第34話 忘れ物をしてきたから

(あなたが居れば、もう何もいらない……だから、私とずっと一緒に……)


 目を開くと、澪織ミオリはバスの座席にいた。バスは満席で薄暗い。窓の外は、真っ暗な闇に包まれていた。


(これは夢? どこに向かっているの? この人たちは?)


 ピンポーン♪


「次、停まりまーす」


 バスの遥か前方、少し左にスポットライトが見える。その下に、バス停がぽつんと立っていた。バスはスピードを落として停車する。すると、乗客のひとり、少女が立ち上がった。少女は澪織ミオリの前に立ち、口を開いた。


「私に声をくれてありがとう。今までお世話になったね」


 それは、澪織ミオリが声優を担当したキャラクターのひとりだった。しかし、声は澪織ミオリのものではなく、どこかで聞いたことがある、別人のものだった。


「じゃあ、さようなら」


 別れを告げる少女に、澪織ミオリは何か言わなければと考える。しかし、声が出ない。少女はその様子を見て、少し笑う。


 チャリンチャリン♪


 少女は料金箱に小銭を投じて、バスを降車した。


「発車しまーす」


 再びバスが走り出す。暗闇に目が慣れてきた澪織ミオリは、辺りを見渡した。すると、乗客はすべて、澪織ミオリが声優を担当したキャラクターではないか。彼女たちは、キョロキョロする澪織ミオリを気にかけず、まっすぐ前を見つめている。


 ピンポーン♪


「次、停まりまーす」


 前方には再び、スポットライトとバス停が現れる。バスが停車すると、先程と同様に、ひとりの少女が澪織ミオリの前に立った。


「はじめまして。あなたが私の魂だった方ですね。私はこれから別の方にお世話になります」


 その声もまた、澪織ミオリのものではなかった。澪織ミオリは声が凍ったように、何も反応できない。


「ありがとうございました。では、失礼します」


 チャリンチャリン♪


 少女は料金を支払って降車する。


「発車しまーす」


 ピンポーン♪


「次、停まりまーす」


 またしてもバスが停車する。そして、少女が澪織ミオリの前に立つ。


「やあ、君が私の中の人だったんだね。こうやって実際に会ってみると、お別れするのは残念かな」


 澪織ミオリは黙ったまま。その少女の瞳を見つめていた。


「でも、しょうがないんだよ。じゃあね、バイバイ」


 チャリンチャリン♪


 料金を支払い、少女は降車する。


 ピンポーン♪


「次、停まりまーす」


 チャイムが鳴って、バスが停車する度に、キャラクターがひとりずつ、澪織ミオリに別れを告げて降りてゆく。そうして、いつの間にか乗客は、澪織ミオリひとりになっていた。


「次、終点でーす」


 バスは停車する。


「お客さん、終点ですよ。降りてください」


 しかし、澪織ミオリは席から立とうとしなかった。しびれを切らしたように、運転手が澪織ミオリの席に歩いてくる。


「お客さん、大丈夫ですか?」


 澪織ミオリを覗き込んだ運転手は、澪織ミオリが初めて声を当てたキャラクターだった。


「ドラゴンフルーツちゃん……!」


 解き放たれたように、澪織ミオリは声を上げた。


「お客さん? どうしたんですか? ふふっ、私の顔になんかついてます?」


 澪織ミオリはその顔をまじまじと見つめ、疑問を投げかける。


「なぜ、あなたは私の声のままなのですか?」


 すると、運転手はニッコリと微笑んで口を開いた。


「人気がないキャラクターには、後継者なんて必要ないからですよ。そんなことより、降りて下さいよ」


 しかし、澪織ミオリはバスを降りることに抵抗を感じ、身動きひとつとらなかった。


「ふーむ、困りましたねえ。降りないんですか?」


 運転手の言葉に、澪織ミオリは質問を返す。


「ここで降りると、どこに着くんですか?」


「天国ですよ。あなたは現世のしがらみから、解放されるんです」


 その言葉に、澪織ミオリは身体を強張らせた。運転手は少しほくそ笑んでから、バスの前方まで歩く。そして、料金箱に手を置いて振り向いた。


「これは他の方たちが残していった力です。これだけあれば、この先に進むこともできますが、どうします?」


「現世に戻れるということですか?」


「はい。でもこの先は、地獄と同じかもしれません。それでもいいんですか?」


「かまいません」


 澪織ミオリは即答した。運転手はやれやれとおどけて、もう一度問い質す。


「このままここで降りれば、天国で幸せに暮らせるのに、なんで戻りたいんですか?」


「それは、忘れ物をしてきたからです」


「忘れ物ですか……くくくくく、あはははは! わかりました。そこまで言うなら、私にあなたを止める権利はありません」


 運転手はバスを発進させた。澪織ミオリはバスの真正面に視線を向ける。すると、小さな光の点が現れた。


「さあ、行きましょう。でも、本当によかったんですね? もう、後戻りはできませんよ」


 光の点はみるみる大きくなり、澪織ミオリの目の前は真っ白になった――


星宮ホシミヤさん? ……星宮ホシミヤさんっ! えっと、あっ、院長を呼んできます!」


 澪織ミオリはベッドに寝て、白い天井を見つめていた。それはどこかで見た景色。白衣の女性が慌ただしく部屋を出るのを見て、彼女は察した。


「病院? 私、道端で倒れて……そっか」


 一瞬の静寂のあと、二人分の足音が部屋に近付いてくる。


「ですから、星宮ホシミヤさんの意識が戻ったんですって!」


「わかった! 嬉しいのはわかったから、そう急かさないでくれ」


 騒ぎながら部屋に入ってきたのは、先程の女性と、白衣を身に纏った、白髪交じりの壮年の男性だった。


「目が覚めたんですね。良かった」


「ほんとに、よかった!」


 白衣の女性、看護師は涙を浮かべていた。胸に院長の札をつけた男性は、穏やかな笑顔で澪織ミオリを見つめ、優しく声をかける。


「さて、自分が誰だかわかりますかな?」


「……星宮ホシミヤ 澪織ミオリです。あの、私、助かったんですね。ありがとうございます。私はどうやってここに……」


「あなたは、去年の初雪が降った日、意識不明でここに運ばれてきたのですよ」


「去年? じゃあ、今は?」


 看護師が答える。


「3月です。星宮ホシミヤさんは3ヶ月間眠っていたんですよ」


「3ヶ月も?」


 院長は神妙な面持ちに変わった。


「はい、最初はただの過労だと、甘く見ていたのですが……」


 院長が少し言葉を詰まらせると、看護師はまくし立てるように続けた。


星宮ホシミヤさん、何日経っても意識が戻らなくて。でも、身体には異常がなかったんですよ?」


 看護師の言葉に、院長は重ねて口を開く。


「原因不明の昏睡状態と診断するしかありませんでした」


「私、もう星宮ホシミヤさんが起きないんじゃないかと……」


「ですが、こうして目を覚ましてくださって、安心しました」


 院長は、俯き涙ぐむ看護師の肩に、優しく手を添えながら言った。澪織ミオリは少し後ろ暗さを覚える。


「そうだったのですね。長い間不安にさせてしまい、申し訳ありません」


「とんでもない! 私はあなたのような人を救うために、この仕事をしているのですから」


「そうです。それが私たちの仕事です!」


 院長のあとに続いた看護師は、誇らしげに言い切った。澪織ミオリは、その真摯な態度に応えるため、空元気を振り絞る。


「ありがとうございます……くっ!」


 澪織ミオリは上半身を起こそうとしたが、全く力が入らない。それどころか、指先ひとつ動かすことも、ままならなかった。


「ど、どうして……」


 澪織ミオリはその時、自分の声が著しく衰えていることに気付いた。


「無理はいけません。長期間眠っていたから筋力が衰えて、身体の動かし方を忘れてしまっているだけです。落ち着いて、体力を取り戻していきましょう」


「私も、お手伝いいたします。がんばりましょう」


 院長と看護師は、柔和な笑みで澪織ミオリを励ました。気持ちがほどけた澪織ミオリは、思い出したように切り出す。


大地ダイチ院長、祖父が大変お世話になりました」


 澪織ミオリが運ばれてきたのは大地ダイチ総合病院。彼女の祖父もまた、大地ダイチ 人富ヒトミ院長が診た患者のひとりだった。院長は、一瞬声を詰まらせてから応える。


「いえ、その節は力及ばず。申し訳ありません」


「謝らないでください。祖父はあなたのお陰で、安らかに眠ることができました。お礼を言わせてください。ありがとうございます」


「もったいないお言葉です」


 二人は互いの感謝の言葉を噛み締めた。そして、看護師は気を取り直して声を上げた。


「えっと、では、意識が戻ったということで、まずは軽い検査を……」


 院長と看護師から、簡単な質問を受ける澪織ミオリ。それにより、彼女の精神状態に問題がないことがわかった。


 そして、澪織ミオリが目を覚ましたその日のうちに、彼女の父と母が見舞いにやって来た。


「「澪織ミオリ!」」


 澪織ミオリの父、コノエと、母、メルリアは、ベッドに駆け寄り、澪織ミオリの手を取った。


「お父さま、お母さま、すみません。こんなことになるなんて」


「いや、私の方こそすまない。私が澪織ミオリに神主の役目を押し付けてしまったばっかりに」


澪織ミオリの声がまた聴ける日が来るなんて、本当によかったわ」


 ふたりは思い思いの言葉を口にしていた。


星神輿ホシノミコシノ会は、今私が代理で神主をやっている。最初からそうしていれば良かったのだ」


澪織ミオリが担当していた役は、他の声優さんたちが代役をしてくださっていますよ。みんな、澪織ミオリには敵わないって言いながら、すごく頑張ってくれてるんです」


「そうですか、それはよかったです」


 神主代行として働く父と、声優、星宮ホシミヤ 澪織ミオリの最大のファンである母は、その日、止めどない歓喜の涙を流したという。


 それから澪織ミオリは、大地ダイチ総合病院でリハビリに勤しむ生活を送ることになった。

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