反射板
*
森の中に、鳥の囀りが響き渡る。その音で、眠っていたルアンの意識が覚醒した。
「……んー」
ルアンは身を起こし軽く伸びをすると、小屋の外へと出た。起きるには早すぎる気もしたが、もう休息を十分取れた感覚があったし、なにより、疲れていないこの状態ではうまく眠れる気がしなかった。森の隙間に浮かぶ空を見上げると、東の空の向こうが白くなっているのが確認できたが、まだ星も浮かんでいた。いわば、夜と朝の隙間の時間。消していた焚火を燃して、夜が明けきるまで、ルアンはただ空を見ていた。
「あれ、ルアンさん。早いんだね」
どれくらいそうしていただろうか、日が昇り始めたころ、ダビが起床し、小屋から出てきた。彼はルアンの姿を認めると、ルアンのいる方へと歩いてくる。
「ダビさんもはやいね」
「おれはいつもこれくらいに起きてるよ。トレーニングのために」
「きょうもなにかやるの?」
「さすがに旅の途中では体力配分が難しいから、大層なことはしないけどね。身体を起こすくらいかな」
だから、適当にそのへんを走るつもり、と彼は続けた。
「じゃあ、ルアンもいっしょにはしる」
ルアンは焚火に水をかけ、火が消えたことを確認してから、ダビの隣に並び立った。まずは歩くことから始めて、上半身を捻ったり、いろんな筋肉を伸ばしたりしながら身体を温める。身体が解れたら足の回転を徐々に上げて、ペースをランニングへと移していく。
「ルアンさんは、おれが起きるまでは何を?」
「なーんにも。そら、みてた」
「空」
「うん。あかるくなってくの、きれいだった」
「綺麗だったならよかった」
「こんど、ダビさんもみる?」
「良いね。眺めようか、空」
二人の朝は、穏やかに過ぎていった。
*
ランニングが終わる頃には残り二人も起床して、出立の準備を終えていた。
「では、先を急ぎましょうか」
「その前にひとつ、ご報告があります」
シアが出発の号令を出すと、ダビが控えめに手を挙げた。昨日の分岐点の一件から、道案内はすっかりダビの仕事になっていた。
「朝っぱらからで恐縮なんだけど、泳ぎます。方角的に、この川を渡らなきゃ拠点には辿り着けないんだ」
と言って指差したのは、小屋のすぐそばを流れていたあの川だ。見渡す限り、どこにも橋はかかっておらず、また舟のようなものもないので、泳いで渡るしかない。
「……キミは、それで泳げるのか?」
ダビの報告を受けて、フェンネルがルアンにそう言った。なぜならルアンは、自分の身長を超える大剣を背負っている。その剣は、長さに加えてそれなりの重さもあるので、泳ぐとなればバランスをとるのが難しそうだ。
「これもっておよいだことないからわかんない」
ルアンは背負った剣を揺らしながら答えた。やってみたことがないのなら仕方ない。
「そこまでの急流ではないですし、ルアンですから大丈夫なんじゃないでしょうか?」
昨日の戦いぶりを目にしている一行は、なんだかんだでルアンなら泳げるだろう、と思ってはいる。しかし、万が一溺れてもらってもあとが大変なので、可能な限り安全な策を見つけ出したいところだった。
「あ、そうだ」
「どうしました?」
「泳ぎが得意な誰かが最初に渡って、向こうとこっちにロープを張る? 多分ロープの長さは足りるし、この程度の流れなら、何かに掴まっていられれば歩いて渡れるはず」
「ロープ……。あ、冒険者セットに入っているアレか」
「ルアンはなんでもいいよ~」
「歩いて渡れるなら、その方がいいかもしれない。自分より大きな得物だから、制御しきれずに川底の石とかに引っ掛ける可能性だってある」
「じゃあそうしようか。誰が泳ぐ?」
意見がまとまり、最初に誰が渡るか、という話に移る。ルアン以外は特に体格以上の何かを装備しているわけではなかったため、誰が泳いでも差はなさそうだ。
「私が行きます! 困っているなら手を差し伸べる、それが私の存在理由!」
シアは即座に立候補すると、ロープを手に意気揚々と川に飛び込んだ。が。
「……あれは、溺れてないか?」
「上手に泳いでいる、とは言えないねえ……」
フェンネルとダビがシアを見ながらボソリと呟く。ルアンは言葉こそ発しなかったが、不安そうな顔でシアを見つめていた。どう大目に見ても、シアのそれは泳いでいるのではなく、溺れた人間が助けを求めてもがいている動きだったからだ。百歩譲ってあれがシア流の泳ぎのフォームだったとしても、ほとんど前に進めていないので、それは泳いでいるとは言えない。
「まったく、世話が焼けるな」
見かねたフェンネルが、シアの持っているロープのもう片端を引っ張って救出する。岸に戻ってきたシアはまさしく息も絶え絶え、という様子だった。
「おい。シア、大丈夫か?」
「……すみません、不甲斐なくて」
「まあいい、ボクがやる。誰か、こっち側固定しといてくれ」
「あ、じゃあおれが」
泳ぎの心得があったらしいフェンネルは、ロープの片端をダビに預け、もう片端を手に入水すると、危なげなく川を横断していった。
フェンネルはあっという間に対岸に辿り着き、手にしたロープをぴんと張って道を確保した。
「はやい! すごい!」
「なに感心してんの。ほら、早く渡りなよ」
「はーい」
*
そうして一行は川を越え、先へ進んだのだが、しばらく歩いたところで再び足を止めることとなった。
「……この景色、昨日も見なかったか?」
「見たねぇ」
そう呟いたフェンネルとダビの視線の先には、どこかで見たような分岐点。
「また妖精に道を訊ねることってできますか?」
「んー、ちょっと待ってね。……あ、いた」
シアの提案を受けて、左側の道の少し先に妖精を見つけたらしいダビが、聞き込みに向かう。そして数分も経たないうちに戻ってきた彼が言うには、今回はどっちでも良いと思う、とのこと。
「左は最短ルートではあるけど、右でも拠点まではあんまり変わんないらしい。それから、左は身軽で器用な人じゃないと怪我するよって。だから、多分シアさんは大変かな?」
「うっ……」
先ほど見事な溺水を披露したシアには、弁解の余地がない。
「所要時間が変わらないなら、わざわざ危険を冒す理由もないだろ。右に行こう」
ときっぱり言ったのはフェンネルで、ダビとルアンも、それに同意した。
「ルアンはどっちでもいい~」
「じゃあ右にしよう。おれもどっちでもいいから」
「い、居た堪れない!」
気遣われているのがもどかしいらしいシアが、顔を覆って俯く。
「誰でも得意不得意はあるものだよ。気にしない、気にしない」
ダビがうなだれていたシアの肩を叩いて励ました。それに続いて、ルアンもシアの背中を叩いた。
「そ! きにしない!」
その一打でシアがつんのめる。溺れた時のダメージがまだ回復しきっておらず、踏ん張り切れなかったらしい。
「……ルアン、ちょっと加減してやらないと。さっき溺れかけてたんだぞこの人」
「あっ、ごめん」
フェンネルの尤もな指摘に、ルアンが少し落ち込んで謝る。シアの居た堪れなさは倍増した。
「追い打ちやめてください!」
「なんだよ。仕方ないじゃないか、事実なんだから」
その日はその後、アクシデントとも蛮族とも遭遇することなく穏やかに過ぎ、一行は日が暮れた頃合いで、テントを張って休むことにした。
*
今晩は昨夜と違いテントでの野営なので、一行は警戒のために、一晩中篝火を焚くことにした。蛮族はともかく、野生動物に襲われて怪我しました、は流石に笑えない。その番を買って出てくれたシアに、夜も半分を回った頃合いで、フェンネルは声をかけた。
「もう十分休んだから交代するよ。寝てきたら」
「では、お言葉に甘えて」
シアがテントに戻っていくところを見届けたフェンネルは、自分の両耳から、聖印を象ったピアスを外して地面に並べると、その前で跪き、目を伏せた。祈祷である。
フェンネルは、神官らしく振る舞おうとは常日頃から思っていない。むしろ、普段の言動だけ見れば、シアの方がよほど神官らしくも見える。ただ、祈りを捧げるという行為においては別であり、一日のどこかで必ずこの時間を取っていた。
「……かみさま?」
「!」
唐突に聞こえた声にフェンネルが振り向くと、そこにいたのはルアンだった。
「……まだ、寝てなかったのか」
「寝てたけど、目が覚めた」
答えたルアンの声のトーンは、昼間とはまるで違った。彼女は、ルアンは、見た目の年齢を重ねない種族だ。彼女がどれほどの年月をどう生きてきたのか、内に何を抱いているかは、本人が表に出さない限り、窺い知ることはできない。
「かみさま、信じてるんだ?」
「……さあね」
「……神官さんなんだから、嘘でも『信じてる』って言うところじゃない?」
「嘘は言いたくない。でも、キミにボクのことを明かす義理もない」
「ふーん。まあ、なんでもいいけど」
そこで言葉を区切ったルアンは、星ひとつ見えない曇り空を見上げた。
「……どういう気分なんだろうね。自分以外の誰かに願いを託すって」
「……それは、」
「変なこと言った。忘れて」
フェンネルの言葉に被せて話を終わらせたルアンは、先程までの雰囲気を一瞬でどこかにしまうと、昼間のように、外見相応の無邪気な声で「じゃましてごめんね」と言い残して去っていった。フェンネルの胸の内には、ルアンに対するなんとも言えないざらつきが残った。
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