ルビィ
第3話 前篇 おしゃべりガール
今年で三十歳になる【ルビィ】こと瀧村晴香が彼女たちを初めて目撃したのは地元農協主催のイベントでのことだった。
最初はもちろん、それを目的にしていたわけではなかった。ただそのイベントで並ぶ野菜はどれも新鮮で美味しいからと義母におすすめされ、買いに行ったのだ。
「ルビィさん、『最初、流暢なドイツ語が聞こえてきたとき、ほんとびっくりしたなぁ』? そうだよね、何のライブだよって感じだよね」
グロウライブでは〝きりえ〟が今日も配信をしていた。
【ルビィ】のコメントを拾い、〝きりえ〟はさらに得意のドイツ語で何かを言ったが、ドイツ語があまりよくわかっていない晴香やその他のファンはコメントに困ってしまった。
▷ 白@teamリッピン♡きりえ推し:ごめん、どういう意味? ^^;
古参の〝きりえ〟推しのファンが代表して聞く。
「あ、ごめんね。私は日本のアイドルです、って今言いました、ドイツ語で」
そんなふうに笑う彼女を見て、私もドイツ語の勉強がしたいなと、たまたま出会っただけの女の子に対して晴香は今やそんな感情を抱いている。
田舎の一軒家は都内では想像がつかないほどにばかでかい。そのことを知ったのは大学三年の夏のことだった。
三つ年上でゼミの院生だったのちの夫に誘われて、ごく軽い気持ちで彼の実家に行ったのだ。しかし、はっきり言ってそこが好きだと、そんなふうに晴香は思ったのを覚えてる。
東京で育ってきた彼女にもどこか懐かしく、夜ごとに頭の上には花火ほどの星が瞬き、悪くないな、と。
悪くないな。
ここで暮らしてゆくのも、悪くないな。
「でも北関東も本当にいいところですよ。いや、もちろんドイツも最高だけどね? 最高だけど、北関東も好き。ほら、今度、渋沢栄一さん? だっけ、お札になるし、群馬はすき焼き美味しいし、栃木は餃子、茨城は……まぁ納豆だし? え? ばかに? してないよ! ただほら私、住んでるのは群馬だけど学校はずっと北埼玉だったからね、そっちの方が詳しいっていう」
そう、人が人としてのびのびと暮していくには、きっとこの環境がいいのだろう。
おしゃべり大好きアイドルを自称する〝きりえ〟が息つく間もなく楽しげに話すのを見ながら、晴香は少し前のことを思い返していた。
健康に見えていた自分か、あるいは夫の何かに原因があると気がついたのは結婚して二年目。初めてこの町にやってきてから実に五年が経った頃のことだった。
自分に子どもができたら、のびのびとした環境で、優しくて尊大な子に育ってほしい。晴香も疑いなくそう考えていたのだが、そのときはなかなかやってはこなかった。
気がつけば、冗談めかして孫を催促する義母や義父のことばに笑えなくなっていた。いいや、それどころか、隠れて泣いてしまったことさえあった。
当時はまだ知らなかった〝きりえ〟のように、喋ることが好きで、すぐにこの町の住人として受け入れられた晴香は、そうして少しずつ静かになっていったのだった。
彼女たち――Lipp'inガールズを知ったのはそんなときのことだ。最初は彼女たちそのものよりも、〝きりえ〟のドイツ語と、それとは別のそれを取り囲んでいたファンが雄叫びにも似た声が耳についた。
今にして思えばそれはアイドルファンがライブを盛り上げるための「コール」という応援文化のひとつなのだが、その頃の晴香にはそれが妙に気になった。
確かにとても可愛いし、スタイルがよく、曲も良さそうではあった。けれど、何が人をあれほどまで熱狂させるのだろう。たとえばアイドルならば、北関東だけでなく、東京にも埼玉にだっている。それなのにどうしてこの子たちではなければならないのだろう。
いつのまにか、晴香は人の期待や羨望が怖くなっていた。そんなふうに見られるならば、いっそ黙って静かに暮したいと、そう思いつつあった。
まるでアイドルとは真逆。このまま田舎に埋れていく。そう決めかけてすらいた。
「あっ、そうそう。前回のライブの動画ちょこちょこアップしてるから観てね。昨日のはね、『〝みゆん〟不平不満を言う』の巻だよ。来てくれた方は覚えてると思うけど、面白かったよね。来れなかった人も今度はぜひ生で観てほしい。たくさんおしゃべりだってしたいし」
だけど、彼女たちがそうはさせてくれなかった。
「名指ししちゃお。おしゃべりアイドル、うるさいでしょ? ふふふ。えー、ライムさん、こたさん、Lilbell《りるべる》さん? で、合ってるかな、読み方……。次がシュートさん、グッキーさん、あとさっきコメントくれた中山長二さん、ルビィさん、たくとさん、白さん。白さんはあれか、この前も来てくれたよね。みなさん、ぜひきてね。次の定期公演は3月29日だよ!」
一度、知ってしまえば、黙ろうとしても次々に話しかけてくる。とりわけおしゃべりアイドルであるLipp'inガールズはグロウライブの配信システムをうまく使いこなしており、真っ直ぐで明るい配信に束の間、日常の問題を忘れることができた。
なるほど、だからこの子たちには熱狂的といえるファンがたくさんいるのか。知れば知るほど、納得がいった。
もちろん、それで晴香の抱える問題の根本が解決したという訳ではない。それでも、この子たちにお礼がしたいな。例えばライブに行って、たくさんグッズを買って、ありがとうと伝えて……。
そうしたらもう少し頑張れるかもしれない。
いつしか、晴香はそう思うようになっていた。
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