? さぁ、座って」

 と、パンの入ったバスケットをテーブルの上に置いた。パンの良い香りがする。

「美味しそうですね」

 椅子に腰かけると、俺は言った。

「珈琲を淹れますね」

 フェリは台所に消えていった。

「で、用事って?」

 淹れたての珈琲が置かれ、それを一口口にして、フィンチは話を切り出した。

「はい。実はこの度アイリス姫の従者になる事になりまして……」

「ふむ」

「王族の従者には爵位を与えられる事になっているのはご存知ですよね?」

「あぁ、知っているよ──と言う事はシャルルさん、まさか」

 と、フィンチは思わず立ち上がった。

「はい、男爵の地位を与えられまして……」

 俺は口ごもる。

「男爵様か。おぉ、おめでとう」

 フィンチが手を差し出し、束の間の握手を交わす。

「それで、住む家なのですが……」

「住む家ね」

 彼が耳を立てるのがわかる。

「今まで通り、二階に住まわせていただきたいのですが……」

 どうでしょう? と、俺は言った。

「男爵様がこんな下町に住んでも大丈夫ならね」

 フィンチは足を組んだ。

「俺は全くかまいません。住まわせていただけるのですか?」

「まぁ、シャルルさんは家賃もしっかり払ってくれているし、別にかまわんよ」

 やった。俺は心の中でガッツポーズをした。親衛隊になにを言われてもかまわない。広いばかりの貴族の家より、四年間住み慣れた小さなこの二階を、俺は気に入っているのだった。

「ありがとうございます!」

俺はそう言って、頭を下げた。

「いやいや、男爵様に頭なんてさげられるなんて」

 慌てたようにフィンチは言った。

「まだ男爵じゃないですよ」と、俺は言った。「正式に位が上がるのは、アイリス姫様のご友人の結婚式へのお供から帰ってからです」

「あ、そうなのか」ほっとしたようにフィンチは胸を撫で下ろした。王侯貴族に逆らって処刑された者が案外多いこの国ならではの、庶民の対応なのだ。「二階にいるエタンさんはそれを知っているのかい?」

「いえ、まだ詳しくは知りません」パンを口に運び、俺は言った。修行中と言ったが、中々上手くできている。バターの風味と、パンのふっくら感が美味しい。「美味しいですね」

「本当かい?」

 どこか嬉しげにフィンチは答えた。

「美味しいパンと珈琲をありがとうございます。あと、今後もよろしくお願いします」

 俺は椅子から立ち上がり、再びこうべを垂れた。

「あぁ、よろしく」

 小さなパン工房への扉を開き、フィンチは言った。

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