第三章 あなたが居なければ

第12話 台風がくれた季節

 8月下旬、朝。私は駅のホームで人混みにまみれて、会社に電話を入れていた。


「はい、申し訳ありません。まだ電車が来なくて。出勤の目途がつき次第、また連絡します。それでは失礼します」


 電車は台風の被害で遅延していた。私はもみくちゃにされ、横殴りの雨がメガネを濡らす。命からがら会社に辿り着いた時には、時計は10時を回っていた。


「台風くらいでこんなに遅刻するなよ」


 私と同様、電車で通勤していたはずの上司は、定時の9時出勤に間に合っていた。私は頭を下げる。


「すみません」


「天気予報で台風って言ってただろ? 早めに家を出ないからだよ」


「いえ、あの、天気予報見てなくて」


 私は嘘をついた。台風の接近は知っていたが、遅刻したとしても不可抗力だと高を括っていた。電車の遅延証明さえあれば、お咎めなしだと考えて、いつも通り家を出たのだ。


「はぁ、まあしょうがないけどよ、ニュースくらい見ておけって話だよ。お前、テレビ持ってないのか?」


「はい」


 テレビを持っていなかったのは本当だった。ニュースはネットで見ていたが、そんなことを言っても話が遠回りするだけだと思った。


「そうか。買っておいた方が何かと役に立つぞ? 社会人なら社会に目を向けなきゃな」


「確かにそうですね。探してみます」


 私は申し訳程度に相槌を打って、仕事に取り掛かった。


 その日の仕事は別段忙しくなかったので、定時には退社した。外に出ると台風は通り過ぎていて、夕焼けと虹が空を彩っている。私はその美しい光景を見渡しながら、朝のことを思い出していた。


(いつもは30分前に自席についてるのに、初めて遅刻してしまった。でも、悪いのは台風であって……)


 私はその足で家電量販店に向かっていた。心に「遅刻」というトゲが刺さっていた私は、上司の言葉がやけに引っ掛かっていた。そして、テレビを求めてそこを訪れた。しかし――


「高い……」


 周りに店員がいるにも関わらず、声に出していた。一度そう思ってしまうと、購買意欲は急激に薄れていった。


(よし、今日は別のものを買いに来たんだ)


 私は自分にそう言い聞かせて、スマホのモバイルバッテリー、ワイヤレスイヤホンを購入。テレビを買うのとさほど変わらない金額を支払っていた。すると、店員は5枚綴りの紙を差し出してくる。


「ただいまキャンペーンで福引をやっておりまして、購入額に応じて福引券をお渡しさせて頂いております。5回引けますのでどうぞ」


「あ、はい。ありがとうございます」


 私は店の出入り口付近にある福引所に向かった。券を差し出してガラガラを回すと、1回目は白い玉が出てきて、景品はポケットティッシュ。2、3、4回目もポケットティッシュ。最後、5回目に出てきたのは――初めて見る銀色の玉だった。


「おめでとうございます! 2等、テレビが当たりました!」


 私は息を呑み、自分の引きの強さに目を丸くした。思ってもみなかった幸運に、心の中で喝采を上げる。


「では、こちらの契約書にサインをお願いします」


 その言葉でいとも容易く喝采は止んだ。店員は笑顔で申込用紙を差し出してきたのだ。


「へ?」


 状況が飲み込めない私に、やれやれといった顔で説明を始める店員。


「ですから、このテレビをお持ち帰りになる場合、こちらの放送局への支払いを契約していただくことになってるんですよ」


「あ、じゃあいいです」


 私の警戒心は、契約という言葉に拒否反応を起こした。しかし、店員は食い下がってくる。


「そう言わずに! この放送局はスポンサードを受けない代わりに、公平性を徹底した報道をしていますので!」


 私は、これが福引を装って契約を迫る手口であることを察した。


「契約しなくても他の局は映りますよね? テレビなんですから」


「契約してくださらない方にはお渡しできません」


「え、あ、そうなんですか」


「そうですね……これは独り言ですけど、一ヶ月で解約しちゃえばいいんですよ」


 そうか、店員さんだってあのテレビ局の回し者ではないんだ。契約を交わしてしまえば後は野となれ山となれなんだ。元はと言えば、私はテレビを買いに来たんだった。そう思った私は、契約書にサインをした。そして――


「よいしょ、よいしょ……」


 配送料をケチった私は、36型のテレビを背負って帰ることになった。非力な私にとってそれは、苦行に等しい。


「ふぅ、契約しちゃったことだし、見てみようかな」


 帰宅してテレビをセッティングした私は、例の局にチャンネルを回した。しかし、10分も視聴していると気分が悪くなってくる。


「うーん、なんだこれ……」


 そのテレビ局は、スポンサーが居ないことをいいことに、ニュースであらゆることへの批判を繰り広げていた。きっとそういうのが好きな視聴者もいるんだろう。そう思いながら、民法の局にチャンネルを回す。


「ふーむ、確かに観てるだけでいいっていうのは、楽でいいかな。ネットだと自分で検索しなきゃならないもんね」


 私がテレビの前で独り言を言っていると、コマーシャルが流れ始めた。


「24時間働くあなたに! 疲労回復にこの液体が効く!」


 画面では、スーツとネクタイでビシっと決めた男性が、栄養剤片手にニヤリと笑う。


「え、24時間も働かないよ。寝るでしょ?」


 テレビに向かって文句を言う私。別の局にチャンネルを回すと、そこでもコマーシャルが流れていた。


「風邪で辛い! そんな時にはこれ。すぐ効いて眠くならない! よーしあとひと仕事、頑張るぞー!」


 まただ。サラリーマンらしき男性はガッツポーズを決めている。


「いやいや、風邪引いたら会社休むでしょ?」


 再びテレビに文句を言う私。そんなことをしても何の意味もない。私は自嘲気味に笑った。次のコマーシャルが流れる。


「眠気覚ましの決定版! ……プツン」


 私はテレビの電源を切っていた。なんで薬まで飲んで働かなきゃならないんだろう。そんな独り言を飲み込みつつ、その日は寝ることにした。


 一週間後、9月初旬、ある日の朝、私はいつも通り、始業より30分早く会社の自席についていた。


日向ヒナタ、早いな。おはよう」


「おはよーございまーす」


 上司も十分早い。そう思って上司の方を見ると、壁に見慣れないポスターが貼ってあることに気付く。そこには、「みんな時間通りに来てるんだよ! 遅刻は厳禁! 電車遅延は言い訳になりません!」と書いてあった。


「これ、坂上サカガミさんが貼ったんですか?」


「違うよ。これは部長がネットで買ったんだ。お前を含めて、社員が遅刻の罪の重さを理解するためにな」


「罪の重さって……しかし、わざわざ買ったんですか? こんなパワポで15分もあれば作れそうなもの」


「ははは、日向ヒナタ、それは言いっこなしだ。1枚1500円もするらしいからな!」


「あ、はい。すみません」


 見渡してみれば、似たようなポスターが至る所に貼ってある。私はそんなポスターに払うお金があるなら、給料を増やしてほしいと思っていた。

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