第1話 後篇 聖司と兄の車

 ばらばらにしたのはそれが最初ではなかったけれど、これは少しまずいかもしれないと幼心に思ったのはその時が初めてだった。


 まだ小学三年生だった頃、聖司の手元には分解した兄のスポーツカーの模型があり、目の前には怒るでもなく何か不可解なものを見る母親の視線があった。



 たったそれだけのこと。

 誰かが聞けばそうなのかもしれない。だが、聖司にとってはその静かで冷ややかな母の視線が怒られるよりも辛く、ただ喚く兄の方がよほどありがたかったのを痛烈に覚えている。が、とにかく、何にしても直さないわけにはいかず、分解したのだからその逆もできないことはないだろうとパーツをかき集めて自室にこもった。そうだ、あれは夏休みのことだった。窓の外をたまに通りかかる友だちとは違う真っ白な肌が恥ずかしくて、休憩の時間は麦茶を持ってこっそりとベランダに行った。


 そういうおかしな夏を過ごしたせいか、わりと名の知れた大手自動車会社の整備工場に面接に行ったときはすぐに採用の通知が来た。本来であれば専門にそれを学ぶ学校へ行きたかったものの、親になかなか言い出せず独学で押し通した。が、むしろ専門学校を運営するメーカーに依らない豊富な知識と地元カー用品店でのアルバイトの経験がかなり役に立ったのか、入社後、現場に立つようになってからも聖司は珍重された。




「えっ、ふつうにすごくないですか」


 二○二○年に入ってはじめてのライブはアイドル雑誌が主催するいくつかのグループが出演する都内のライブハウスでの公演で、Lipp'inガールズはその日のトリを務めていたため、物販ではある程度の時間的余裕があった。


 普段のグロウライブでの配信のコメントではさすがにファン自らがパーソナルなことまでは話さないが、こういうときは別だ。何しろその日は「布教用」にと最新のアルバム5枚とTシャツ、それからメンバー直筆の缶バッジを買ったために特典のチェキ券だけでもかなりの枚数があったし、何よりもメンバーの〝きりえ〟はそういったファンの為人を聞き出すのがやたらに上手なのだった。


「じゃあ、今街を走ってる車とかも、せいじさんの作ったやつかもしれないんだ?」


「まぁそうとは限らないけど、そうじゃないとも限らないね」


「あっ、お名前ここ書いていい? ――ですよね! えっ、すご。てか小学生の頃からって……あたしですら小学生の頃はアイドルになるなんて思っても見なかったですよ」


「はい、次撮りまーす」


「ねね、あれしよ! リッピンポーズ」


 リッピンポーズとは、〝きりえ〟とサブリーダー〝かなかな〟、そして一昨年卒業した元メンバーのひかりちゃんという子の三人でグロウライブの配信の際にファンと一緒に考えたポーズだ。


 人差し指と親指でL字をつくり、それを唇に当てるという簡単なもの。ただし、「ちょっと唇をつきだすとセクシーだよ」とメンバーはこのポーズをするときに必ず言うが、大概のファンは照れて口元に人差し指を近づけるだけだ。



 聖司は今年で四十六歳になる。真面目で知識は豊富であるが、人付き合いは苦手で向上心もないので出世はしていない。整備工場に女っ気などあるはずもなく、女性と付き合ったのは二十代のわずか数ヶ月間が最後。最近は整備士志望の専門学校生の女子が研修に来たこともあったが、Lipp'inガールズの配信のおかげで若い子の化粧品や服のブランドにやたらに詳しい聖司には不審な目線をくれたことしかなかった。


 それでもよかった。

 自分には彼女たちがいる。それは恋人でも娘を見守る感覚とも違う。あえて言葉を選ぶならば、まさに偶像アイドルなのかもしれない。

 信仰の対象であるかのように、彼女たちは可もなく不可もない聖司の日常と未来を、一番そばから彩ってくれるのだ。


「あはは、せいじさん、全然リッピンポーズしてくれない。まぁ、そこがいいんだけどね」


 その何気ない一言だけで、次の定期公演までの活力を得ることができる。

 聖司はこの先も、そうやって生きていくつもりだ。

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