第46話 向かうべき場所

 台風が発生してから3日が経過した。だが、暴風雨は収まる気配をみせない。朝7時、私は澪織ミオリに電話をかける。


「どうしたの? 海果音ミカネ


「ねえ、変だと思わない? この台風、ずっと居座ってるよ? なんとかできないかな?」


「また何を言い出すかと思ったら」


「このままじゃ被害は大きくなる一方だよ? 私はそんなのやだ」


「私だってやだよ。でもね、人間は自然現象に抗えないの。過ぎ去るのを待ちましょう?」


「でも、何もしないよりは……」


「そうやって不用意に行動して、行方不明になってる人もいるんだよ?」


「じゃあ、澪織ミオリはなんで車を出そうとしてるの?」


「え?」


「私、なんとなくわかるんだ。音なのか、雰囲気なのか、澪織ミオリの息遣いなのか、わからないけど、澪織ミオリがどんな状況にあるのか、それがわかる。ねえ、車で月葉ゲツヨウに行こうとしてるんでしょ? モルフォがオカルトで済むなら、そんなことする必要ないじゃない!」


「あはは、何言ってるのかな? 道路はもう水没しかかってるんだよ?」


「だからだよね? 道路を使えるのはせいぜいあと1日。だから、行くんでしょ?」


「だとしても、海果音ミカネが来る必要なんて」


「じゃあ、澪織ミオリは私をひとりにするの?」


「そんなこと!」


澪織ミオリって、勝手だよね。私を部屋に閉じ込めたり、勝手に仕事を辞めさせたり。私、もう澪織ミオリの言いなりになんてならないよ。私も今から月葉ゲツヨウに行くから!」


 電話口からは、澪織ミオリの息遣いだけが、かすかに聴こえていた。それが一瞬止まると、覚悟を決めたような、静かな声が流れてくる。


「わかったよ。海果音ミカネも連れていくから」


「ほんと? ありがとう!」


「その代わり、ひとつだけ約束して」


「なに?」


「私を絶対に、ひとりにしないで。どっかに行ったりしないで」


「うん、勿論だよ」


 そうして、私は着替えてホテルのフロントまで降りた。ほどなくして、澪織ミオリの車が到着する。


「私は別に、モルフォの話を信じたわけじゃないから」


「いいよ、それで。私だって、それが嘘ならどれだけいいかと思ってるんだから」


 私はそう言って、助手席のシートベルトを締めた。澪織ミオリは、法定速度を無視して車を飛ばす。車道には、他に走っている車など存在しなかった。タイヤは水しぶきをあげながら、私たちを月葉ゲツヨウグループ本社ビルまで運んだ。


「って、空いてないじゃん! 澪織ミオリと喧嘩した意味って!」


「ま、まあ、そうだよね。安全を第一に考えたら、こんな日に仕事なんてしないよ」


 月葉ゲツヨウグループ本社ビルは、営業を停止していた。吹き付ける横殴りの雨が澪織ミオリの頬を伝い、冷や汗を連想させる。しかし、彼女は諦めていなかった。


「確か、月葉ゲツヨウのプロデューサーの電話番号が。彼ならなんとかしてくれるかも? ……ダメみたい、圏外だって」


 その時すでに、通信ネットワークは、台風によって寸断されていた。


澪織ミオリ、繋がらないの? はぁ、大人しく帰ろうか」


 さっきまでの緊迫感はどこへやら、私は自動ドアに力なく寄りかかろうとする。しかし、私の背中を受け止めるものは存在しなかった。


「いてっ!」


「大丈夫? 海果音ミカネ?」


 自動ドアはいつの間にか開いていて、私は、月葉ゲツヨウ本社ビルの中に倒れ込んでいた。尻餅をついた私に、澪織ミオリが上から手を差し伸べる。その時、私を見下ろす、もうひとつの影が現れた。


「おお、すまないな。まさか寄りかかってたなどとは」


 その声の主は、小学生と思しき体格の、白衣を着た女性。腰まで伸びた藍色の髪と、紫色の瞳が印象的だった。その吊り上がった目には、無限の自信を湛えている。


「あ、あなたは?」


 澪織ミオリは、突如現れた謎の小学生に、恐る恐る尋ねた。


「私は、御厨ミクリヤ 亜生アオイ、ここで研究をしている者だ」


「そうなんだー、えらいねー。大人の人はいるかな?」


 私は座ったまま仰け反って、少女に笑顔を見せる。


「私は大人だ。他の者はいない。なにせ、出勤できないんだからな。しかしお前、失礼だな。目上の人間に、そんな口を聞いていいと思ってるのか?」


「え? だって、私は26歳だよ?」


「私は今年で40になるぞ?」


 私より身長が頭一つ分低いその女性は、社員証を見せてくれた。


「たしかに、ここの社員さんなんですね。ごめんなさい」


 立ち上がって謝る私に、御厨ミクリヤ 亜生アオイは、両手を腰に当て、そっぽを向いて、不機嫌そうに鼻を鳴らす。澪織ミオリはとりなすように、丁寧な口調で質問した。


「あの、御厨ミクリヤ 亜生アオイさん、こちらで何をしてらっしゃるのですか? 出勤しているのですか?」


月葉ゲツヨウグループは全員休みだ。こんな嵐の中、仕事なんかしてられるか。私はな、ここの研究室に篭っているから、ここから出るタイミングがなかったんだ」


「そ、そうなんですか」


「ああ、それで、ロビーまで来てみれば外に人がいるではないか。こんな時に来る者を放っておくのも忍びないと思い、ドアを開けたんだ。さあ、とりあえず入れ。早くしろ、私も濡れてしまっただろう?」


「「はい」」


 私たちは、御厨ミクリヤ 亜生アオイの後ろを、水を滴らせながら付いて行く。そして、階段を降りて地下1階へ。私たちは、研究室と書かれた部屋に通された。


「せっかく来たんだから、茶でも飲んでいけ。タオルはそこにあるから、自由に使うがいい」


 そこは、台所がある和室だった。部屋の一角には、唸りを上げるパソコンと、9つのモニターが並んでいる。棚にはビーカーやフラスコ、試験管、そして、謎の液体が入った瓶が並んでいた。御厨ミクリヤ 亜生アオイは、棚のガラス戸を開けて、空っぽのビーカーをふたつ手に取った。


「こんなんで済まないが、コーヒーでいいか?」


「あ、はい」


 しばらくすると、香ばしい匂いが漂ってくる。そこは、外から隔絶された静かな空間だった。嵐が起こっていることなど、忘れてしまうほどに。


「で、何の用があって来たんだ?」


 そう言いながら、コーヒーの入ったビーカーを、ちゃぶ台に置く御厨ミクリヤ 亜生アオイ


「えっと、なんて説明すればいいか……」


 澪織ミオリは言葉を選ぶように目を泳がせた。


「私はこの研究室の責任者だ。この会社の大体のことは知っている。話してみろ」


「今起きている台風を止めたいんです!」


 澪織ミオリが口を開く前に、私は身を乗り出して訴えていた。


「止める? ふふふ、自然現象をどうやって止めるというのだ」


 当てが外れた。きっと、この人もモルフォのことは知らないんだろう。そう思った時、澪織ミオリが声を上げた。


葉月ハヅキ 真玄マクロ会長にお会いしたいのです。私は星神輿ホシノミコシグループの総裁、星宮ホシミヤ 澪織ミオリです」


 澪織ミオリが差し出した名刺を、まじまじと見つめる御厨ミクリヤ 亜生アオイ


「ふん、未だにこんな前時代的なものを使っているとはな。こんなもの、なんの証明にもならんぞ? で、そっちは?」


「わ、私ですか?」


 私がしどろもどろになっていると、御厨ミクリヤ 亜生アオイ澪織ミオリに視線を戻す。


「会長は今いないよ。台風が起きた晩に居なくなったきり、連絡が取れないんだ」


「台風が起きた晩ですか……」


 私は、「自分なりに罪を償う」と言った、葉月ハヅキ会長の力無い表情を思い出していた。


「ああ、っとすまん、まだお前の名前を聴いてる途中だったな」


「えっと、私は日向ヒナタ 海果音ミカネです。今日はなんというか……」


日向ヒナタ 海果音ミカネ?」


 その瞬間、御厨ミクリヤ 亜生アオイはスマホを手に取った。そして、数秒間操作した後、仰天の顔を見せた。


「お前は、女神ではないか!」


 澪織ミオリは、御厨ミクリヤ 亜生アオイより驚いた顔を見せる。


「知っているんですか!?」


「ああ、ただな、女神のことは、なぜか忘れてしまうんだ。だから、スマホの中に、女神の名前を保存していたのだ」


「やっぱり、そうなんですね」


 なぜか少し嬉しそうな澪織ミオリをにべもせず、御厨ミクリヤ 亜生アオイは私を見やる。


「お前、さっき、台風を止めるとか言ったな?」


「はい」


「ふふ、そうか……」


 意味深な微笑みを浮かべる御厨ミクリヤ 亜生アオイに、澪織ミオリが食って掛かる。


海果音ミカネが、いえ、モルフォが台風を起こせるっていうのは、本当なんですか?」


「ほほう、モルフォのことを知っているのか。だが、その質問には答えられんよ」


「え?」


「確かに、人間の脊髄をモルフォに接続して、刺激への反応を演算に反映することで、AIの危機回避能力は上がった。しかし、台風を起こす根拠はない」


葉月ハヅキ会長は、世界中の空調を操るって……」


 澪織ミオリの言葉に、御厨ミクリヤ 亜生アオイはニヤリと笑う。


「そんなことしたくらいで、台風が起こせると思うか? 起きたとしても、偶然と見分けはつかないだろう」


「やっぱり、そうですよね」


 その時、私は心底残念な顔をしていた。


「それと、もうひとつ残念な知らせがある。ここにモルフォは無いんだ」


「えっ、ですが、ここの地下3階で」


 澪織ミオリはちゃぶ台に手を突いて、御厨ミクリヤ 亜生アオイへと迫る。


「ふん、あれは制御ルームに過ぎない。モルフォは別の場所にあって、ネットワークで繋げてるだけだ。本社ビルとモルフォが同じ場所にあったら、災害時、同時に潰れてしまうだろう?」


「そうなんですね。それに、ネットワークはこの台風で……」


 私の言葉に、御厨ミクリヤ 亜生アオイは、腕を組んで目を閉じた。


「うむ。だから、今は直接静岡まで行かなければ、モルフォを動かすことはできんのさ」


「ネットワークが切断されているんだから、世界中の空調を操作することもできない。そもそも、台風をどうにかできる保証なんてない……」


「ごめん、澪織ミオリ月葉ゲツヨウに来ても意味がなかったね」


 息巻いていた私も、御厨ミクリヤ 亜生アオイの偶然という言葉と、通信ネットワークという物理的な問題の前に、消沈することしかできなかった。

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