第26話 メガネ

 二学期の期末テストで大きく成績を落とした澪織ミオリ。それには理由があった。


日向ヒナタさんが私に返してくれたノートの中に混じってました」


 言葉は出なかった。澪織ミオリは私にノートを差し出すが、私はそれを震える手で掴むことしかできなかった。それは確かに、私のノートだったのだ。


「ごめんなさい、そのノート、読んでしまいました」


 目を合わせようとせずに言う澪織ミオリに、私はしどろもどろになる。


「ああっ、いえっ、私、独りで自分の世界に入り込むことが多くて、それをそのノートに書いていただけで……」


 弁明を試みる私に、澪織ミオリは深呼吸をして、独白するように呟いた。


「私、それを読んでて苦しくなって、テスト中もそこのことばかり考えてしまって……」


 私は震えて半開きになった唇に、言葉を乗せることができなかった。


「『自分はダメな人間だ』とか、『将来できる仕事なんてない』とか、『死んだ方が楽だ』とか、そんなに苦しんでるなんて思いませんでした」


「いえ、このノートに書いてあるのはタダのネタですよ。タダのノート、タダノートです。意味なんてありません」


 私は意味不明な弁解を繰り広げた。そう、高校時代の私はすでに、タダノートをつけていたのだ。澪織ミオリは私の言葉尻を捉えた。


「意味が無いって、なんで自分が苦しんでいることに意味がないなんて言うんですか?」


「うう、ごめんなさい、そういうことじゃなくて……それに、もうそのノートはつけていません。星宮ホシミヤさんのお陰なんです!」


「え?」


「私、ずっと独りだったからそんなことをしてたんです。でも、星宮ホシミヤさんが話しかけてくれるようになったから、だからもう必要ないんです!」


「必要ない?」


「はい! それは自分と会話しているようなもので、星宮ホシミヤさんがいるから要らなくなったんです!」


「私が……」


「はい。だからごめんなさい。よくしてくれる星宮ホシミヤさんに、そんな情けない物を見せてしまうなんて。よく見ずにカバンに入れちゃったから、わざとじゃないんです。許してください」


「そんな、謝らなくても。ああ、えっと、でも、ネタと言えば、面白い言葉も沢山書いてありましたよね」


 澪織ミオリは続けて、芸能人を前にするファンのようにまくしたてた。


「『セルフダイエット食品』とか、食品自体が小さくなることだって、確かになーって! あと、サイドの後れ毛を『つ毛めん』って言うんですよね? ラーメンのスープに浸かりそうだからっ! そう言えば邪魔ですよねっ! あと、『しょうがない』って妥協案に誘導するまとめ役を『ショーガナイザー』とか!」


「ああ、私、変な言葉を考えるのが好きなんですよ。変ですよね」


「そうですか? あなたの言語センス、私は好きですけど」


「好き?」


「はい、それに日向ヒナタさん、かわいいから……」


「へ?」


「な、なんでもありません! あ、あの、地べたに座ったままっていうのもなんですから、ベンチに座りませんか?」


「そ、そうですね」


 私と澪織ミオリはベンチに腰をかけ、お互いに顔を見合わせた。


「やっと落ち着きましたね。日向ヒナタさん、急に土下座するんですもの」


「あ、はは……でも私、星宮ホシミヤさんには本当に感謝しているんですよ。テストのことは勿論ですが、私を孤独から解き放ってくれたんだって。ありがとうございます」


「そんな、お礼なんて」


「ふふ、私、やっぱりメガネ買いますよ。私の近眼で迷惑をかけたことには変わりありませんから。今日帰ったら父に頼んでみます。それで、これからは星宮ホシミヤさんを見習って、自分の言葉でノートをつけます!」


「見習うだなんて、私にはもったいない言葉です。……あ、そうだ、メガネ、お父さんに選んでもらうのが嫌だったら、その、私が選んでいいですか?」


星宮ホシミヤさんが!?」


「はい、私、メガネをかけた日向ヒナタさんを想像したことがあって。こういうのかけたらかわいいんだろうなって……あ、いえ、気持ち悪いですよね」


 私はぶんぶんとかぶりを振った。


「いえいえっ! 星宮ホシミヤさんが選んでくれるのに、そんな失礼なこと思いませんよ! 喜んでお任せしますっ!」


「ホントですか?」


「は、はいっ!」


「じゃあ、明日、丁度お休みですし、時ノ守トキノモリ駅でお買い物をしませんか?」


「い、一緒にですか?」


「はい、勿論。では、明日の10時に待ち合わせで」


「わかりました! ありがとうございます」


 次の日、私は約束通り、朝10時に時ノ守トキノモリ駅の前に佇んでいた。


「お待たせしました! はぁ……はぁ……」


 それは、澪織ミオリのセリフ。私は30分前にはそこに立っていた。そのことを知ってか知らずか、息を切らす彼女。


「いえ、全然、全然待ってません!」


 両手の平を胸の前で振る私に、笑顔で応える澪織ミオリ。私たちは早速メガネショップへと向かった。


「お父さんにお金だけもらってきました! 視力は健康診断で変わってないのがわかってるので、昔の処方箋をもってきたんですよ!」


「え、メガネにも処方箋があるんですか?」


「はい」


 そんな会話を交わしながら、メガネショップの自動ドアを抜ける私たち。


「いらっしゃいませー!」


 メガネショップの女性店員さんは、やけに明るい笑顔で迎えてくれる。その視線は、私の手元を捉えていた。


「あ……」


 私は自然と澪織ミオリの手を握っていたのだ。気まずくなった私が、素早く手を離すと、澪織ミオリは少し悪戯っぽく笑った。


「ふふ、じゃあ、私が選びますね。昔はどういうのをかけてたんですか?」


「えっと、ピンクのセルフレームで、恥ずかしかったです」


「そういうのも似合うと思いますが、さて」


 澪織ミオリは棚に並んでいるメガネフレームを手にとっては、私にかけてみせた。小首を傾げながら次々とメガネを選ぶ彼女。そして――


「うん、これがいいですね! 似合ってますよ」


「そ、そうですかぁ?」


 私は鏡を覗き込んで澪織ミオリに尋ねた。そのメガネは、オーバル型、フルリムタイプのチタンフレームで、色は銀だった。


「あ、頭良さそうなメガネですね」


「だって、学年一位だったんですよ? 頭いいですよ!」


「えーっと、ああっ、そうだった! 学年一位!」


「忘れてたんですか? 自分の成績?」


「いえ、星宮ホシミヤさんの点数のことばかり考えてました」


「もうっ、次は負けませんよ」


 そうして、私たちのやりとりをニヤニヤしながら眺めていた女性店員に声をかけ、私は澪織ミオリが選んだメガネを購入した。


「わぁ!」


 外に出ると私は声を上げた。それまで気付かなかったわけではないが、季節柄、赤と緑の装飾が鮮やかに目に飛び込んできたのだ。


「どうしました?」


「くっきり見える。今日って、クリスマスでしたね」


「今更気付いたんですか? あははっ!」


「うう~、でも、星宮ホシミヤさんに素敵なクリスマスプレゼントもらっちゃったなって、今思いました!」


「そんな、私は選んだだけですよっ?」


「それでも嬉しかったので、何かお礼しますよ。そうだ、ケーキでも食べませんか?」


「いいんですか?」


「はい。そこの喫茶店でいいですか?」


「はいっ!」


 私たちは喫茶店に入り、ビュッシュ・ド・ノエルと紅茶を二人分注文する。テーブルにどっかりと置かれたケーキに、私は目をぱちくりさせていた。


「大きい……」


「ですね。カロリー気になっちゃいますね」


「私、メガネをかけてるから大きく見えるんですかね?」


 私はおもむろにメガネを外した。


「わぁっ!」


 そう、近視用のメガネは、対象物を小さく見せるのだ。


「ふふふっ、かわい……面白い人ですね」


「あの」


「は、はい」


「私のこと、たまにかわいいって言いますよね?」


「あー、えっと、これは口癖で……」


「気遣ってくれてるんですね。恥ずかしいけど、大丈夫ですよ。お父さんから言われるのが好きじゃないだけなので」


 すると、澪織ミオリのスマホが震え出した。


「あ、ごめんなさい」


 澪織ミオリは着信に応答する。


「おじいさま、こんにちは……メ、メリークリスマス……はい、元気です……はい、16歳になりました……ありがとうございます……はい、おじいさまもお元気で」


 その表情は困惑しながらも、喜びを隠せない微笑みを讃えていた。澪織ミオリは綻んだ表情のまま、通話を切った。


「お祖父さまですか?」


「はい。とっても素敵なおじいさまなんですよ。神社の神主をしていて」


「そうだったんですか。星宮ホシミヤさん、16歳になったって……」


「実は今日、私の誕生日なんですよ。おじいさまは忙しいのにわざわざお祝いしてくださったんです」


「誕生日……って、誕生日なんですか!?」


「はい……」


「じゃじゃじゃじゃじゃあっ! やっぱりプレゼントを差し上げないとっ! ああっ、さっきのメガネでほとんどお金がっ……」


「いいんですよ! 気になさらないでくださいっ!」


「もももちろん、ここの代金は持ちますけど! 何か他にも……べ、別の日でも構いませんか?」


「本当にいいんです! 私は日向ヒナタさんのメガネを選ばせてもらっただけで満足ですから!」


「でも、聴いてしまったからには、星宮ホシミヤさんをお祝いしなければ! と、とりあえず、お誕生日おめでとうございます!」


「あ、ありがとうございます! もうこれで、結構ですからっ!」


「そんな! 何か望みとかないんですか? 欲しいものとか!」


「うう、だいじょうぶですよぉ……」


「そこをなんとか! お願いします!」


「そ、そうですか、じゃ、じゃあ……」


「はいっ!」


「もう、敬語を使うのはやめませんか? それと、私のことは名前で呼んでください」


「え?」


 私の目は点になっていた。しばらくの沈黙。澪織ミオリは控えめに口を開く。


「……それだけで構いませんので、ダメですか?」


「名前、ですか……」


「は、はい、『澪織ミオリ』と」


 私の表情は暗く曇っていた。澪織ミオリはそれを、不思議そうに覗き込んだ。


「ごめんなさい。それはできません」

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