第二章 ご近所怪動物奇録

第7話 近隣住民とペットたち

(気付かれませんように……)


 私がネットを炎上させてからから数ヶ月、季節は初夏。通勤中、私は駅までの道のりを歩いていた。


「バウッ、ワウワウッ」


 民家の庭から柵越しに吠えられた。その頃、私は近所の飼い犬から警戒されていた。


「ごめんなさいっ! うう……」


 俯いて柵の前をたたたっと走り抜ける。しかし――


「ワンッ! ワンッ!」


「わわっ!」


 今度は散歩中の犬に吠えられた。リードを握るおばさんは軽く会釈えしゃくをする。


「あらごめんなさい。コラ、人様に迷惑かけちゃダメでしょ? もう、いけない子なんだから~」


 おばさんはしゃがんで犬を撫でる。とても怒っているようには見えない呑気のんきな態度であった。


「す、すみません」


 私はそろりそろりと道の端に寄り、塀を背にして横歩きで通り抜けた。おばさんと犬が見えなくなったところでため息をつく。


「はぁ、怖いなあ。なんで吠えられるんだろ? 私が悪いのかな?」


 独り暮らしを始めてから、朝の通勤はずっとそんな調子だった。


 ――夕刻。


「おつかれさまでした~」


 定時には仕事を終えて帰宅する。その日は運悪く、帰り道でも災難に遭った。


「ワン! ワンッッ!」


「ひゃぁぁぁっ!」


 また犬だ。首輪をしているが飼い主はいない。彼は夕陽が照らし出す道で、私を執拗しつように追い回していた。


「はあ、はあ、はあ、ここまでくれば、チェイヌさん、来ないよね? ふぅ……」


 チェイスする犬だから「チェイヌ」。私はその追手から逃れ、マンションの自室の前で安堵あんどする。そして、ドアノブに手を伸ばすと――


「ひぃっ!」


 ドアに見慣れないものが張り付いていることに気付く。私のてのひらほどあるグレーの身体に、手足と尻尾が生えている。頭には黒くてつぶらな瞳が光っていた。


「これって、トカゲ? いや、ヤモリさんだ。うう……」


 私が恐れをなして硬直していると、ヤモリはちょろちょろと壁を伝って逃げていった。


「はぁ、びっくりしたあ。なんでヤモリさんがいるんだろ? まさか、誰かが私の住所を特定するために? そんなことないよね~」


 ぶつぶつ言いながら帰宅し、落ち着いた私は浴室に向かった。スーツとブラウス、下着をするりするりと脱いでゆく。初夏の夕陽の中を走り回ったというのに、汗はほとんど滲んでいない。私は子供の頃から、"汗を流す"という体験をしたことがなかった。


「かなしいーあさーや♪ ねむれないーよる♪ しずかにーめをとじ♪ おもっていますー♪ ……ふぅ」


 いつものように湯船で歌う私。風呂から上がると、夕食を摂ってからパソコンに向かった。突如とつじょ現れた彼のことを探るために。


「えーっと、『ヤモリ』っと……なになに、『夜行性で昆虫やクモを食べる。獲物目当てで灯火の周りに現れる。自切じせつと再生を行うことができる』。ふーん、廊下の蛍光灯に虫が寄ってくるからかな。なるほど~、それならいっか」


 私は日頃から、部屋に侵入してくる虫に悩まされていた。彼らだって好きで侵入してくる訳ではない。でも、迷惑なことには変わりがない。それを阻んでくれるなら、願ってもないことだった。


「ヤモリさんなら吠えたりしないし、仲良くなれるよね。まだいるかな?」


 ドアを開いて見渡すと、ヤモリはまだ壁に張り付いていた。


「さっきはびっくりしてごめんなさい。よろしくね」


 ヤモリが言葉に反応するはずもないが、私には口元が動いたように見えた。


「ひぃっっ!」


 驚いてバタンとドアを閉める。ヤモリの口元からは、昆虫のあしおぼしきものが飛び出していたのだ。


「ふぅ、怖かった。でも、やっぱり守ってくれてるってことだよね。キレイにしてくれる私のペット、さしずめマイペットってところかな? あはは……」


 その日はそれから何事もなくとこに就いた。しかし――


「うわーん、なんで追いかけてくるのーっ?」


 いつの間にか私は、道端で犬に追いかけられていた。あしが思うように動かずもつれてしまう。


「うわぁっ!」


 つんのめって転んだ私が振り向くと、飛び掛かる犬が目前に迫っていた。


「ごめんなさいっ! ……って、夢か……」


 時刻は夜中の3時。自分の鼓動こどうだけが激しく響いている。私はおもむろに椅子に座り、パソコンデスクに向かった。


 かりかりかりかり……


 私は一心不乱にペンを動かす。澪織ミオリからもらった「タダノート」に、頭に浮かんだ言葉をひたすら書き込む。それが、気をしずめる方法だった。


「ペットってなんなんですか? 人間が他の動物を飼うって傲慢ごうまんじゃないんですか? そんな資格が人間にあるんですか? 動物の意思は確認したんですか? 彼らがそうして欲しいって言ったんですか? 本当は苦しんでるんじゃないんですか? 動物の気持ちも考えない身勝手な人間が動物愛好家だなんて、おかしいですよ」


 殴り書きを続けるうちに、乱れていた呼吸が整ってゆく。


「あっ、これ」


 ふと我に返ると、ページいっぱいに大きな文字で、ひとつの文章をしたためていたことに気付く。


「危険なのでペットを外出させないでください」


 私はそれを小声で読み上げた。すると、頭に妙案が浮かぶ。そのページをびりりっと手に取った私は、パジャマのまま靴を履き、真夜中の道路に歩き出していた。


(うん、これでよし!)


 マンションからすぐの街灯の下、マスキングテープでノートのページを電柱に貼り付ける。寝ぼけていた私は、それでペットからの被害が止むと考えたのだ。


 ――数日後の朝。


「最近物騒になったものねえ」


「ええ、うちも気を付けないと」


 いつものように通勤していると、私が張り紙をした電柱の前で、井戸端会議いどばたかいぎが開催されていた。私は聞き耳を立てながら通り過ぎる。


「うちの犬もあんまり散歩させないようにするわ」


「今はその方がいいみたいね」


 2人の主婦は不安気な表情だ。片方は、私を吠えた犬を散歩させてた飼い主だった。私が「私にとってペットが危険」という意味で書いたものが、「ペットにとって何かが危険」という解釈をされていた。私は、予想外の事態に少し罪悪感ざいあくかんを覚える。しかし、一応想定通りの効果が表れたことに小さくほくそ笑んだ。


「バウッ、ワウワウッ、バウッ」


 しかし、相変わらず民家の庭から吠えられる。私は逃げるように駅へと急いだ。


 そして夕刻、仕事を終えた私は帰宅を急ぐ。


「ん?」


 私は自分の張り紙の前で立ち止まった。


「張り紙が増えてる。なになに、『正体不明の生物を見ました。襲われないように気を付けましょう』? えー、そうなの??」


 張り紙の隅には黒い塊が描かれ、「1メートル」という解説が書かれている。私は犬か何かを見間違えただけだろうと、ひとり納得した。


 ――数日後。


「えっ、ここにも?」


 日が経つにつれて張り紙は増えて行き、他の電柱や民家の塀にも、正体不明の生物への注意喚起ちゅういかんきが掲示されるようになった。その生物の特徴は、塀をすばやく走り回る、液体のように形を変える、伸びると2メートルほどになる、などなど、にわかには信じがたいものであった。私は張り紙の前で乾いた笑いをこぼす。


「はは、もう、私の張り紙とは関係ないよね」


 だが、ありがたいことに、張り紙の効果でペットの外出は目に見えて減っていった。私に直接危害を加えられる動物は、往来おうらいから姿を消しつつあった。


 更に数日後、私は新しい張り紙を見て目を丸くした。


「『正体不明の生物にうちの犬が噛まれました。本当に危険です。ペットは家の中に避難させましょう』って、どういうこと? ただの噂じゃなかったの?」


 張り紙の写真には、前脚まえあしに血が滲んだ犬が写っていた。それは、私を庭から吠えていた犬であった。


「そっか、この子が……」


 私は瞳を潤ませる。敵意を向けられてたとはいえ、顔見知りの犬が被害に遭ったことに、ショックを受けたのであった。

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