第29話 忘却と再会

 高校三年生の私は、大学受験に失敗した。こうして、私と澪織ミオリは別々の大学に通うことになったのだ。しかし――


 澪織ミオリが大学に入学してから、半年が過ぎていた。多忙な日々を過ごす彼女は、いつも心に引っ掛かるものを感じていた。


(なんだろう、この感覚は……こないだの数学のテスト、96点だった。別に悪い点数じゃないはずなのに、この胸騒ぎはなんなの?)


 その日澪織ミオリは、大学でできた友人たちと、街で遊んでいた。気もそぞろな澪織ミオリに、友人の一人が声をかける。


「どうしたの? 澪織ミオリちゃん、今日はぼーっとしてるね」


「……ああ、ごめん、気にしないで。大丈夫だから」


 もう一人の友人が、澪織ミオリを気遣った。


「ほんとに大丈夫? 今日、10月だってのに暑いよね。だからかな? ねえ、あっちの日陰を歩こうよ」


「そうだね。日陰……ヒカゲ?」


 澪織ミオリの目は、友人が指差す方向にいる、ひとりの女性を捉えた。


「あ、あの人!」


澪織ミオリちゃん、どーしたの?」


 友人の言葉も聞かず、人混みをかき分けて、澪織ミオリは走った。


「ヒ……あの!」


 澪織ミオリはその女性の名前が思い出せなかった。自分が呼ばれてることにも気付かないその女性は、澪織ミオリに肩を叩かれて、不機嫌そうに振り向く。


「……なんですか?」


「えっと、あなた……ひ、ひさしぶり!」


 名前が思い出せないことに、笑顔が引きつる澪織ミオリ。それに対して、不機嫌な女性は、低い声で対応する。


「どなたですか? 私には、あなたのような知り合いいませんよ」


澪織ミオリー! どうしたのー?」


 友人の声に反応することもなく、澪織ミオリは目の前の女性の名前を思い出そうとして、焦っていた。


「あの、私たち、友達ですよね?」


「何言ってるんですか? お友達ならあっちで呼んでますよ? 大体、私みたいな人間に、あなたみたいなリア充の友達がいるわけなじゃないですか? からかわないでください」


「え、だって、私、あなたの……」


 澪織ミオリは、その女性のメガネに手を伸ばす。女性はその手からメガネを庇いながら、不快感をあらわにした。


「やめてください! 気持ち悪いです! 他人のメガネを触ろうとするなんて、頭おかしいんじゃないですか!?」


 そう言って、彼女は澪織ミオリから逃げ去った。そう、その黒いショートカットと、黒い瞳に銀縁のメガネをかけた女性は、私、日向ヒナタ 海果音ミカネだった。私はその時、澪織ミオリのことを完全に忘れていたのだ。


「……海果音ミカネ、そうだ、海果音ミカネだ! みかねーっ!」


 澪織ミオリが私の名前を思い出した時にはすでに、私は人混みの中に紛れ、姿を消していた。


澪織ミオリ、どうしたの? あの人なんだったの?」


「そんな……海果音ミカネ


 人混みを見つめる澪織ミオリに、友人は苛立ちを隠せなかった。


「もう、どうしたんだよっ!」


「ごめん、サキ、もう私、帰るね」


「え?」


 困惑する友人たちを置き去りにして、澪織ミオリもまた、人混みの中に紛れ込んでいった。


海果音ミカネ! どこなの? 海果音ミカネ!!)


 澪織ミオリは一日中、人混みの中で私を探し続けた。しかし、澪織ミオリの心を揺さぶっていたのは、私を忘れていたことでも、私を見失ったことでもなかった。


海果音ミカネは人にあんな不機嫌な顔を見せたりしないはずだ。海果音ミカネはいつも不器用に愛想笑いして……だから、あの人は他人の空似、別人なんだ。そうじゃないと、あの優しかった海果音ミカネが、あんな顔をするはずないんだもの。それを確かめなきゃ!)


 しかし、澪織ミオリは、自分が手に取ろうとしたメガネが、自分が選んだものだという確信があった。澪織ミオリはなんとしても私を探し出し、不機嫌な理由を問い質さなければならないと考えた。それでも結局、澪織ミオリは私を見つけることができなかった。街を駆けずり回った澪織ミオリは、ひとつの仮説を構築した。


海果音ミカネは、タダノートを付けることで、孤独と折り合いをつけていたんだ。それを、私がやめさせてしまった。だから、他人に不満をぶつけるような人になってしまったんだ。海果音ミカネを変えてしまったのは、私のせいなんだ)


 澪織ミオリはひとりの部屋に帰宅する。それから、私を思い、夜通し悩み続けた。そして彼女は、窓から伸びる朝の光の中で、ノートを手に取っていた。


海果音ミカネ……海果音ミカネ……海果音ミカネっ!」


 澪織ミオリは一心不乱になり、自分が持つすべてのノートに、ありったけの感情をぶつけた。彼女はノートにとどまらず、紙切れや本にまで文字を書き殴り続けた。彼女は三日三晩、寝食を忘れて、ペンを走らせ続けたのだ。


「私は、何をしてたんだろう」


 気が付いた時、澪織ミオリはおびただしい紙の山の中に埋もれていた。衰弱しきった彼女は、手で触れている一枚の紙を取り、目の前に晒した。


「ひっ!」


 澪織ミオリが目にしたのは、文字と呼べるものではなかった。幾重も書かれた文字で真っ黒になった紙。それは、澪織ミオリの精神状態を如実に物語っていた。


「はい、ごめんなさい。動くことができなくて……」


 澪織ミオリは最後の力を振り絞って、実家へと電話をかける。駆け付けた澪織ミオリの父と母は、彼女を大層愛おしそうに抱きしめ、独り暮らしのワンルームから引き取った。しばらく実家で安静にしていた澪織ミオリは、体力を取り戻すと、祖父のもとへ向かった。


「おじいいさま、私、星宮ホシミヤ家を継ぐことにします」


「そうか。澪織ミオリには夢があったんじゃなかったのか?」


「いえ、もうそんなことはどうでもいいのです。私は星神輿ホシノミコシノ会の活動に参加し、神職に就きます。それが、この家系に生まれた私の運命なのですから」


 しかし、澪織ミオリの真意は別のところにあった。


(あの子は私と同じ大学を受験した。でも、合格できなかった。それは、この世の中が平等じゃないから。学ぶ機会は誰にでもあってしかるべきなのに、あの子にはそれが与えられなかった。こんな不平等があってはならない。私は組織の力を使って、この不平等な世の中を正してやるんだ!)


 そんな彼女の想いを知らず、祖父、星宮ホシミヤ 恒彦ツネヒコは、顎に右手を当てながら諭した。


「ふむ、しかし、自分がやりたいことを諦める必要はない。神職の資格だって、今の大学を卒業してからでも取れる。自分のために生きるんだ」


「……わかりました」


(私が有名になれば、あの子の方から私に気付くかもしれない。今はそれに賭けてみよう)


 しかし、澪織ミオリはまたすぐに、私のことを忘れてしまった。それには、私の宿命が大きく関わっている。私が彼女を忘れたのもまた、私が背負う宿命によるものだったのだ。


 ――そして、私が24歳を間近にした春、私と澪織ミオリは再開を果たしていた。それから一年を経て、私はようやく思い出したのだ。


澪織ミオリ


海果音ミカネ


「ごめん、澪織ミオリ、私、あなたのこと忘れてた」


「ううん、謝らないで。海果音ミカネはそれでいいの」


「いつから、気付いてたの?」


「私があなたにタダノートをつけろって言った時。あなたは自分でつけていたノートのことも忘れてたなんてね」


「あはは、なんでだろうね?」


「でもその時は、まだあやふやだった。夏に道端で怪物に襲われた時、名前を呼んだでしょ? あの時、思い出したんだ」


「そっか、それでか」


「でもね、正直その時に、もう会わないって決めたんだ」


「なんで?」


「私がまた、あなたを不幸にしちゃうんじゃないかと思って」


「不幸? どういうこと?」


「だけど、ホームページを作ろうと思ったら、また再会してしまった。それで、海果音ミカネが自分のことを優しくないって言って、全部思い出したんだ」


「私、前にも同じこと言ってたんだね」


「うん、だから、海果音ミカネは変わってなかったの。変わらないままのあなたをそっとしとこうと思ったんだけど、結局できなかった」


「あは、なんかそれって、嬉しい。ねえ、澪織ミオリの顔、もっとちゃんと見たいな。メガネ、返してよ」


「それはダメ……!」


「え?」


海果音ミカネには、もうこんなもの必要ないの。あなたは何もしなくていい…… いいえ、私が何もさせない」

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