エルマ 顔の思い出せないあいつとの出会い。

@Ishihei

第1話

 そのベンチがいつからそこにあるのかわからない。

 ベンチと呼ぶには実用性に欠けたその形。幅にしてみれば3人は座れそうなのに、その座面は向かって左から右へ小高い丘を登るような傾斜になっている。そのせいで真ん中部分に座ろうものなら身体が傾いてとても落ち着けたものじゃない。

 けれど、そのベンチで斜面になった座面よりも目を引くのは背もたれだった。丘になっている座面の頂上と麓。それぞれに塔のようなオブジェが設置されていた。座面は真ん中で仕切られており、ちょうど城壁のように麓と頂上の塔を仕切りが繋ぐ。頂上の塔は城壁の手前に、麓の塔は城壁の奥にせり出していた。

 僕が###とそのベンチで出会ったのは小学生最後の夏休みだった。


***


「暑いね」

 背もたれにしていた頂上の塔の向こうから声が聞こえてきて、びっくりして振り返ると###がいた。正確には###の両脚が塔の端から突き出ていた。

 恐る恐る塔の向こう側を覗き込むと、同じようにしてこちらを見ている###と目が合った。強い日差しの中、###は帽子もかぶらずに肩まで伸ばした髪を太陽に晒して右肩を塔にもたせ掛けていた。

「誰?」

 思い出すたび、不躾な問いかけだったと思う。けれど当時小学六年生の僕に「どこかで会ったことがあるのかも」という気遣いはなかったし、そんな気遣いが必要ないくらい僕の世界は狭かった。

「###」

 僕の態度を気にしたふうもなく、###は名前を教えてくれた。それは僕が今まで聞いたことの無い響きだった。

「加茂小?」

「ううん」

「どこ?」

「どこか」

「……ふーん」

 なにを言ったらいいかわからなくて、僕はとりあえず###と同じように塔に左肩をもたせかけた。頂上の塔を挟んで2組の脚がベンチの横から突き出た。

「君は?」

「え?」

「名前」

 ###に聞かれてはじめて、僕は自分が名乗っていなかったことに気が付いた。

「淳也」

「じゅんや」

 ###は僕の名前を復唱して、それからくすくすと笑った。

「なに」

「下の名前なんだ、と思って」

「お前もそうじゃん」

「……あー、そっか」

 ムッとして言い返すと###は一瞬なにかを考える素振りを見せた後、納得がいったかのように頷いた。

「淳也はここでなにしてたの?」

「んー……影、宿り」

「影宿り?」

 ラジオ体操が終わって、夏の日差しがどうにも暑くて。家まで歩いて帰るのが面倒くさくなって、木陰で休んでいただけだった。だけどこの時、僕はなぜか###に難しい言葉を使ってみせたかった。『影宿り』なんて、今にして思えば子供らしさ全開の造語だったけど。

「知らねーの? 雨宿りの影バージョン。暑いから影の下で休んでたんだよ」

「ふーん。雨宿りは雨を避けることを言うけど、影宿りは逆に影に入ることを言うんだね」

「そんなこと、俺に言われても知らないよ」

 多分、###は影宿りなんて言葉が存在しないことを知っていたんだと思う。慌てる僕を見て###はまたくすくすと笑っていた。

「じゃあ、ぼくも影宿りしてたってことになるかな」

 ###はそう言ったけど、あいつの座っている側はしっかりと日が照っていてとても涼しそうに思えなかった。

「お前、ラジオ体操いなかったよな」

「行かないよ、あんなの」

 さぼったことをなんでもないかのように言う。それが僕にはなんだかかっこよく見えた。

「お前、この辺に住んでんの?」

「ううん」

「ふーん」

 首を振る###を見て、残念な気持ちになるのがなぜなのか当時の僕にはわからなかった。今にして思えばこの時もう僕は###のことが気になっていたんだと思う。

「でも、しばらくはこの辺にいるよ」

「そうなんだ」

 嬉しさで笑ってしまいそうな顔を隠したくて、僕は塔の後ろに引っ込んだ。

「暑くなってきたね」

 ###はそう言って立ち上がった。

「あ」

「じゃあ、またね」

 咄嗟になにも言えなかった僕にそう言い残して、###は僕の家とは反対の方に歩いて行った。

 それが僕と###の最初の出会いだった。


***


 翌朝、ラジオ体操の帰りにベンチに寄ると###はやっぱりそこにいた。

 昨日とは反対側に座って木陰に入って文庫本を読んでいた。

「やっぱり日差しは暑くって」

 僕のことを見上げて笑う###に「そうなんだ」と応えて、僕は背もたれの塔を挟んだ反対側に座った。夏の日差しが肌をじりじりと焼いたけれど、###の隣に座るのはなんだか気恥ずかしかった。

 頂上の塔を挟んで背中合わせ。なにか話題が欲しくて、僕は###の読んでいる本について尋ねた。

「なに読んでんの」

「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。『ライ麦畑でつかまえて』って名前の方が有名かも」

 小学6年生の僕は読書から程遠い生活を送る毎日で、世界的ベストセラーとして知られるその青春小説の名前を知らなかった。知らないという事実を###に認めたくなくて、僕はただ「ふーん」と呟いてその話題を終わらせた。

「暑くない? そこ」

 なにか話すことはないか。頬を伝う汗をぬぐいながら考えていると、###の方から話しかけてきた。

「べつに」

「こっちきなよ」

 強がる僕を###は穏やかな声で呼ぶ。ぺしぺしと城壁の向こうでベンチを軽く叩く音が聞こえた。

 強情になるのも子供っぽい気がして僕はベンチを回り込んだ。いつもは鬱陶しく思っていた座面の傾斜にこの時ばかりは感謝した。###と傾斜になっている部分、人ひとり分の間を空けて僕は麓の塔の前に腰を下ろした。こちら側だと麓の塔の方が座面にせり出していて、塔にもたれた状態だと真横を向いても###の顔は死角になって見えない。

 逆に###からも僕の顔は見えないはずで、僕は塔にもたれたままベンチから放り出された###の脚とその膝に乗る文庫本、時折ページをめくる細い指をただ眺めていた。

「淳也は将来の夢とかあるの?」

 ぺらり、とページをめくる音がした。その音を聞いて僕はその質問が何気なく投げかけられたものと理解して、ほっとした。###との会話に僕はいつも1人で勝手に緊張していたように思う。

「別に、ないかな」

「本当? 野球選手とか、ゲームクリエイターとかさ。なんかやりたいことないの?」

「会社員とかでいいよ」

「とかでいい、ね」

 次のページに手をかけていた###の指が止まった。それを見た僕はなんだか居心地悪く感じて、視線を###から自分のつま先にそらした。

「聞きたかったのは淳也の『やれること』じゃなくて『やりたいこと』だったんだけど」

「###はなんかあんのかよ」

 ###の言い方にむっとした僕の口調は少し乱暴だったと思う。けれど###は変わらず穏やかな口調で「あるよ」と答えた。

「いろんな場所に行ってみたいんだ。見たことのない場所、会ったことのない人。だからツアーコンダクターかフリーライターになりたい。ここじゃないどこかで、その場所でぼくのままで生きたいんだ」

 言い終わってから###はくすくすと笑った。

「口に出すとたしかに恥ずかしいね」

 まるで僕が自分の夢を話さなかったのは恥ずかしさからだと知っていたかのように。###はそう言って立ち上がった。

「またね」

 またね。僕と###の会話がどんなものであろうと、その一言で終わる限り###とはまた会える。今にして思えばなんの保証もなかったけれど、その頃僕はそう信じていた。


***


 翌日の天気は雨だった。当然ラジオ体操は休み。僕は家のリビングに寝転がって漫画を読みながら、意識はずっとあのベンチに向いていた。

 ###は今日もあそこにいるのだろうか。僕が来るのを待っているかも。

 いつも飄々とした###がわざわざ雨の日に僕を待つとは思えなかったけど、ベンチに###がいないのを確認しないと僕の気持ちが落ち着かなかった。


 ベンチに行くと雨合羽を着た###がそこにいた。合羽の上から傘をさして、ベンチに座ってコンビニコーヒーを飲んでいた。

「今日は涼しいね」

 僕に気づくと###はそう言った。

「いると思わなかった」

「来るか迷ったけど、淳也が来るかもと思ったから。やっぱり来て正解だった」

 はっきりとは思い出せないけど、傘の下で###の口元は笑っていたと思う。

「淳也は座れないね。ズボンがびしょ濡れになる」

 ###がいないことを確認するだけのつもりだった僕は雨合羽なんて身に着けてなくて、傘をさしているだけだった。

「いいよ。立ってるから」

 そう言って僕は頂上の塔の前に座る###の横に立った。今までで一番、###と近い距離。###の傘が僕の顔を遮るおかげで、緊張していた僕に###が気が付くことはなかったと思う。

「淳也はタバコが何歳から吸えるか知ってる?」

 脈絡のない質問に###の方を少し覗き込むと、あいつは頂上の塔の入り口に顔を向けていた。塔の入り口には高さ15センチくらいの奥行きのある穴が開いていて、そこからベンチのくぼみにできた水溜まりにタバコの吸い殻がいくつか流れ込んでいた。

「当たり前だろ。20歳からだよ」

「うん。20歳。成人してからだ」

 ###は空になったコーヒーカップのフタを開けて、その中にタバコの吸い殻をひとつずつ片づけていった。

「でもこれが成人した大人のすることなのかな」

 カパ、と吸い殻を全部腹に収めたカップの口が閉じる音がして、だけど僕はなんと答えてよいかわからなかった。###の声は珍しく、少しイラついているように聞こえた。

「人はいつ大人になるんだろうね」

 独り言のようにつぶやいた###の言葉はしとしとと降る雨の中に吸い込まれていった。


「じゃあ、今日はもう帰るよ」

 しばらく2人で降りしきる雨を眺めた後、###はそう言って立ち上がった。大量の雨水が腰のあたりを伝ってぼたぼたと###の脚を濡らした。

「……合羽越しでも水溜まりの上に座るのはちょっと気持ち悪いね」

 びしょびしょになったふくらはぎをみて笑う###はもういつもの###で、僕はそれに少し安心した。

「雨の日は、いいよ」

 僕がそう言うと###も頷いた。

「そうだね。それじゃあ」

「あ」

「?」

 声を上げた僕を振り返った###に軽く右手を挙げて僕は、

「いや、その。ま、またな」

 と声をかけた。###は口元を緩めて「またね」と応えて踵を返した。

 小さくなる###の傘を見送りながら僕は自分の傘をくるん、と一回転させた。

 飛び散った雨水はベンチに着陸して水溜まりに綺麗な波紋を描いた。


***


 それからも僕と###はほぼ毎朝、あのベンチの前で一緒の時間を過ごした。

 朝の涼しさが辛うじて残るわずかな時間。ラジオ体操を終えて僕がそこに行くと###はいつも座って待っていた。ぼーっと空を眺めていたり、膝に載せた文庫本を読んでいたり。ある朝行くと文庫本の替わりに猫を載せていたのには驚いた。

「暑いんだよ、こいつ」

 そんな文句を言いながら###はまんざらでもない顔でその猫の頭を撫でていた。


 ###はあまり口数の多い方ではなかったし、僕も何を話したらいいのかわからなかったから僕らの間には会話のない時間がよく流れた。そんな時###が何を考えていたのか僕にはわからなかったけど、セミの声に混じって###の息遣いが聞こえてくるかのようなその時間は居心地の悪いものではなかった。きっと###も僕と同じだったんだと思う。###が無理にしゃべる様子はなかったし、晴れた日にベンチに来ない日もなかったから。

 会話をする時、僕らの話題はもっぱら自分たちのことばかりだった。好きなアニメや漫画、最近聴いた音楽、行ってみたい場所。たまに家族や学校の話もしたけれど、そんな時の###はどこかつまらなそうにしていて、そのうち僕もそれらについての話題を出すことをやめた。

 ###はよく僕に『理由』を尋ねた。なんでその音楽を気に入ったのか、なんでその場所に行ってみたいのか。自分の中にある「なんか、よかった」「なんとなく、行ってみたい」という感覚に言葉で輪郭を作ることは想像よりもずっと難しくて僕は度々言葉に詰まった。けど###は決して苛立つことなく僕の言葉を待ってくれたし、結果としてどんな拙い理由になったとしても満足してくれた。

 だから僕はいつだって###との会話が楽しかったし、###との会話を通してそれまで向き合ってこなかった自分自身に気づくことができた。


 丘のような傾斜の座面。その麓と頂上に背もたれ代わりに設置された2つの塔。僕らのベンチのその奇妙な形のために、僕らは結局最後までお互いの顔が見える位置に座ることはなかった。時には塔を挟んで背中合わせに、時には丘になった座面の頂上と麓でちぐはぐに。同じ塔を挟んで肩を寄せ合うように座ったのは最初の日だけだった。

 あの日、僕は確かに###の顔を見たはずなのだけど、記憶をいくら辿っても今の僕が###の顔を思い出すことはない。

 僕が###の顔を見たのは最初の朝と、最後の夜だけ。たくさんの思い出の中であいつの顔はいつもなにかに塗りつぶされたかのように不明瞭だ。


***


 その日は突然やってきた。

 夏休みの終わりまであと1週間を切ったある日、ベンチに行くと###は1人で座って待っていた。

「猫は?」

 最初に###の膝に載っているのを見た日以来、あの猫はいつも###と一緒に僕を待っていた。

「飼ってくれる人が見つかったから」

 ###がそう答えるのを聞いて、僕は驚くのと同時に少し腹が立った。僕に言わずに飼い主を探していたなんて、と。

「言ってくれれば手伝ったのに」

「ごめん」

 僕の声に滲んだ苛立ちに気づいたのか、###は素直に謝った。

 僕もそれ以上なにか言う気にならず、###と塔を挟んで反対側に腰かけた。一番暑い時期を過ぎたからか、シュワシュワと鳴く蝉の声はいつもより静かだった。

「今日で最後なんだ」

 最初、###が何を言っているのか僕には理解できなかった。理解した後も直接###に聞くまでは理解したと思いたくなかった。思わずベンチの上に立ち上がって、塔の上から###の頭を覗き込んだ。

「は? なにが?」

「ここに来れるのが」

 前を向いたままの###からは理解した通りの答えが返ってきて、それでも僕は受け入れたくなかった。

「なんで?」

「最初に言ったじゃん、“しばらくは”この辺にいるって」

 それまでそんなこと、僕はすっかり忘れていた。いつまでもこの時間が続くとは思っていなかったけど、だってまだ夏休みすら終わってないのに。あの時、僕の目には涙が浮かんでいたと思う。

「なんでギリギリになって言うんだよ」

「なんか、言い出しにくくてさ」

 こいつでもそんなこと思うんだ、どこか冷静な頭でそんな感想を浮かべながら僕はずるずると塔に背中を預けて座り込んだ。

「明日の朝、お父さんが迎えに来るんだ。それから、東京に行く」

「また帰ってくるのか?」

「たぶん、帰ってこない。今いるの、母方のおばあちゃんのところだし」

 当時小学6年生の僕にも###が抱える事情はなんとなくではあったけれど、理解できた。それ以上聞くべきではないことも。

「そっか……」

「うん」

 しばらく無言の時間が流れた。静かだと思っていた蝉の声が急に大きくなったような気がした。

「淳也とぼくはさ」

 蝉の声の隙間から###の声が聞こえてきて僕は「うん」と応えた。

「このベンチの塔みたいだな、って思ってたんだ」

「塔?」

「うん」

「それぞれがちぐはぐな位置にあって、向いてる方向も真逆で。でも薄い城壁1枚で確かに繋がってる。一点だけだけど、そこから伸びた延長線上で確かに交わってるんだ」

「このベンチで淳也と過ごせて本当に良かった。学校や家じゃなく、このベンチで。このベンチで会えたからぼくはぼくとして、淳也と話せた」

 この時僕はひどい顔をしていたと思う。泣きそうなのを気づかれたくなくて、塔の向こうで流れる鼻水をすすることもなくただひたすら声を堪えていたのだから。

 堪えるのに必死でなにも言い返せずにいる僕を###はただひたすらに待ってくれた。 ###は僕が泣いているのにやっぱり気づいていたんだと思う。

「今日の、夜」

「うん」

「今日の夜7時、もう1回だけ、ここに来いよ」

 震える声を懸命に抑えて、なんとか僕はそれだけ伝えた。お盆に祖父母の家に行ったときに思いついたこと。それだけはなんとしてもやっておきたかった。

「わかった」

 ###は何も聞かずそう答えた。それを聞いて、僕はベンチを立った。僕から先に立つのはこの日が初めてだった。

「またな」

「またね」

 これで最後になるかもしれない、いつもの別れの挨拶。その挨拶を交わして僕は振り返ることなく歩き出した。いつも僕がしていたみたいに###が僕を見送っているのか気になったけど、前だけ見て歩いた。###はいつもそうしていたから。


***


 夕飯を済ませた僕は夏休みに祖父にもらった5千円札を握りしめて、こっそりと家を抜け出した。近所のホームセンターで必要なものを買って、いつものベンチに着くと###は朝と同じように座って僕を待っていた。###の隣では蚊取り線香が煙を上げていた。

「やあ」

 日が沈んで薄暗い中、その声がベンチに座るのは間違いなく###だと僕を安心させた。

「なに持ってきたの、それ」

 ###に聞かれて僕はさっき買った手持ち花火を見せた。

「夏休みにじいちゃん家でやったんだ。やってるとき、なぜかお前のこと思い出してさ」

「公園で花火なんてやっていいのかな」

「……」

 もっともな指摘になにも言えなくなった僕を見て、###はくすくすと笑った。

「わかんないけど、内緒でやろうか」

「お、おう」


 家から持ってきたバケツに公園のトイレで水を注いで戻ってくると、###は花火についていた蝋燭に火をつけようとしていた。風がライターの火を煽って蝋燭に移る前に吹き消してしまう。

「ほら」

 僕が風除けとして傍にしゃがむと、ライターの火は消えることなく蝋燭に乗り移った。

「ありがとう」

 ###がお礼を言って僕を見る。今までで一番近い、###との距離。照れ臭くなって僕は顔を背けた。


 最初の花火を###が蝋燭に近づけると、それは素直に橙色の光の束を吐き出した。

「はい」

 その光の束を、###が僕に差しだす。右手の花火をその光に近づけると、そちらにも火がついてそれぞれの光が繋がった。2つの塔が城壁を介して繋がるように。僕と###も花火を介して繋がった。

「俺さ」

 交差する花火をみつめて、僕は口を開いた。

「ミュージシャンになりたいんだ」

 それぞれの花火が短くなって、光が離れて、消えていく。

「ミュージシャン?」

 僕に次の花火を手渡しながら###が聞く。

「うん」

 蝋燭にその花火をかざすと、今度は緑色の光が飛び出した。

「前に聞いたろ、将来の夢はあるのかって」

 そう言って右手の緑を差し出すと###は左手の花火をそこに近づける。###の花火からは赤紫の火花が飛び出して、僕の緑とまた繋がった。

「あの時はサラリーマンって言ってた」

「ミュージシャンなんて言ってもバカにされるだろ」

「バカになんかしないよ」

「うん、今は知ってる」

 吹き出す火花が短くなって、また消える。僕と###は次の分を手に取る。

「中学に入ったら、軽音楽部に入る。今まで貯めたお年玉でギター買うんだ」

「うん」

 火を点けて、差し出す。

「好きな音楽をいっぱい聴いて、たくさん練習して。それで俺もいつか自分で音楽を作る」

「いいね」

 火が移って、繋がる。

「できるかな? 俺に」

「できるよ」

 短くなって、消える。

「できなかったら?」

「次にやりたいことを見つければいい。淳也なら見つけられる」

 次の花火を、###が差し出す。

「そっか」

「そうだよ」


 買ってきた花火は30分もしないうちに使い切ってしまった。

 最後に残った線香花火を見て、###は「これはやめよう」と言った。

「終わり、って感じがするから」

「そっか。そうだな」

 ###の言葉にうなずいて、僕はそれをポケットにしまった。

「じゃあ、帰るね。花火、ありがとう」

「いいよ、そんなの」

 ちょっとだけ、会話のない時間が流れた。初めて###との無言の時間を気まずいと、僕は思った。

「……じゃあね」

 下を向く僕にそう言うと###はいつもの方角に向かって歩き出した。

 これで最後。明日、このベンチに###はいない。

「あのさ!」

 僕の声に###の足が止まった。その背中に僕は呼びかけた。

「俺もよかったよ! この場所で###に会えて。###と一緒の時間を過ごせて!」

 僕がそう言うと、###はゆっくりとこっちを振り返った。

「またね」

 ずるいだろ、今まで振り返ったことなんてなかったくせに。

 月明かりが後ろから照らすせいで、###の顔は僕には見えない。

 あいつには僕の顔が、涙でぐしゃぐしゃになった顔が見えているのに。

「またな!」

 僕がそう叫び返すと月明りの下、###は笑った気がした。


***


 それから何度も夏が過ぎた。

 小学校を卒業してラジオ体操に行くことはなくなったけれど、あのベンチには何度か行った。そこに###の姿はもちろんなくて、僕は1人で夏の空を見上げた。

 今年、僕は高校を卒業して東京の大学に進学する。

 幸い、と言っていいのだろうか。中学から始めた音楽はまだ僕のやりたいことだ。「勉強なんかやめて音楽1本で生きてやる」そんなふうに思い切ることはできなかったけど、ギターを弾いて、曲を書いている。

 今年、僕は###のいる東京に行く。

 いつか僕の曲があいつのところに届くまで、なんて考えはカッコつけすぎかもしれない。

 でもきっと言ってやるんだ。今度会うときはあいつの顔を忘れないよう、はっきりと見て。

 また会ったな、って。

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