第23話 怒りの課題

 高校時代、私に興味を持ち、接触を試みた澪織ミオリ。私は愛想笑いのバリアで彼女を退けた。


 時は流れ、一学期の期末テスト。またもや学年一位となった澪織ミオリは――


「また、負けた……」


 数学の点数は、澪織ミオリが98点、私が100点。彼女は未練を残したまま、高校一年の一学期を終えた。


 夏休みの間、数学の勉強に明け暮れた澪織ミオリは、二学期の席替えに奇妙な運命を感じた。


(この席、日向ヒナタさんの席だ)


 澪織ミオリの席のすぐ前には黒板があった。彼女は私がいた席に移り、私の席は教室の一番後ろ、窓際に移った。彼女は、私に話しかけることもなく勉強に集中し、万全を尽くして二学期の中間テストに臨んだ。


「100点……!」


澪織ミオリ! 全教科100点だって! パーフェクトじゃん!!」


「なんだよ無敵かよ! よーしみんなで澪織ミオリを胴上げしよーぜ!」


「「「「わーっしょい! わーっしょい! わーっしょい!」」」」


 4人のクラスメイトに神輿のように担ぎ上げられ、空中を上下する澪織ミオリ。その表情には動揺が現れていた。


日向ヒナタさんの名前がなかった)


 二学期の中間テストでは、私はどの教科においても、トップテンに入っていなかった。


 試験休みが終わり、通常の授業が始まった。澪織ミオリは、教師が板書をしている間に、一番後ろ、窓際の席の様子を伺う。俯いた私は、ペンを握ったまま微動だにしていなかった。


 授業後の休み時間。澪織ミオリは私に近付き、机の上のノートを覗き込んだ。


「な、なんですか?」


 私は椅子ごと後ろに倒れそうになった。目の前に迫った澪織ミオリの顔に、慌てて仰け反ったのだ。


「ご、ごめんなさい。でも、このノート、何も書いてないんですね」


 私の顔を覗き込む澪織ミオリの声は、明らかに私を心配していた。


「はい……」


理由わけを、聴かせてもらってもいいですか?」


 再び俯き、何も発することができない私。


星宮ホシミヤ 澪織ミオリっていいます。放課後、東門で待っていますから。よかったら聴かせてください。私、あなたのことがずっと気になってたんです」


 澪織ミオリはそれだけ言い残して自席に戻る。私の視線は、彼女の去り行く背中に釘付けになっていた。


 そして放課後、校舎を出た私は、何かに引き寄せられるように足を運んだ。


「来てくれたんですね」


 生徒たちは通常、学校正面の正門を利用していた。それは私も例外ではなかった。しかし、その日は違った。東門で待ち受けていた澪織ミオリに、私は目を合わせられず、おずおずと口を開く。


「あの、えっと」


「焦らなくて大丈夫です。歩きながら話しますか」


 私はこくりと頷いて、どこへ行くともわからぬ澪織ミオリの横を歩いた。いや、澪織ミオリは私に歩幅を合わせてくれていた。私は彼女の綺麗な皮靴を見つめたまま呟いた。


「黒板、見えなくて」


 澪織ミオリは一瞬微笑んでから、私に言葉を返した。


「眼、悪いんですか?」


「はい」


「コンタクトは?」


「したことありません」


「じゃあ、一学期は?」


「一番前の席だったので、黒板が見えたんです。でも今の席じゃ」


「一番後ろ……」


「はい、だから黒板を写せなくて。それでも最初は、先生の言葉をノートに書いてたんですが、全然追い付かなくて」


「それで、成績を落としたと」


「はい」


「なぜ視力矯正をしないんですか? メガネとか」


「メガネですか。中学まではメガネかけてたんですけど、小学校に上がる前に作ったものだから、サイズが合わなくて」


「新しいメガネは買ってもらえないんですか?」


「いえ、いつも父が買ってくれるって言ってるんですが」


「なら、買ってもらえばいいじゃないですか」


 私は、澪織ミオリのあっけらかんとした口調に息を呑んだ。そして、表情を悟られないように更に俯いて、口を開いた。


「父は、メガネをかけた私が『かわいい』って言うんです。それが恥ずかしくて、買ってくれるメガネも私に似合わない、かわいいものになりそうで」


日向ヒナタさんは、か、かわいいですよっ!」


 私の語尾に、澪織ミオリの上擦った素っ頓狂な声が重なった。面食らった私は、自分より20センチメートルは高い、彼女の顔を見上げる。その頬は、微かに桃色を帯びていた。


「ああ、えっと、コホン! じゃ、じゃあ、メガネはかけたくないんですね?」


「はい」


「うーん、でも、それじゃ困りませんか? 授業とか。ほら、得意な数学も……」


「64点でした」


「そう、それですよ。もったいないですよ」


「いいんですよ。他の教科は元から50点も取れなかったんですから。私の学力レベルはその程度で、数学もそこに収まっただけです」


 足音が消えた。私が横を見ると、そこに澪織ミオリはいなかった。更に身体を捻って振り向くと、彼女は足を止めていた。そして――


日向ヒナタさん……!」


 早足で近付いてきた澪織ミオリは、無言で佇む私の手を掴んだ。彼女は私を引っ張って、公園のベンチの前まで連れてきた。


「そこに座って下さい」


「は、はい」


 当惑して腰を掛ける私。その正面に澪織ミオリが仁王立ちになった。私の黒い瞳を見下ろす彼女の顔には、その美貌にそぐわない皺が集中していた。


「どうか、しましたか?」


「あなたの学力が50点レベルだなんて、誰が決めたんですか?」


「え? だってそうじゃないですか。実際に……」


 澪織ミオリは私の言葉を遮って、正面から私の両肩を掴んだ。


「そんなに自分を卑下して、何が楽しいんですか?」


「何がって……」


 言葉の出ない私に、澪織ミオリは絞り出すような声で迫った。


「私は、悔しかったんですよ。あなたに数学で負けて。でも、尊敬もした。すごいなーって思ってた。それなのに、今のあなたは何もかも諦めた顔をしています。私にはそれがものすごく不愉快です!」


「勝手にそんなこと言われても」


 もじもじと身体を縮こまらせた私の肩に、澪織ミオリは力を加えた。


「知っていますか? 私、この間のテストでは全教科100点だったんですよ? あなたに勝とうと思って、必死で頑張ったんです。その気持ちを踏みにじられた気分です! あの時の私の気持ち、返してください!」


「返すって、どうすれば……」


「こうすればいいんですよ」


 澪織ミオリは力強く呟くと、私の肩から手を離し、自分のカバンの中からノートの束を取り出した。そして、その束を両手で私に突き付けた。


「これ、全部あなたのノートに写してください」


「え?」


「え? じゃありません。私が今まで取ったノートを、あなたのノートに全て書き写すんです。それなら授業で黒板が見えなくても、勉強できるでしょう?」


「いきなり何を?」


「あなたは二学期が始まってからずっと、怠けてたようなものじゃないですか! その代償を今から支払うんです」


「怠けてた……確かに」


「さ、わかったら、これを持って帰ってさっさと写すんです!」


 澪織ミオリは私のカバンに自分のノートを突っ込み始めた。


「うう……」


 私は怯えていた。そして、目の前にいる少女の美しい顔を歪ませたことに、怒りを買ったことに、深い罪悪感を覚えていた。


「いいですね? これは私からの課題です! 絶対にやってきてください!」


 澪織ミオリはそう言うと、私の反応を待たず、足早に公園を去った。私は、重くなったカバンをたすき掛けにして帰宅した。


 罪の意識に苛まれた私は、自室で澪織ミオリのノートを開き、自分のノートに筆を走らせた。

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