第40話 惑いの森の獣 -3
日が傾き始めたころ、
「大丈夫かい?」
莫杜が人の姿になり、ゆっくりと青を立たせる。しかしまだふらつきが残っている青は、莫杜の腕に捕まった。それでも足りずに莫杜の肩で頭を支えて、浅い呼吸を繰り返す。
「ごめん、ちょっと酔ったみたいだ」
「それは悪かった。配慮が足りなかったな」
「あ、いや、莫杜のせいじゃない」
いくらか落ち着いて青が顔を上げた時、がさりと葉を踏む音がした。振り返ると、急に動いた頭がまたぐらりと揺れる。青の体を莫杜が後ろから抱き留めた。
「ああ、久しぶりだね。
莫杜の声が降ってくる。陸斗、は莫杜の想い人の名だ。抑えたその声には隠しきれない喜びが浮かんでいる。その可愛らしさに青は思わず笑みを浮かべた。
木の陰から顔を出した陸斗は白いシャツに黒い学生ズボン、染めているのか短めの茶色い髪に目鼻立ちのすっきりとした少年だ。おそらく高校生だろう。
「莫杜、その人は?」
固い声で陸斗が問い掛ける。立ち入り禁止の山に知らない人間がいたら警戒するのも無理はない。青がどう言い訳しようか考えていると、先に莫杜が答えた。
「友人だ」
ようやくふらつきの収まった青は支えてくれていた莫杜に礼をして、改めて陸斗に向き直った。陸斗の怪訝な表情は晴れない。
「
なるべく人好きのする笑みを心掛ける。私有地に勝手に立ち入った不法侵入の言い訳としては苦しいが、困ったことにこれが事実だ。青もまさか人間相手に「妖の関係者です」と自己紹介する日が来るとは思わなかった。
「お客さんなら、帰るな」
何故か睨むような強い視線の後、すぐに陸斗が背を向けた。
「え、っちょ、待って」
「陸斗」
青と、莫杜の声が重なる。陸斗がちらりと振り返った。
「もともと今日は用があるからすぐ帰るつもりだった」
投げやりなその声を最後に、陸斗は本当に帰ってしまった。青は明らかに歓迎されていないその態度に戸惑いつつ、莫杜を見る。莫杜も困惑しているようで眉が下がっていた。
「あー、とりあえず暗くなってきたし俺も帰るな」
「そうだな。今日は久々に人と長く話せて楽しかった。ありがとう、青」
どう反応すれば良いのかわからず、とりあえずヘラリと笑った青に、莫杜は少し困ったように笑って応じた。
莫杜と別れてから数日、青は
『俺、なぜか陸斗くんに嫌われてるっぽいんだけど』
『嫉妬だろうよ』
『は?』
『だから、莫杜に自分の他に仲の良い人間がいて面白くないんだろう』
『え、別に仲良いって程では……』
『陸斗が来たとき、お前たち抱き合っていたんだろう?』
『抱き合ってたんじゃない、酔ったから支えてもらってただけだ』
『それはお前達の理由。その子供にはそうは見えなかったんだろうよ』
『ていうか、陸斗くんは莫杜が好きなの?』
『さあ、会ったこともないわらわが知るわけなかろう。でもなんらかの情はあるだろうよ』
他人事のようにクスクスと笑う一姫を睨みつけると、おお怖い、と心にもない台詞を吐いて去っていった。その背を見送って溜め息をついたのが先日。もし本当に陸斗が勘違いをしているのならば誤解を解かなければならない。そう思って今日ここに来た。しかし家を出る前に一姫にまた気になることを言われた。
『余計な世話を焼くな』
『なんだよ、余計って。お前が陸斗くんが誤解してるって言ったんだろ』
『そもそもが莫杜と陸斗の問題だろう? 莫杜の想いが通じるのが、通じないより幸せとは限らん。あれらは生きる時間が違いすぎる』
『そうだけど、でも』
『やけに二人に肩入れするな。なんぞ思うところでもあるのか?』
『別にそういう訳では』
『まあどうでも良い。わらわには関係ないしな。勝手にしろ。ただ晨酔山へ行くなら酒は貰ってこいよ』
ちゃっかり容器を押し付けてきた一姫に溜め息をつく。そんな青など気にした風もなく一姫はすぐにどこかへ消えた。
パンを食べ終えスマホを見る。時刻は正午を少し回ったところだ。今日は近くの商店街でお祭りがあるらしい。その祭りで、例年陸斗がたこ焼きを買って莫杜の元に訪れる、というのは先日莫杜が話していた。今まで陸斗のことを話す相手が居なかったのだろう。のろけ話を嬉しそうに語る莫杜を青は微笑ましく眺めていたのだ。
その毎年恒例のイベントを邪魔したくはなかったが、なんせ青は陸斗の連絡先など知らない。故に、こうして晨酔山の麓で待ち伏せをしている。陸斗はたいてい昼過ぎに莫杜を訪ねるらしい。祭りの開始は正午からなので、三、四時間も待てば会えるだろう。幸いトイレは公園に備え付けてある。
そんなこんなで長期戦を覚悟していたが、幸い陸斗は一時を少し過ぎた頃に姿を見せた。手に下げた白いビニール袋にはたこ焼きのパックが入っている。
「陸斗くん」
ベンチから立ち上がった青に呼ばれて、陸斗が顔を向けた。相手が誰だか理解したのか陸斗の眉が寄る。
「この前の……」
「そう。莫杜のところで会った、涌永青と言います。『
「話?」
陸斗は明らかに不審気だ。めげそうになる気持ちを奮い立たせる。
「ええと、この前はうちの女王様に言われて晨酔山の酒を貰いに来ただけで、俺は特に莫杜と親しいわけではなくて。会ったのもこの前が二回目なんだ」
なんだか浮気の言い訳をしているみたいだ、と頭の隅で思いつつ言葉を続ける。
「女王様って?」
「ああ、えっとね、」
疑問符を浮かべる陸斗に事の成り行きを話す。家にいる神様に酒を汲んでくるよう言いつけられた、なんて冗談みたいな話だが、莫杜も冗談みたいな存在なので、きっと陸斗は理解してくれるだろう。
ついでに先日莫杜と抱き合っていた理由も話す。ただの乗り物酔いだ。まだ半信半疑といった体だが、それでも陸斗は納得してくれた。
「それで、その青さんはおれに何の用ですか?」
「えっと、それは……」
まさか陸斗が嫉妬しているみたいだから誤解を解きにきた、なんて言えない。
「いや、うん。実はまた一姫に酒を貰ってこいって言われてて。腹減ったからパン食べてたらちょうど陸斗くんが来たから今の話をしておこうと思って」
誤魔化すように右手で首筋を掻く。そうなんですか、と陸斗はほんの少し憐みの籠った目で青を見た。
公園で陸斗と話をした後、陸斗の案内で莫杜の元に向かった。それから二人で莫杜の背に乗って酒の泉へと移動した。二人を乗せて速くは走れないのか莫杜も前回よりスピードが遅い。泉で酒を汲んだ青は早々に帰宅を申し出た。
「お酒、ありがとう」
「ああ、またいつでも来るといい」
また酒を飲む気だったのか、ゆっくりしていけと人型になった莫杜に引き留められたが、せっかくの二人の時間を邪魔するのは忍びない。なにせ今日は年に一度のイベントの日だ。ただ陸斗の持つたこ焼きはすっかり冷めているだろう。それだけは少し申し訳ない。
陸斗とは連絡先を交換したので、用があれば莫杜に取り次いで貰うことは出来る。また来るから、と言いおいて青は莫杜と陸斗の元を後にした。
青を見送り、莫杜は陸斗を振り返った。陸斗が眉を顰めるのを見て首を傾げる。
「どうした、陸斗?」
「最近ずっと獣の姿だったのに、なんで青さんが来ると人の姿になるんだよ」
「……それは」
「このところわざとあの姿だっただろ。おれが気付かないと思ってた?」
言い淀む莫杜に陸斗が俯く。
「やっぱり青さんといる方が楽しんだろ」
「何を言って、」
「だって最近おれの前では笑ってくれない!」
顔を上げた陸斗が、大きな声を出す。そのままはっと目を開いて右手で口を押さえた。
「ごめん。何でもない」
消え入るような声で言って、陸斗が背を向ける。莫杜が腕を掴むと、振り返った陸斗は泣きだしそうに眉を寄せていた。
「少し話そう、陸斗」
穏やかに言い、莫杜はその場に陸斗を座らせた。陸斗は俯いたままだ。向かいに座った莫杜が、何かあったのか、と静かに語り掛けると、少しの沈黙の後陸斗が顔を上げた。
「なあ、莫杜はおれに飽きちゃったの?」
「は?」
思いがけない質問に莫杜が間の抜けた声を出す。
「だってずいぶん前からよそよそしいし、人の姿にさえなってくれない」
「いや、そんなつもりは」
「ないって言えるのか?」
莫杜が言い終わる前に陸斗が声を重ねる。黙ってしまった莫杜に、陸斗はシャツの襟元をくしゃりと掴んで絞り出すように言った。
「好きなんだ」
「え?」
想定外の陸斗の言葉に、莫杜が疑問を返す。
「おれ、莫杜が好きだ。だからそんな態度は嫌だ」
「……そうか。私もお前が好きだ」
莫杜の言葉に一度驚いた顔をした陸斗は、しかしすぐに莫杜を睨み上げる。
「それ、意味わかって言ってんの?」
「肌を合わせて口づけたい。閉じ込めて独り占めしたい、そういう意味だが違うか?」
「え、いや、ち、違わない……けど」
まさかの返答に動揺して陸斗が口籠る。それからじわじわと喜色の浮かんだその顔に、莫杜が微笑んだ。
「同じ、で、あるならば駄目だ。もうここには来るな」
「え、何言って?」
ゆるく首を振り、莫杜が獣の姿に戻る。一度だけ陸斗を振り返り、そのまま走りだす。待ってよ、という陸斗の声には答えず、莫杜は森の奥へと姿を消した。
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