……逃げるぞ
「わ、悪いとは思ってる。思っているが、思ってるがそこまでのことじゃないだろ。それにお前、ここ、図書館……」
「大声出すよ?」
「……はい」
こいつが俺に脅されているとか言った奴に、この赤月の堂々とした脅しっぷりをみてほしい。
幸いなことに、今いる場所はカウンターからは見えないし、周囲に人の気配もない。万が一、誰かが来てもすぐわかるだろうし、その時は離れればいいだけだ。
仕方がない。大声出されても困るし、ここは従うしかなかった。
「……今回だけだぞ」
「うん、それでいいよ」
しかし、抱き着かれるのはもう慣れたがこちらからというのは、どうにも緊張する。
高鳴る鼓動を抑えつけるように、深呼吸をして落ち着けて、ゆっくりと赤月に近づいた。
そして、自分よりも幾分か小さな赤月の体を包むようにして抱きしめる。
自分からしているからだろうか。いつもよりも、彼女の体を柔らかく感じた。
彼女の口から小さく漏れた熱い吐息が胸を撫で、心臓がうるさいぐらいに騒ぎ散らす。
「これで、いいか」
「……もうちょっと、強く抱きしめて欲しいかな」
ただでさえ、赤月は華奢で、こちらは折れてしまわないかと気が気ではないのに、これ以上とは無茶を言う。
それでも仕方なく、彼女の言葉に従って抱き締める腕にまた少し力を入れた。
「なんか、お前のいいようにされてる気がする」
「気のせいだよ。わたし、別に日向くんのこと振り回すつもりないし」
いや、十分振り回されてるんですけど。
「わけわからんぞ、お前」
「わたしもわからないよ。どうして、君なんだろうっていつも思う」
「……どういうことだよ」
「安心するってこと」
「なんだそれ」
全く答えになっていない返答に、顔を顰める。
「安心したいなら、俺じゃない方がいいんじゃねえの。友達とか」
普通、そういうものだろう。そういうのは、見知った相手に感じるものだ。
実際、俺はこの状況に少したりとも安心を感じたりはしないし、変な汗をかいている。
「俺みたいに関わりがない相手なんて、安心から一番遠いだろ」
「うーん。それはきっと関りがないから、なんだと思うな」
「益々わからん……」
これではまるで禅問答だ。一向に話がかみ合う気がしない。
困惑する俺に、赤月は小さく笑った。
「日向くんはわたしが苦手かもしれないし、わたしは日向くんのことが好きなわけでもないけどさ。だから、安心するんだと思う。お互い、どーでもいいって相手のことを思ってるからこそっていうのかな。ちょっと説明するの難しいや」
「……そうか」
ふうと息を吐く。なんつーか、とんだ災難に見舞われた気分だ。
だって、そうだろう。赤月の今の言葉は変換するなら、「誰でもよかった」ということになる。
顔を突き合わせた相手が必ず自分に興味を持つなんていうのは傲慢だ。人は案外、他人に興味が無い。
それは俺の少ない人生経験から学んだことで、それはきっと普遍的な正解に近いとそう考えている。ここに来る時、教室で物珍しいものを見るような目をしたクラスメイト達だって、別に俺のことはどうでもいいと思っているはずだ。
気紛れとはいくらか違うのだろうが、そこに必然性とかそういった類のものはない。
「……でも、誰でもよかったわけじゃないと思うよ」
しかし、そんな俺の思考を否定するように赤月はそう言った。
「クラスメイトのことをどうでもいいって思うの、わたし、初めてだもん」
「そうかよ」
これほど魅力のない初めてもそうありはしないだろう。
そして、これほど理解できないものもないと思った。
きっと、その感覚というのは、俺にとってはずいぶん昔に感じたもので、気がつけば日常の当たり前になってしまったものの一つだ。
いや、俺だけじゃない。木津だって、一ノ瀬だって彼女のその感覚はわからないだろう。
誰にでも優しくて、誰とでも仲良くなろうとする赤月花蓮の今の気持ちは、彼女にしかわからない。
「ああ、ほんとに安心するなあ……」
心の底から絞り出すように、噛みしめるように呟かれたその言葉に、完全に毒気を抜かれてしまう。
ああ、きっと俺にとっては不要で、厄介極まりないこの時間が、彼女に、赤月花蓮にとっては大切なものなのだと理解してしまったから。
……それはそれとして、だ。
「……そろそろ、放していいか?」
「ええっ!」
驚いたように顔を上げて赤月は、信じられないとでも言うように声をあげる。
「もう昼休み終わるしな、満足しただろ」
かれこれ五、六分やってたわけだし、これで満足できないとか言われても困る。
目で必死に否を訴えて来る赤月を無視して、彼女を抱きしめていた腕を放す。
すると、すごい勢いで今度は向こうから抱き着いて来た。
「ちょッ!」
態勢を崩しかけて、そんな声が漏れる。
「えへへ、昨日、出来なかったし、まだちょっと足りないかなって」
ふにゃりと笑う赤月の表情は可愛いが、そんな依存性高いのかよ、これ。
赤月の様子に少し呆れながらも、どこか諦めてしまっている自分にも頭が痛くなる。
まあ、誰にも見られない以上はそれでもいいかと思う。ああ、しかし、もしも仮にこんなところを人に見られてしまったら……。
そう思った時だった。
「日向?」
背中越しに名前を呼ばれる。
「い、一ノ瀬」
「なにしてるの?」
振り返って彼女の困惑した顔を見て、やらかした、とそう思う。
さきほど、赤月に抱き着かれた時に漏らした声だ。咄嗟に出したあの声は、それなりの大きさで、静かな図書館にはよく響いたことだろう。
依然として俺に抱き着いたままの赤月を見る。
「赤月……?」
小声で呼びかけるが、返事はない。
完全に機能停止していた。
「ねえ、日向、なにしてるの?」
「あ、いや、そのだな、これにはちょっとした事情があってな」
「へえ?」
一ノ瀬の射竦めるような視線が刺さる。心なしか、声もいつもよりも低くて、明らかに怒っていた。
「神聖な図書館で、女子と、それもあの赤月さんと抱き合ってるんだから、それはもうご大層で複雑な理由があるんでしょうね?」
どうやら墓穴を掘ったらしい。そんな大層な理由は持ち合わせていなかった。
赤月は使い物にならない。かといって、理由をでっちあげようにも想定していなかった事態なので、つじつまの合う噓の持ち合わせがない。
「ええと、だな……」
「いつまで抱き合っているつもり?」
言葉に詰まる俺に、冷水のような声音で一ノ瀬はそう言った。
全くもって彼女の言っていることは正しいのだが、一つ訂正をさせてもらうと、抱き合っているわけではなく、抱き着かれているわけで、俺は被害者だ。
ただ、それを言っても仕方がないので、俺は赤月の体を揺すった。
硬直していた赤月もそれで我に返って、無言のまま、俺からゆっくりと離れる。
「じゃ、言い訳を聞きましょうか?」
逃げることは許さないというような雰囲気で、一ノ瀬は言う。
さて、どうしたものか、などと考えている時間はない。そんなことをしている間に、一ノ瀬の機嫌が悪化していくのは目に見えている。この堅物ツインテガールは、図書館を愛しすぎているのだ。
一先ず、こちらの話の方向性だけ定めておこう。よし。
「俺は無実だ」
「有罪」
そうにべもなくばっさりと判決を下さないで欲しい。
「お前は推定無罪を知らないのかよ、確固たる証拠がないのにそう簡単に人を罪人扱いするもんじゃないぞ」
「じゃあ死刑」
全くもって容赦がない。
どこかに救いの道はないかと、少しばかりの期待込めて赤月を見る。
「あ、最初は死刑判定じゃなかったんだね」
ダメだった。こいつ、元凶のくせして完全に外野にいるつもりになっていやがる。
「最初から死刑判定だったわよ? 言ったでしょ、有罪って」
「おい待て、お前の中で有罪イコール死刑になってんのか?」
「本の返却遅れならいざ知らず、この世で、最も清廉じゃなきゃいけない図書館で逢引きなんて、死刑だとは思わない? 思うでしょ?」
ふふっと小さく笑った一ノ瀬の笑顔が怖い。
「あ、赤月さんはいいわよ。どうせ被害者なんだろうし」
「えっと……」
急に一ノ瀬から話を振られて、赤月がこちらを見る。
普段のコミュ力はどうしたのか。どうやら、お怒り状態の一ノ瀬の前では、赤月花蓮も形無しらしい。
代わりとばかりに俺は口を開く。
「おい、どうして俺が加害者だって前提で話を進めようとする」
「違うの?」
憮然とした態度でそう言ってみせる一ノ瀬は、俺が何かをやらかしていることを少しも疑っていないらしい。
気持ちは痛いほどわかる。俺だって、同じ状況を見たら男の方を責めるだろうし、そっちに原因があると考えるだろう。それが普通だ。
普通じゃないから困るんだよなあ。
ため息を吐いて、俺は視線を赤月に向ける。
「赤月、話してもいいか?」
「え、や、それはちょっと……」
少し強張ったような怯えた表情で、赤月は言う。
まあ、だよな。
「赤月はこう言ってるが、一ノ瀬は理由聞くまで動かないよな」
「そうね、ちゃんとした理由があるなら聞いておきたいし、噂のこと、信じてるわけじゃないけど、見ちゃったんだからあんたが犯罪者になる前に裁いておきたい。逃げても無駄よ、木津くんにも言うから」
「そいつは勘弁してほしいな」
あいつ、なんか女子と関わりのあるやつに容赦ないから怖いんだよ。
俺と一ノ瀬が知り合いだって知った時なんか、俺の胸倉掴んで「裏切り者!」って叫んだからな。マジで怖かったんだよ、あれ。軽くトラウマだ。
さて、どうするかな。
適当な嘘を吐いたっていいんだが、それは遠くないいつかにバレてしまうだろう。そして、どういうわけか本気で怒っているらしい今の一ノ瀬に嘘を吐いて、バレてしまえば、きっと二度と口を聞いてはくれない。
俺と気楽に話しをしてくれる一ノ瀬を失うのは惜しい。
だが、かといって、赤月の秘密を明かすのもどうかと思う。
バラしたって、正直、俺には何の被害もない。
俺の日常の景色に映り込んでいただけの赤月がいなくなるだけで、本当ならそれが望ましいのだ。
赤月の言葉を借りるなら、どうでもいい相手ってやつだ。どうなろうが、知ったこっちゃない。
そのはずだった。
「……逃げるぞ」
隣の赤月にだけ聞こえるぐらいの声量で言う。
「え、でも……」
少し困惑した返事が返って来る。
さきほど、一ノ瀬が言ったことを気にしているのだろう。あるいは、ここで逃げることによって俺と一ノ瀬の関係が悪くなるとか、木津の名前が出ていたからそちらとも、とかな。
俺よりも人との付き合いが広くて、「みんなで仲良く」を地でいく彼女らしい。
だが、甘い。
確かに人付き合いは赤月の方が俺よりも圧倒的に上手いのだろう。人との関りも俺よりずっと多いのだろう。
けれども、一ノ瀬伊月という個人に関しては別だ。
「行くぞ」
「えっ」
小さく声を漏らした赤月の手を取って、反転して、俺は走り出した。
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