第11話 黒い守護者

 街中に貼られた張り紙を剥がして回った私と澪織ミオリ。最後の張り紙を剥がそうとするふたりの前に、警官が現れる。彼は私たちに危険だから帰れとさとす。その時、遠くから、ざざざざっという不気味な音が迫って来た。


「な、なにっ、なんですか?」


「落ち着きなさい。大丈夫、何かあったら私が守るから」


 身を強張こわばらせる私を警官が庇う。しかし、次の瞬間――


「うわっ!」


 民家の塀伝いに現れた黒い塊が、警官の身体に激突したのだ。いや、黒い塊に包まれたように見えた。そして警官は、電柱を背にして気を失ってしまった。


海果音ミカネ! 危ないっ!」


「えっ……って、わあっ!」


 10メートルほど先にある電柱でくるりとターンして、再び黒い塊が迫ってくる。澪織ミオリは私の前に立ち、シール剥がしのヘラを構えた。


「下がってて!」


 言われるがままに電柱の影に隠れる私。私に背を向けた澪織ミオリは、黒い塊の動きを目で追っていた。


「なにこれ、こんなのが本当にあるって……せいっ!」


 遠ざかっては突撃を繰り返す黒い塊。澪織ミオリは飛び掛かってくるそれを寸でのところでかわしながら、お得意のハイキックを見舞おうとする。が、その攻撃は黒い塊の中を突き抜けるように空を切る。


「だ、大丈夫ですか!?」


「任せておいて!」


 黒い塊はスライムのように柔軟じゅうなん伸縮しんしゅくし、なお澪織ミオリを襲う。沈んだ太陽が残す光の中で、私は黒い塊の中心に2つの丸い輝きを見た。


「待って!」


 私はなぜか叫んでいた。誰に対して言ったのか、自分でもわからなかった。黒い塊が一瞬動きを止める。澪織ミオリはその隙を見逃さなかった。


「はぁぁっ!!」


 澪織ミオリは腰を深く落とし、ヘラを握った腕を大きく横に凪いだ。彼女の腕が黒い塊の中に深く潜り込む。次の瞬間、黒い塊はふたつに分離する。すると、片方は一目散に塀の向こうへと消えて行った。


「わ、なにこれっ」


 もう片方の黒い塊が私の足元に転がって来た。腰を抜かした私は、50センチメートルほどある黒い塊を間近に見る。


「え……?」


 私にはそれが、ハエなどの無数の羽虫が群れになったものに見えた。私の身体の芯に悪寒が走る。


「ひぃぃぃぃっ!」


 逃げた黒い塊を追おうとしてた澪織ミオリは、私の悲鳴に立ち止まって駆け寄ってきた。虫たちに見えた黒いモヤモヤは、いつの間にか霧散むさんしていた。


「何があったんですか! これは……」


 澪織ミオリは私の足元を見る。私も視線をそちらに向けると、小さくのたうち回っているものが見えた。


「尻尾?」


 私も澪織ミオリも唖然としていた。そこにあったのは、4センチメートルほどの、トカゲの尻尾のようなものだった。


「これって、自切じせつっていうやつでしょうか? トカゲの尻尾切り?」


 澪織ミオリは尻尾に視線を向けたまま、私に問う。


「は、はい。私にもそう見えます」


 その時、私は調べ物をした時のことを思い出した。


「いえ、トカゲだけではありません。ヤモリも自切じせつするとか」


「ヤモリって壁を這う爬虫類ですよね? 塀を伝って行ったのはあれがヤモリだったから? 私はヤモリと戦っていたと? そんなことあり得ません」


「私にもわかりません。ただ、私はあの黒いモヤモヤを間近で見たのですが」


「モヤモヤ?」


「はい、黒い塊に見えていたのは……煙のようなものでした」


 私はあれを、何かの見間違いだと思いたかった。


「煙? そんなっ! 確かに手応えはありませんでしたが、このお巡りさんは確かに」


「ごめんなさい、私にもよくわかりません」


「いえ、私にもあれがなんだったのか、皆目見当もつきません。私は今まで超常現象など存在しないと考えてきましたが、認識を改める必要があるのかも……」


 その後、もうひとりの警官が応援に駆け付ける。気絶していた警官も、名前を呼ばれて無事に意識を取り戻した。交番まで同行を要求された私と澪織ミオリは、最初に私が張り紙を貼ったことを隠しつつ、事情を説明した。


「それで、ばーっと逃げて行って……」


「結局あれが何だったのか、私にもわかりませんでした」


 気絶していた警官も、「いつの間にか気を失っていた」と語る。もうひとりの警官は首を傾げながら言った。


「不思議なこともあるものですね。ただ、逃げたってことは、まだそいつがこの街に潜んでいるということでしょう。これから警戒を強化することにします」


 そして、私たちは無事解放されることとなった。交番を少し離れると、澪織ミオリは立ち止まり、少し息を吸ってからこちらに向いて、口を開いた。


「じゃあ、私はこのまま走って帰りますので」


「ああ、ジョギングの途中でしたね。今日はありがとうございました」


「いえ、こちらこそ」


「はい。あ、そういえば、私の名前……」


「名前?」


海果音ミカネって、呼びましたよね?」


海果音ミカネさんって言うのですか。今初めて聴きました」


 澪織ミオリは私に目を合わせようとしなかった。


「でも、さっき、黒い塊と戦ってる時に確かに」


「さあ、咄嗟とっさのことだったのでよく覚えてません」


「そ、そうですか」


「では、私はこれで。この街の情報はネットで追いますので、また何かあったら来ますよ。それと……」


「それと?」


「もうあのようにノートを使うのはやめてくださいね」


「は、はい。でも、あれって私のせいだったんですかね」


「さあ? 私には答えられません……それではさようなら」


 澪織ミオリはそう言うと、逃げるように走り去っていった。私は彼女の態度が腑に落ちないまま、自宅へと辿り着く。


「あっ」


 扉にはまたヤモリが張り付いていた。しかし様子がおかしい。私が目を丸くしてよく見ると――


「この子、尻尾が無い……」


 その時、私の頭は真っ白になっていた。私は何も考えずに両手でお椀を作り、扉のヤモリの下に差し出していた。すると、ヤモリはそのてのひらの上にゆっくりと移動してきた。


「そーらのー、おおきーさがー♪ つーちのー、ぬーくもーりがー♪ もりのーしーずかー、みずのかがーやきー♪ そしてーくさのやーさしーさがー……♪」


 なぜか私は、ヤモリを見つめたまま歌っていた。てのひらに乗った彼の黒くて丸い瞳は、私を見つめ返しているようだった。歌い終えた私は呟く。


「ありがとう、ごめんね。モヤモヤのヤモリさん、モヤモヤモリさん……」


 私は自分が何を言っているのか理解していなかった。私が微笑むと、ヤモリも微笑むように瞬きをした。


 次の日、週初めの朝。起床した私は、澪織ミオリの言葉を思い出していた。


「はい、なにより、あなたが笑顔だと、こちらも笑顔になれます」


 私はその時の澪織ミオリの笑顔を脳裏のうりに浮かべながら、出勤のため、玄関を出る。


「おーだんほどーはしりぬけー♪ サッカーボールにじゃれつきー♪ テーブルクロスにもぐりこーむ♪」


 私は笑顔で歌いながら歩いていた。それは、いつも憂鬱ゆううつな朝を過ごしていた私にとって、初めてのことだった。道行く人たちは、相変わらず私に見向きもしない。いつも柵の向こうから私を吠えていた犬は、こちらを見て、ご機嫌そうに尻尾を振っていた。


 それからというもの、私が近所の犬に吠えられることはなくなった。そして、未確認生物の噂も忘れ去られていったのであった。

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