初めて、自分のことを嫌だと思った
「んで、どうしてここに連れて来たんだ?」
赤月が食べ終わったのを見計らって、そう聞くと彼女はこちらへと体を向けた。
「今日、してないでしょ?」
「……は?」
何のことを言っているのかすぐにわかったが、しかし、流石にこんな人前でそんなことを言い出すとは思っていなかったので、間抜けな声が出た。きっと、顔も人に見せられないぐらいのアホ面になっていることだろう。
「だから、さ」
そう言って、赤月はゆっくりこちらへと近づいて来る。
それに俺は距離を取ろうとするが、逃がさないとでもいうように赤月は俺の手を掴んだ。
「だ、誰が見てるかもわかんないんだぞ」
「いいよ、別に。もう気にしない」
「いや、お前が気にしなくても俺が気にするんだけど」
諫めるように言った俺の言葉に、赤月は笑った。それはもう、意地悪く。
「ここ、人目多いからさ。わたしが叫んだらイチコロだと思わない?」
「……悪魔め」
「えへへ、悪魔ですとも」
そう言って、グッと彼女が体を接近させる。
「わたしは君のことが嫌いなんだから、嫌がらせするのなんて当たり前でしょ?」
「お前、そんなに性格悪かったっけ?」
「……君にだけね」
なんだそれ、少しも嬉しくない。嬉しくなんてない、はずなのに……。
温かい感触が体を包む。座っているから、何時もとは違って彼女の細くて柔らかなその体を全身で感じた。
そのまま、彼女は顔を俺の耳元に寄せて囁くように言う。
「わたしは君だけを嫌いな、君だけの悪魔だよ」
心臓が高鳴る。
いやいや、なんでこんなにドキドキしてんだ俺。わからん。マジでわからん。
「あ、心臓の音すごいね」
「耳元で囁くのやめてくれない?」
気づかれてしまったことに気恥ずかしさを感じて、思わずそう言うと、赤月はおかしそうに言う。
「あれれ~? もしかして日向くんは耳が弱いのかな?」
「いや、違うから。慣れてないだけだから」
抱き着かれることそれそのものには、とっくに慣れているが、赤月の顔がこんなに近くにある事には慣れていないのだ。
「お前は平気そうだな」
「……別に、平気じゃないよ」
こちらをからかうぐらい余裕があるくせに、よくそんなことを言うものだ、と思って視線だけを隣に向けると、そこには耳まで真っ赤にした赤月がいた。
「わたしだって、慣れてないんだよ? 心臓だって、ほら、ばくばく言ってる」
そう言って、彼女は俺を抱きしめる力を強めるが、残念ながら彼女の鼓動はわからない。代わりに、胸の感触が強まった。
「わかる?」
「……さっぱりだな」
「……えっち」
何かを察したように、少し拗ねた口調で赤月はそう言った。
いや、胸押し当ててるのお前だから。別に、俺が感触を楽しむためにわからないって言っているわけじゃないし、ましてや抱き寄せているわけでもない。
けどまあ、ちゃっかり楽しんでいるのは事実なので、何も言えなかった。
そのまましばらく気まずくて、お互いに黙る。しかし、その間も気になるなら離れればいいのに、赤月は俺に抱き着いたままだ。
「で、いつまでこの状態なんだ」
結局、状況に耐えかねて先に口を開いたのは俺だった。
「もうちょっと、安心するから」
「……あっそ」
抵抗する気力もないので、されるがままにしばらくの間、赤月に身を任せた。
時折、耳をくすぐる熱い吐息に身悶えしそうになるのを耐えながら、彼女が俺から離れるのをジッと待った。
どれぐらいそうしていただろうか。日はすっかり落ちて、ぽつぽつと街灯が照り始めた頃になって、赤月は満足したように俺を放した。
「満足したか?」
「ん、満足した」
そう言って軽く伸びをすると、赤月は横に移動して少しだけ俺から距離を取った。
それから、彼女はふと思い出したように言う。
「そういえばさ、部活に入るかってあれ、なんだったの?」
「……あー」
言われて、思い出す。
あれは若干、苦い思い出だ。黒歴史と言い換えてもいい。
それでも、もう一度赤月のことを誘うと倉橋先生に啖呵を切った以上、そこの話から逃げることは出来ない。
むしろ、今聞かれるのは丁度よかった。
「そうだな、説明する」
「……うん」
彼女が頷くのを確認すると俺は話を始める。
大した話でもないので、要点を二つに絞った。
一つは今もまだ広がっている俺たちの噂について、もう一つは文芸部の今の状況についてだ。
「ま、そういう訳で、だ。お前が文芸部に入ってくれれば、部に対する教師たちからの風当たりも落ち着くし、お前は大手振って俺に抱き着ける、というわけだ。一緒に噂の鎮静化も出来て、一石三鳥だろ? だから、誘った」
そこまで言い切ると、赤月は呆れたような顔で言った。
「やり直し」
なぜだ。
「これ以上なく魅力的なプレゼンじゃないか?」
「それ、わたしが噂を気にしてたり、文芸部に興味があったらの話じゃん。もう人目も気にするつもりないし」
そう言って、プイッと彼女はそっぽを向いた。
「……なんだと」
対する俺は、新しい情報に絶望した。
「それはつまりクラスメイトが近くにいても抱き着くってことか?」
「や、そういう訳じゃないけどさ。見られちゃうぶんにはもういいかなって」
いや、俺は全くこれっぽちもよくないんだけど。
というか、どうすりゃいいんだよ。これ以上は赤月にあるメリットとか、思い浮かばないんだが……。
「ぶ、部活に入れば大学受験で調査書に書けるというメリットがな……」
「部長とかにならないと意味ないじゃん。それに、うちの文芸部弱小だし」
やめろ。そのカウンターパンチは俺にかなり響く。
どこぞの漫画のコメディパートよろしく、言葉によるダメージを受けて、頭を抱えていると、それを見ていた赤月がため息を吐いた。
「ね、日向くん」
「……待て、もうちょい考えるから」
ここでもう一度、断られたりなどしたら、もう二度と赤月に声をかけられないような気がした俺は、そう言って彼女に待ったをかけるが、赤月は「いいから」と言って続きを言った。
「わたし、一度もメリットを教えてなんて言ってないよ?」
「……え?」
何言ってんだ、と一瞬思ったが、よくよく考えてみれば確かにそうだ。
赤月は俺が提示したメリットを否定こそしたが、「やり直し」と言っただけで、メリットを新しく出してこいなどとは一言も言っていなかった。
しかし、だから何だというのだ。
俺にはこの手しか思い浮かばなかったから、こうしてどうにか交渉をしようとしたのに、他の誘い文句なんて急に出てくるはずもない。
どうしたもんだろうか、とそう俺が考えていると赤月がまた口を開く。
「……日向くんは、さ」
少し躊躇するような口振りで言いながら、彼女は俺を見る。
「わたしに、入って欲しいの? その、文芸部に」
「……」
赤月の問いに、まるでノベルゲーのように、目の前に選択肢が現れたようなそんな感覚がした。
規定されたプログラムなんてないはずなのに、人生はたまにこうして間違えてはいけない場面を用意してくる。不思議なことに、そういう時に間違えたと思うと、本当にその後ろくなことが起こらない。
その先の人生に、大きな影響を及ぼすような選択を迫られる瞬間。そう考えるとなんだ、ゲームも捨てたもんじゃないと思う。結構、忠実に再現されているじゃないか、人生の岐路ってやつがさ。
ただ、答えはわかっている。彼女が求めている言葉は肯定の言葉だ。
今頷けば、彼女間違いなく文芸部に入ってくれるだろう。
しかし、それがわかるからこそ余計に悩んでしまう。
それは本当に打算のない言葉なのか、と。
現状、赤月が部活に入るメリットは俺にしかない。彼女にもあると思っていたメリットは他でもない彼女自身に否定されてしまっている。
なら、これ以上赤月を部活に誘うことは俺のエゴでしかない。部活を存続させるためという理由だけで、彼女を部活に入れることは彼女に対して誠実ではない。
誰かを利用するなんて、真っ平だ。御免被る。人にやられちゃ嫌なことは、人にやっちゃいけませんってのは、生まれて最初に教わることだ。
なら、ここは首を振るのが正解だ。例え、それでどうなるとしても、赤月花蓮を大切に思うのなら。
「……俺は」
そこまで口にして、本当にそれが正しいのかと思考に心がブレーキをかける。
赤月は「メリットを教えて欲しいわけじゃない」と言った。それはつまり、そういう頭でこねくり回した理屈を聞きたいわけじゃないと、そう言っているのではないか。
未だに損得のことばかり考えている頭を心は否定する。
彼女は、俺の気持ちを聞いているのではないか。
馬鹿らしいことだと思う。自意識過剰ではないかと、己を嘲る。
けれども、もしそうなら、彼女が求めているのが俺の本心からの言葉だとしたら、俺はどう思っている。赤月に入って欲しいのか? 文芸部に?
彼女が文芸部に入る。それはつまり、この厄介極まりない人気者と学校生活の長い時間を共にすることに他ならない。
それを俺は望んでいるのか?
望んでいるのなら、何故だ。
部が存続するからか?
それとも倉橋先生に啖呵を切ったから?
ああ、うるさい。頭の中がごちゃごちゃする。
赤月と出会ってからいつもそうだ。考えなくてもいいようなことを考える機会が増えすぎた。理屈が大好きだし、屁理屈も大好きだからな。どんなことでも、そうやって理屈をはっつけて、安心したいんだ。
それが間違っているとは思わない。俺はそういう生き方しか出来ないから、そうするしかない。
ただ、それを今は、今だけはやめようと思う。
ああ、本当にらしくない。だが、それも今は忘れよう。忘れるべきだ。
整理のつかない頭にはもう頼らない。いや、そもそも赤月の相手をする時に頭を使うのが間違いだったのだ。
「俺は……」
声が震える。御託を並べて、落ち着こうとしても言葉が上手く作れない。
うざったい。面倒臭い。ただ一言、言えばいいだけだろう。なのにその一言を言うのに、こうも緊張している。
初めて、自分のことを嫌だと思った。
「俺は……」
赤月を見る。彼女は強張った顔で、俺の答えを待っている。
目が合って、何故だか安心した。絡まった思考が、綺麗にほぐされていく。
ああ、今なら言えそうだ、とそう思った瞬間。
「俺はお前に、入部して欲しいと思ってる」
自分でも訳が分からないまま、言葉が滑るようにして、そう、口から零れ出た。
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