第五章 ふたり

第22話 はじめての出会い

「ほ、星宮ホシミヤさん? えっと、私また、何かしましたでしょうか?」


 私のマンションに突如現れた澪織ミオリ。彼女は無言のまま、メガネの奥で震える私の瞳を見つめていた。コンピューターグラフィックスかと見紛うほど整った顔からは、感情を伺うことができない。


「怖いですよ。星宮ホシミヤさん」


 苦笑いを浮かべて冷や汗を流す私。澪織ミオリが息を吸い込む音が、私の肝を冷やした。


海果音ミカネ、あなたは本当に何も変わってないんだね」


「え? こないだも同じこと……あ、また名前で呼んでくれましたね……あはは」


 へらへらとする私に、澪織ミオリは表情を崩すことなく言い放つ。


「変わってない、何も。10年前から」


「10年前? ど、どういうことですか?」


 澪織ミオリの断定的な口調と、不安に震える私の声。


「やっぱり、思い出してくれないんだね、海果音ミカネ


「思い出すも何も、10年前は、15歳だから、高校に通ってましたけど」


 澪織ミオリは少し歯を食いしばってから、唸るように絞り出す。


「私だって、忘れてた。忘れたままならよかった!」


「えーと、いや、やっぱり何かの間違いですって!」


海果音ミカネは私に、母節介ぼせっかいって言ったよね?」


「え、ええ、去年の3月でしたっけ? 私たちが初めて会った……」


「その前、10年前にも言ったよね。それと、過保御前かほごぜんって」


「かほごぜん?」


「あなたが私に付けたあだ名だよ。過保護な御前様だから過保御前かほごぜん、そう言ったでしょう?」


 その時、私の脳裏に浮かんだのは、高校の廊下と少女。記憶の中の少女は、目の前にいる女性と同じ、金髪碧眼だった。


(私、この人と……)


「そのメガネだって、私が!」


 澪織ミオリは突然、私のメガネを取り上げた。ぼやけた視界のなか、青い瞳から光るものがこぼれ落ちる。


星宮ホシミヤさん? 泣いてるんですか?」


海果音ミカネ、思い出してよ……澪織ミオリって呼んでよ!」


 澪織ミオリの怒りとも嘆きともとれる叫びが、私の耳をつんざく。その時、スイッチが入ったように思い出した。そう、確かに私たちは10年前に出会っていたのだ――


澪織ミオリ、学年一位だよ! すごいじゃん!」


「目立つのは好きじゃないんだけどな」


「金髪に青い目してるくせに、今更何言ってんのよ。何もしてなくても目立ってるって!」


 とある高校の一年生たち。彼女たちは、廊下に張り出された、中間テストの得点ランキングの前ではしゃいでいた。その中に、澪織ミオリの姿。彼女は、周りの生徒たちに引っ張られて、そこに連れてこられた。


「クラスメイトが学年一位だなんて、鼻が高いよ」


 澪織ミオリを囲む三人の女子は、今にも胴上げしそうな勢いで、彼女をはやし立てていた。しかし、当の彼女が意識していたのは、別のことだった。


(数学の点数、96点だった。あんなところで間違えるなんて)


 澪織ミオリは数学の順位を見る。彼女の名前は二位に甘んじていた。


(あー、やっぱり。数学は一位取れなかったか。ちょっと悔しいな。一位はどんな人なんだろう? ……あ、この人、私と同じクラスの人だ)


 澪織ミオリに数学で勝った生徒は、数学が満点で、化学と物理が学年十位以内。他の教科のランキングに、その生徒の名前はなかった。


(理数系だけ得意なのかな? どんな人なんだろう)


 澪織ミオリはその生徒に興味を持ち、話しかけたい衝動に駆られた。彼女は教室に戻り、一番前の席に座る生徒に歩み寄る。


「あの、日向ヒナタさん」


 控えめに呼びかける澪織ミオリ。しかし相手は、自分が呼ばれているなどと、夢にも思わなかった。


日向ヒナタさん!」


 急にびくんと跳ねあがる黒髪ショートカットの少女。恐る恐る振り向いた彼女が目にしたのは、澪織ミオリの笑顔だった。


「やっとこっち見てくれた! ねえ、日向ヒナタさん、数学満点なんてすごいですね!」


「あは、ごめんなさい。それ、偶然です」


 困ったように愛想笑いを浮かべた少女は、席から立ち上がり、澪織ミオリに軽く会釈をして教室を出て行った。


 皆さんもうお気付きであろう。この少女こそが、高校時代の私、日向ヒナタ 海果音ミカネである。


 澪織ミオリは日を改めて、果敢にも私へのアタックを続けた。


日向ヒナタさん!」


「すみません、ちょっと忙しいので」


 次の日も。


日向ヒナタさん!」


「朝礼、始まっちゃいますよ?」


 また次の日も。


日向ヒナタさん!」


「あの、おトイレ行くので……」


 そのまた次の日。


日向ヒナタさん!」


「……」


 私は正面を向いたまま、聴こえてないふりをした。


日向ヒナタさん?」


 澪織ミオリは私の正面に回り込み、私の顔を覗き込む。


「あ、あはは、ちょっと持病のしゃくが……」


 私はどこへともなく逃げ去った。私は何度声をかけられても、同じように愛想笑いを浮かべて澪織ミオリから逃げ続けた。


 そうして一週間もすると、澪織ミオリは私への接触を諦めた――と思いきや。


「ねえ、日向ヒナタさんってどんな人なのかな?」


日向ヒナタさん?」


日向ヒナタ 海果音ミカネさん。一番前の席にいる」


 澪織ミオリは座ったままの私に目をやった。


「ああ、ヒカゲちゃん?」


「ヒカゲ?」


 そこに、もうひとりの生徒が割り込んできた。


「リカ、澪織ミオリ、なんの話してるの?」


「あ、ヨーコ、澪織ミオリちゃんが、ヒカゲちゃんのこと気になるって」


「あー、なんかあの子、髪も目も真っ黒で、自分から喋ったの見たことないし、幽霊みたいで怖いんだよね」


「そ、そうなんだ。確かに目は真っ黒だったね。でも、クラスメイトにそんな言い方しちゃダメだよ」


「あははっ! 本人に直接言ってないでしょ! も~、澪織ミオリったらカタいんだから! もしかして、実家が神社だから? 真面目かーこいつ?」


 澪織ミオリの脇腹を肘でつつきながら、あざけるような視線を送るヨーコさん。


「もうっ、からかわないでよっ! こっちは真面目に訊いてるのに」


「ふふ、まあ、澪織ミオリちゃんも、あんな子気にしないほうがいいよ」


 リカさんはたしなめるように澪織ミオリの肩を叩いた。


「うんうん、ヒカゲちゃんに呪われちゃうぞ~」


 両手を胸の前で構え、ぶらぶらとさせるヨーコさん。澪織ミオリは呆れたように目を閉じて、


「はいはい」


 しかし澪織ミオリは、同級生にからかわれてもへこたれなかった。


「あの、先生」


「ん、なんだ? 星宮ホシミヤ


「えっと、日向ヒナタ 海果音ミカネさんって居ますよね? あの人はどういう人なんですか?」


「なんだ、やぶから棒に。どういう人って言われてもなあ。正直あんまり印象に残ってないな」


「ええ~、先生なのにそんなこと言っちゃっていいんですか?」


「ははっ、いやすまない。とは言っても、俺も数学が得意な生徒だとしか……はっ、まさか星宮ホシミヤ、自分が日向ヒナタに負けるとか、危機感持ってるのか?」


「あ~、まあ、現に数学では負けたわけですし」


「いいか星宮ホシミヤ、物事は大局的に見るんだ。日向ヒナタは理数系以外からきしなんだぞ? お前の立場を脅かすことはないよ」


「そういうことじゃなくて! 性格とか、わからないんですか?」


「そんなに迫るなよ。でも、あんまり話したこともなくてな。数学が得意なんだから、頑張れば他の教科もいい点取れるかもしれんな」


「そうですか。何も知らないんですね」


「まあ、良かったらお友達になってやってくれ。いつもひとりで席に座ってて怖、いや、寂しそうだから」


「もう、先生なのにまたそんなこと」


「ははは~、あー次の授業だ! 急がないとー!」


 それから澪織ミオリは、担任以外の教師や、他の生徒にもあたってみた。しかし、私の素性を知っている者は、誰ひとりとして存在しなかったのだ。

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