星のあなたの空とおく 下

 家に帰ると、父が待っていた。


「おかえり」

「うん。ただいま。どうしたん? 待っててくれたんか」

「まあな」


 そう言うと父は神妙しんみょうな面持ちのまま仏間に入った。

 父は仏壇前に座る。

 その仏壇には、御先祖の名簿と一緒に、僕が生まれる前に死んだ母の写真がある。


 父は大きくため息を吐いた。仕事の疲れにしては、大袈裟おおげさだ。


「どうか、したの?」

 背後に立つと、彼は言った。

朝喜ともき、お前も今年で18だな」

「え? ……うん」

「そう、だよな……」

「お父さん?」

 やはり様子がおかしい。けれど催促さいそくすることもできず、黙っていると、父はようやく振り返った。

「大事な話をしなきゃいけない」

「……」

「お前と、里乃のことだ」

 里乃は、隣の部屋で扉を開けっぱなしにして寝ている姉の名前だ。少し不思議に思った。なぜ姉の名前が出てくるのか。

 その謎はすぐに氷解ひょうかいした。



「お前と里乃は同母姉弟じゃ、ないんだ」




 この世の音が消え果たような、そんな錯覚に襲われる。

「どうぼきょうだい、じゃない」ということは、母親が、違う?

 慌ててその困惑から戻って、父をとらえる。

「……は? どういうこと」

「そのままの意味だよ」

「そのまま、じゃないよ。じゃ、じゃあ、姉ちゃんの母親は?」

「里乃の母は、八代やちよだ」

 八代は仏間の中心でこちらを見ている母の名前だ。……じゃあ。


「じゃあ……僕は……」

「……」


 父は黙ってうなずく。けれどそれじゃわからない。


「僕は、誰の子どもなんだよ」

「お前も、会って来ただろ」

「はあ?」


 まさか。


 あの人の、あのあやしい笑みが頭によぎるのと、父が言ったのは、ほぼ同時だった。




「あの人が、お前の母親だ。それだけじゃない。あの人は、








 康永こうえい4年あるいは興国こうこく6年。

 南朝では後村上ごむらかみ天皇が、北朝では光明こうみょう天皇が在位し、足利尊氏あしかがたかうじが初代将軍だった頃。

 一人の中流貴族が、この世の者とは思えない、非常な美女のもとに通うようになった。

 それが幾年いくとせか重なったあるとき、彼女は言った。

 私はこの星の者ではない。帰らねばならない。ただし、牽牛けんぎゅう織女しょくじょごとく、一年に一度会おう。

 それから、男は一年に一度の再会を求めて、死ぬまで通い続けた。


 本来ならここでその伝説は終わるはずだった。



 しかし、そうではなかったのだ。



 男と女の間には一人の男の子が生まれていた。幼名を元丸もとまる、のちに中納言となる朝雅ともまさという男だ。

 彼は父親がその女の所に、彼からすれば母親の所にひそかに通っているのを知っていた。そして、父が死んでから初めての七月七日、七夕の日に、彼女に父親の死を告げた。


 それからは父親の代わりという名目で彼が通うようになったが、ふと気の迷いが起こったのだろうか、それともそそのされたのだろうか。

 彼はあやまちをおかした。あの場所で。

 

 それは慣例となった。何百年もそれを繰り返してきたのが僕の家で、その末端にいるのが、まさに僕だった。

 

 つまり、あの人は、比喩ひゆでなく、僕の母であり、父の母であり、祖父の母だった。母であり、祖母であり、曾祖母だった。父たちから見れば、妻でもあった。


 そんな異常な連鎖れんさが、七夕の日に、自分の知らぬ間に繋がれていたのだ。



(僕と父は、親子でも、兄弟でもあるのか……? 祖父も、そう……? 僕は、じゃあ、どこで生まれたんだ……。見たこともない、星なのか?)





 僕は洗面所に走った。

 たまらず嘔吐おうとした。自分の中身を吐き出したかった。

 僕の身体の半分が、あの異星の女の人の血肉からできていたなんて、信じられなかった。……いや違う。半分どころじゃない。父もあの人の子どもで、その父、つまり祖父もあの人の子どもなんだ。半分どころじゃ、ない。


「うっ……うぇっ……」


 嘔吐する。嘔吐する。落涙らくるい。先祖の語らいは、ただ美しい伝説だと思っていたのに。


(押し倒してもよかったのに)

 そう言ったあのとき、彼女はきょとんとした表情を浮かべていた。あれは、僕がまだその事実を知らないことに驚いたから、そんな表情になったのではないか。


(約束よ)

 帰り際の、妖しいあの声が蘇る。

 すべてを吐き出したはずなのに、背中にぞわりと電気のような寒気が走って、僕はまた、洗面台を汚した。




「朝喜?」

「ぅ……あ、姉、ちゃん」

「ど、どうしたの? そんな吐いて……」

 寝ぼけまなこだった彼女は一転、まゆをひそめて、そでで鼻をおおった。

「ごめん……」

「大丈夫?」

「うん。だからいいよ、汚いから……」

「いや、あたしの弁当でそうなっちゃったんだったら、なんか、申し訳ないし」

 姉はそう言うと、躊躇ちゅうちょなくタオルで洗面台をき始めた。


 罪悪感がさらに募る。この姉が、純粋な家族ではないなんて。父親は一緒だから、異母姉、同父姉だって言えればまだいいけれど、でも、ここでも父と僕がただの親子でない事実が立ちふさがる。



 ……いや、違うのか。父もあの人の血を引いているなら、姉だってそうなのか。……ああ、駄目だ。頭がおかしくなる。同時にまた、震えが駆け上ってくる。



「ちょっと朝喜……本当に大丈夫? もう寝なよ。ここあたしやっとくから」

「……姉ちゃん」

「ん?」

「もう、駄目かもしんない」

「駄目?」

「うん……もう、僕は……」

 不意に足の力が抜けて、僕は床にくずおれた。

「ちょっと、どうしたってのよ」

 姉は動揺した様子もなく、僕のわきに膝をついて、ひたいに触れてきた。

「熱はなさそうだけど」

「もう……」

「しっかりしなよ」

 ぱしんと軽く頬が弾かれた。

「いいから、寝な、早く。学校あんだから」

 優しくない一言。彼女はすぐに背を向けて洗面台に向かった。

 鬱屈うっくつした心情のまま、しかし、そのままでいるわけにもいかず、僕は自室に入った。

 このまま目覚めることがなければいいのに、本気で思いながら、瞳を閉じた。




 

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