第六章 守りたいもの

第30話 その必要はありません

海果音ミカネには、もうこんなもの必要ないの。あなたは何もしなくていい…… いいえ、私が何もさせない」


 私からメガネを取り上げた澪織ミオリは、涙を拭い、真剣な眼差しで言い放った。


「それって、どういうこと?」


 澪織ミオリは私の問いに答えずに、くるりと後ろを向いて、ジャケットの内ポケットからスマホを取り出した。彼女は白魚のような指でスマホをなぞり、耳にあてがう。


「あ、もしもし、澪織ミオリです。先程の件ですが……いえ、解決しました。……はい、研究所の方々にもよろしくお伝えください。また、改めてお礼がしたいと。……それと、車を回していただけますか? ……はい、よろしくお願いします」


 その声は、先程までと打って変わって、至って冷静沈着。なおかつ、人を安心させる温かみがあった。澪織ミオリは通話を切ると、私の方に向き直った。


「いままで、ごめんね」


 心の底から零れたような、微かな声で謝罪を受ける。私は何故か涙ぐんでいた。


「うぅ、なんで、謝るの?」


「もう、ほら、泣かないで、海果音ミカネ


 澪織ミオリは両腕を広げて、私のメガネを持ったまま私を抱き寄せた。彼女のふくよかな胸の中に、私の頭が沈んで行く。すると、懐かしくて暖かい感覚が、私の体をじんわりと満たしていった。


 ――澪織ミオリが私を抱きしめたまま、5分が過ぎた。


澪織ミオリ?」


 私は我に返り、彼女の胸の中で声を上げる。しかし、それは彼女の耳に届いていなかった。ただひたすら、彼女は私を抱きしめ続けた。


 ――10分が過ぎようとしていた。その時、私が顔をうずめた胸が震え出す。


「はい。ありがとうございます。では、向かいます」


 澪織ミオリは、私を胸の谷間から解放した。彼女は内ポケットからスマホを取り出し、何事もなかったように、誰かに礼を告げていた。


「さ、海果音ミカネ、行こうか?」


「どこへ?」


「あ・そ・び・にっ♪」


 澪織ミオリは白い歯を見せて、屈託のない笑顔を作った。私は部屋着のパーカーとミニスカートのまま、澪織ミオリに腕を引っ張られて外へ出た。足にはサンダルをつっかけるだけで精一杯だった。


 夏の焼け付く日差しの中、マンション沿いの通りに、黒いリムジンが停車していた。


澪織ミオリ様、どうぞ」


 運転手と思しき男性は、澪織ミオリに頭を下げ、広々とした車内に私をいざなった。澪織ミオリは私の隣に座る。彼女が私の肩を抱き寄せると、車は厳かに発進した。


「ど、どこ行くの?」


「ん? えっとね、久しぶりに海果音ミカネの歌を、ちゃんと聴きたいと思ってね」


 リムジンは繁華街のカラオケ店の前で停車した。澪織ミオリは相変わらず、半ば強引に私の手を引く。彼女はカラオケ店の受付で、「フリータイムでお願いします」と告げた。カラオケ店は真昼間から若者たちで賑わっている。私たちは二人入るのがやっとの部屋に通された。ドアを閉めると、私たちはしんとした雰囲気に包まれた。


「えっと、わ、私はどうすれば?」


「ふふ、海果音ミカネ、好きな曲を歌っていいんだよ。さ、私に構わず、なんでも入れて」


「って言われても」


 私がかすれた声を出して困惑していると、澪織ミオリは選曲用のタブレットを操作し始めた。


「もう、じゃあこれでいい? さ、マイクをどうぞっ♪」


 満面の笑顔でマイクを差し向ける澪織ミオリに、たじろぐ私。震える手でマイクを受け取ると、澪織ミオリが選んだ曲が流れだす。すると、私は喉は自然と動き出した。


「ながい、さかーみちーをーのーぼるぅ♪ あーしどりは、ときにぃ♪ おーもーくなーるけどぉ♪」


 さわやかなメロディに、手拍子を合わせる澪織ミオリ。そのあどけない表情は、高校時代の彼女に戻ったかのようだった。


「もういーちどー♪ ……コホン、ご清聴ありがとうございました」


 澪織ミオリは、「わー」などと言いながら拍手をしている。そして、自分では全く歌おうとする気配を見せない。


「み、澪織ミオリ、なんか歌わないの?」


「ん? 私はいいの。海果音ミカネの歌が聴きたくて来たんだから」


 澪織ミオリはそう言うと、後奏が終わるや否や、次の曲を選び始めた。


「えっと、これ、澪織ミオリが……」


「ううん、海果音ミカネが歌うんだよ」


「ああ、そう……まち、なみ、みおーろすのさ♪ いちばーん、たかいーばーしょでー♪」


 こうして、私は澪織ミオリが選曲する曲を、ひたすら歌い続けるロボットのようになった。


「さーにーさーにーさーま―♪ いえーーーーーいっ! ……けほっ! えほっ!」


 喉がからからになっていた。澪織ミオリはすかさず私を心配する。


「大丈夫? さ、これを飲んで!」


「けほっ…… う、うん」


 私は澪織ミオリが差し出したコップに口をつけた。瞬間、舌が感じたのは、火照るような刺激だった。


「う、これ、お酒?」


「あ、もしかして、海果音ミカネ、お酒飲めなかった?」


「うう、大丈夫だけど、アルコールにはあんまり強くないんだよね」


「そっか、じゃあ少しだけにしておこうね。ごめんね」


「こっちこそごめん。澪織ミオリは結構飲めるの?」


「うん、付き合いが多くてね。はたちになってから、すぐに慣れちゃった」


「そっか、澪織ミオリは大人なんだね」


「別に、なりたくてなったわけじゃないのにね」


「へ?」


 澪織ミオリが一瞬見せた冷たい表情が、私の胸の奥に引っかかる。


「ああ、ごめん。なんでもないよ。さ、次の曲、歌お?」


 澪織ミオリはすぐに元の朗らかな表情に戻った。彼女は私が歌える曲をすべて把握しているかのように、次々と選曲を続けた。そうして、長かったフリータイムも、終焉の時が訪れる。


「あいのぱっわぁー♪ かがやーくまっでー♪ おくるわぁー♪」


「うーん、やっぱり海果音ミカネの歌は最ッ高だね! でも、もう終わりか。残念だよ」


「もう勘弁してよぉ」


 私の声は枯れていた。アルコールも回ってフラフラになった私に、肩を貸してくれる澪織ミオリ


「じゃあ、お会計してくるから、ここで待っててね」


 私は受付の前の待合席に腰を下ろす。すると、急激に意識が遠のきだした。


「み、澪織ミオリ……くぅ……くぅ……」


 疲れ果てた私は、彼女が支払いを終える前に意識を失っていた。そして、目を覚ますと――


「うう……けほっ! けほっ! ……あ、朝か」


 私は自分の部屋のベッドに横たわっていた。身体はやけに重たくて、うまく力が入らない。その時、玄関の方からガチャリと音がして、ドアノブが回った。


「おはようございます」


「……み、澪織ミオリ? 澪織ミオリが運んでくれたの?」


 彼女は昨日のスーツ姿から一転、紅白の巫女装束を身に纏っていた。そして、深々と頭を下げる。


「はい、その通りです。私が海果音ミカネ様をお運びしました」


「な、何その口調?」


「いえ、私は今日から、海果音ミカネ様のお世話をさせていただきます。海果音ミカネ様は今日から私のご主人様というわけです」


「ご主人様って、どういうこと?」


「戸惑うのは無理もありませんが、ご安心ください。海果音ミカネ様はもう、何もしなくてよいのです」


「それって、昨日も」


「はい。さ、朝食にしましょう」


 澪織ミオリはいつかのように、ホカホカのご飯と、具沢山のみそ汁を作ってくれた。それらがちゃぶ台に並ぶ頃、私の身体はやっと言うことを聞くようになった。そして、座布団に座って箸に手をつけた瞬間、私は重要なことを思い出した。


「今日って、月曜日だよね? 仕事には……はぁ、余裕で間に合うか。よかった。さ、メガネ返してよ」


 時計の針を見て安堵する私に、澪織ミオリは鋭い口調で言い放つ。


「その必要はありません」

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