第8話  都市伝説

 すっかり梅雨も明けて、太陽が肌を焦がす季節。私の住む街は、夏の風物詩ふうぶつし、怪談の噂で持ち切りだった。


「サイトウさんのところもやられたみたいよ」


「庭にも入ってくるんでしょ? 怖いわねえ」


 ペットを襲う正体不明の生物の噂は、主婦の井戸端会議いどばたかいぎ席捲せっけんしていた。その噂は、いつしかネットを通じて全世界へと拡散され、あの女性の目にも触れることとなる。


「よろしくお願いします!」


 ここはとある録音スタジオ。彼女の名前は星宮ホシミヤ 澪織ミオリ。春先、ネットの炎上事件から、私に接近してきた女性だ。


「こんなの、こんなのあんまりよ!」


 澪織ミオリは声優としての活動が軌道に乗り始めていた。彼女はアニメのアフレコに、初めて主役として参加していた。その演技力は、高く評価されていた。


「あの子、やっぱり起用して正解だったよ。いいよねえ」


「でも、もう24歳らしいですよ。もっと若い子の方が良かったんじゃ」


「いやいや、遅咲きでもいいじゃないか。彼女には光る物を感じるよ」


 録音スタッフと会話を交わす音響監督おんきょうかんとくの目は、澪織ミオリに釘付けだった。


「それでも私は、諦めないッ!」


「ハイ、オッケーでーす! いただきました!」


 収録も無事に終わり、スタジオの空気が弛緩しかんする。


「お疲れ様でした!」


 スタッフたちに頭を下げる澪織ミオリ。彼女に音響監督おんきょうかんとくが声をかける。


「いやー、よかったよー澪織ミオリちゃん。今までなんで主役やってなかったの? ってくらい!」


「ありがとうございます。やっと力がついてきたんですかね」


 愛想笑いを浮かべる澪織ミオリ、対する音響監督おんきょうかんとくは真っ直ぐな笑顔を返す。


「いや、僕を含めて、今まで君の才能を見抜けなかったのが不思議でならないよ。運が悪かったんだねえ」


「そうでしょうか? こうして主役を頂けたのは運がいいからですよ」


「そんな謙遜けんそんばっかりして、マイクの前ではあんなに自信たっぷりだったのに」


「いえ、そんな、緊張してました」


「うーん、そうは見えなかった。まるで役に乗り移ってるみたいだったよ」


「そ、そうですか? 私にはよくわかりませんが」


澪織ミオリちゃん、もしかしてご両親が役者さんなのかな?」


「えっっと、そんなことはないですよ。実家は……神社関係でして」


「そうなんだ! そうかそうか、きっと神様に仕えてるから降霊術こうれいじゅつみたいなことができるんだねっ」


「いえ、それは……」


 言葉に詰まる澪織ミオリ眉間みけんしわは明らかに不快感を示している。音響監督おんきょうかんとくもそれを察知さっちして冷や汗を垂らす。


「……あはは、ごめんごめん、とにかくよかったよ。来週も一緒に頑張ろうね」


「はい……」


 スタジオを後にした澪織ミオリは、表情を曇らせたままだった。帰り道、彼女はため息をつき、独り言を漏らす。


「はぁ、やっぱり実家のことなんて言うんじゃなかった。降霊術こうれいじゅつだなんて……」


 澪織ミオリは実家のことを茶化されるのが好きではなかった。電車の中、彼女は気を紛らわせるために、スマホでお気に入りのサイト「オカルトバスター」を開いた。そして、とある新着記事に目を奪われる。


(ふふ、まーた新しい都市伝説か。なになに? 『未確認生物出現! 住宅街に潜む黒い影』? 影は黒いに決まってるよね。あははっ! ふーん、塀をすばやく走り回る、液体のように形を変える、体長2メートルにもなる。うわ、犬が怪我してる。でもこれ、未確認生物なんかじゃなくて、別の原因があるんじゃないの?)


 そう、それは私が住む街の噂であった。


(ん? この住宅街、行ったことあるような気がする。うーん、なんでだっけ? うちから意外と近いし、今度の休みに行ってみようかな)


 澪織ミオリは気まぐれにそう決心した。


 一方私は、自分の街の噂がネットを賑わすまでになったことに、危機感を覚えていた。


「あなたの言葉にはきっと、人の心を動かす不思議な力があるんですよ」


 そう言われたことを思い出す。私は未確認生物など信じてはいなかった。噂の原因が自分にあるのではないかと、薄々うすうす感じていたのだった。


「あれが私のせいだってことになったら、社会的に死んじゃうよね。はぁ……」


 日曜日の日中、私は部屋着にしているTシャツとハーフパンツ姿のままサンダルをつっかけて、こっそりと例の電柱へと急ぐ。


「って、あー、これは……」


 私は自分が貼った紙だけを剥がすつもりだったが、他の張り紙と微妙に重なっている。私の張り紙は当然、一番下だ。それだけを剥がすのは至難しなんわざだった。


「うーん、ええい、ままよっ!」


 私は張り紙に手を伸ばした。その時――


「あの」


「うわぁっ」


 飛び上がるように背筋を伸ばしてから振り返ると、そこには、流れる汗がキラリと光る金髪碧眼きんぱつへきがんの女性が立っていた。恰好からすると、彼女はジョギングの最中のようだった。


「驚かせてしまってごめんなさい。ジョギングしてたら、この辺って張り紙が多いなって気になりまして」


「は、はい、多いですね」


「この張り紙ってもしかして、ネットで拡散されてる未確認生物と関係してます?」


 その通りではあるが、私は言葉に詰まっていた。彼女は少しかがんで私の顔を覗き込む。


「? どうしました?」


「ああ、いえっ、そ、そういえば、そう、かも、しれませんね……」


 私の目は泳ぎ、語尾は小さくなってゆく。が、彼女は自分の胸の前でパンと手拍子を打ち、明るい声を上げた。


「やっぱりそうなんですね! ところで今、何をなさってたんですか?」


「えーっと、張り紙を見て、こわいなーって?」


「なぜ疑問符を? まあ、たしかに怖いですよね」


 彼女は私の顔をじっと見つめる。私はヘビに睨まれたカエルのように、視線すら動かせなかった。


「うーん……あっ! どこかで見たことがあると思ったら、この間のひなたんさんじゃないですか!」


「え? あ、ああっ! そういうあなたは……星宮ホシミヤ澪織ミオリさんっ!」


「覚えててくださったんですね! ありがとうございます! でも私、なんであなたのことを忘れてたんだろう?」


「いえ、私もさっきまで気付きませんでしたから」


 お互い、相手のことを忘れていたことに疑問を感じ、照れ笑いを浮かべる。


「まあ、そういうこともありますよね。私って結構地味なんですかね?」


 青い瞳も、ポニーテールに束ねたブロンドの髪も、整った顔立ちも、とても地味と呼べるものではなかった。


「そんなことないと思いますが。あ、ところで、今日はどうしてここへ?」


 私は、前回澪織ミオリと会った時のことを思い出して、身震いをしていた。


「ああ、今日はジョギングしてただけですよ。ついでにネットで噂になってる街を見てみようかなって」


 澪織ミオリは笑顔で答える。その表情に嘘偽うそいつわりはないようだ。


「はぁ、噂とかに興味あるんですか?」


 その時、待ってましたとばかりに、澪織ミオリの表情は更に明るくなる。


「はいっ! 私、都市伝説を研究するのが趣味でして、よくネットで調べてるんですよ」


「へぇ、未確認生物が見られると思って来たんですか?」


「いえ、それは違います」


 澪織ミオリは急に神妙な面持ちになる。


「え? じゃあどうして?」


「いいですか、ひなたんさん。ここで噂になっているような生物は存在しません!」


「と、言いますと? 目撃証言も多数ありますが」


「だって、2メートルもあるんですよ? そんな大きな生物は壁に張り付いて移動することなんてできませんよ」


 私も未確認生物など信じてはいなかったので、至極真っ当な意見で否定されると気持ちが良かった。


「確かに! 本当にいるんだったら写真の1枚くらいあってもいいですしね」


「でしょうっ!? ふふ、わかってるじゃないですか! 被害に遭ったペットの写真は数あれど、未確認生物は影も形もない。これは立派な都市伝説です」


「この街も都市伝説の舞台に?」


「そうです! いいですか、都市伝説には似たような話がいくつもあって、例えば人面犬。人の顔をした犬が時速100キロメートルで走るっていうんですよ? あり得ませんよね。それから、人面魚っていうのもいます。ツチノコは有名ですよね? 海外にもチュパカブラとかモスマンとか、とにかく人間は未確認生物を創作するのが好きで、スカイフィッシュなんて、ただビデオカメラの映像の性質上そう見えるだけなんですよっ。それにですね……」


 延々と続く澪織ミオリの都市伝説講座。私は少し背の高い彼女の顔を見上げながら、耳をかたむけることしかできなかった。彼女の声は心なしか遠ざかって行く。そして――


「きゅ~……」


 ばたんっ!


「おっかしいですよねー……って、あれっ、ひなたんさん倒れてるっ! 大変っ!」


 季節は夏真っ盛り。私の貧弱な身体は、炎天下えんてんかで5分と持たなかったのである。

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