異世界

『グレイ ソーヴィニヨン ブラン

 2021

 ヴェンティスケーロ』


 チリ北部アタカマ砂漠は、アンデス山脈と太平洋の間に広がっている。

 全体の平均標高は二千メートルにも達し、この大地の道はかつて死の道と恐れられた。

 

 アタカマ砂漠は500年間一度も雨の降ったことの無い地域がある程だ。

 しかし、アンデス山脈からの雪解け水が地下水を形成している為、集落が存在している。

 世界でも有数の極乾燥地域で造られたワインである。

 

 造り出すワイナリー、ヴェンティスケーロはスペイン語で氷河の意味を持ち、自然環境の恩恵を受けているという思いから名付けられたそうだ。


 では、こちらのワインを開ける。


 かなり淡い色合いのイエローグリーン、柑橘系のスッキリとした涼し気な香りがする。

 味わいは見た目通り、酸味の効いた辛口すっきりタイプだが、はっきりと味はわかりやすい。


 5年から10年は寝かせても良いらしいので、また違った印象が楽しいかもしれない。


『シーフードのピルピル』


 ピルピルとは、オリーブオイルで煮込んだアヒージョのような料理だ。

 アヒージョとの違いは、調理の仕方らしい。


 アヒージョはオリーブオイルにニンニクの香りをつけることに時間をかけ、具材はさっと仕上げることが特徴だ。

 対してピルピルはオリーブオイルが沸騰しないように具材をじっくりと煮込んでいき、乳化させることが特徴らしい。


 本職の料理人ではない僕にとっては誤差の範囲内だと思ってしまう。


 そうして出来上がったピルピルであるが、アヒージョとの違いは何もない見た目だ。

 

 まあ良い、とりあえず実食しよう。


 ニンニクと魚介類の海の旨味が染み込んだ風味がたまらない。

 イカ、エビ、貝、そのどれもが熱々で白き悪魔に支配された外界から解き放たれたように体が求める。

 バゲットに旨味の溶け込んだオリーブオイルを浸すとどこまでも留まることを知らなかった。

 

 ミニトマトも一緒に煮込み、乾燥バジルを振りかけるだけで更に食が進む。


 だが、ワインを忘れてはならない。


 柑橘系の風味のワインが、アヒージョ、じゃなかったピルピルにライムを絞ったかのようなアクセントとなり、さらに呑みも進む。

 このコンビネーションは、異世界へと旅立つ程に現実の冬の厳しさを忘れさせてくれるかのようだった。


 そうしてあっという間に完食となった。


 現実に戻ってきた僕は、アタカマ砂漠での苦難と絶望、そして一つの異世界の誕生を思い出した。


☆☆☆


 気分は晴れやかだった。

 色々とあったが今シーズンも最後まで乗り切ることが出来た。

 ワイナリーでの終了の手続きやお土産などをもらい、去る事になった。


 しかし、問題が発生した。


 働くためのビザやその後の滞在は特に問題はなかった。

 だが、入国時に入国審査でもらったレシートのようなPDIという滞在許可証明書類の有効期限が切れていたのだ。


 この有効期限は三ヶ月間だけであり、就労ビザとは違う。

 移民局に行って延長のスタンプを押してもらえば済むだけのモノだった。


 しかし、この当時の僕はその方法がよくわからなかったので、以前登場したいい加減すぎる人事担当のボスに聞いたのだ。

 英語のできるオタクなボス・マルセロ氏を通して、だ。


 分かったら連絡するということになったが、その後一向に連絡は何もなかった。

 解決策が何もないまま時間だけが無為に過ぎて行くだけだった。


 僕はワイナリーを去った後、ルームメイトで同僚だった良い人代表フェリペ氏の実家に滞在させてもらっていた。

 長々と数日もの間をだ。

 本当に感謝しか無い。


 この間、フェリペ氏の父親や双子の建築士の兄弟や小説家志望の従兄弟などとアニメを見たり、食事をしたりワインを飲んだりして交流を深めた。

 フェリペ氏の友人宅に招かれたりしたこともあった。


 他にも、某異世界になろうを読み漁ったりしていたが、いい加減にいい加減なボスから一向に連絡が来ないことに痺れを切らした。

 

 そして、僕は旅に出ることにした。


 一応、フェリペ氏にも例のいい加減なボスに聞いてもらったのだが、多分旅に出ても問題ないだろう、ということだったことも大きな要因でもあった。

 しかし、それが大きな間違いと気がついた時にはすでに遅かった。


 僕は当初、この数日の間に南米南部パタゴニアへ行こうと思っていたのだが、例の無為に過ごした時間と冬の嵐にもなっていたので見合わせた。

 ならば逆の北部、アタカマ砂漠へ行き、そこからボリビア・ウユニ塩湖へと向かおうと決めたのだった。


 そうして飛行機に飛び乗り、アタカマ砂漠の拠点サンペドロ・デ・アタカマへと到着した。


 流石は世界で最も乾燥した世界の一つ、まさに異世界が広がっているかのようだった。

 見事に砂しか無い。


 僕は安宿に到着し、数日過ごすことにし、それからウユニ塩湖へと旅立つことになった。

 その間、月面に降り立ったかのようだと評される月の谷を訪れたり、世界一と称される夜空を見に行き、天体望遠鏡で木星の輪もくっきりと見ることができた。


 そうして、ウユニ塩湖へ旅立つ日となった。


 僕はキャンピングに必要な荷物だけをまとめ、不要な荷物を安宿で預かってもらった。

 日が登る前の早朝、ワイルドな4WD車が迎えに来て、ツアーへと出掛けていった。


 意気揚々とし、一面砂だけだった景色も高山植物の緑に染まり始め、アルパカのような生き物たちを眺めながらボリビア国境へと到着した。

 一気に肌寒くなり、また新たな世界へと旅立つ興奮に脳内麻薬が出っぱなしだった。


 しかし


『オマエハ、チリヲデルコト、デキナイ』


 はい?


「お前はチリから出ることは出来ないんだ」


 国境の検問所で、今度は英語ではっきりと宣告された。


 例の滞在許可証明書類を見せられた。

 移民局でその書類に延長のスタンプを押してこないとチリから出ることができないんだ、と説明されたのだ。


 僕はただ呆然とするだけだった。


 そうして、旅はあっさりと終わりを告げた。

 僕は街へと戻るツアーバスに乗せられ、囚人のように護送されていった。


 あ、あの野郎、全然大丈夫じゃねえ!

 ちくしょう、適当な事言いやがって!

 入国はザルだったのに、なんで出る方が厳しいんだよ!


 と、悪態をついたところで何も事態は変わらなかった。

 ウユニ塩湖への旅で費やすはずだった数日間、また新たな無為な空白の時間が生まれた。


 だがしかし、ただで転ばないのがこの出っぱなしという生物ナマモノである。


 ウユニ塩湖で目に焼き付けるはずだった絶景は、脳内でどこまでも筆舌に尽くしがたいほどの異世界へと変わっていく。

 砂粒のように何者でもなかった一文字一文字、ここから物語が紡がれていった。


 このようにして未完の大作(笑)、拙作『管理者のお仕事~』という異世界ファンタジーの冒頭となったわけだ。


 こうして黒歴史と共にまた一つ、異世界が誕生したわけである。

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