第39話 惑いの森の獣 -2

 人気のない公園に原付バイクを止めて、あおいは小さく息をついた。家から原付を走らせて片道一時間、山の麓に作られた小さな公園には年季の入ったシーソーが一つあるだけだ。明らかに近所の子供向けに作られたであろうここに駐輪場はない。人がいないとはいえその辺に原付を置いておくのは憚られ、公園の端のトイレの建物の裏に止めた。迷惑駐車ごめんなさい、と心の中で念じる。リュックサックに詰めた一升瓶を二本持って、トイレの裏から出た。

 この瓶が今回遠出をするに至った理由だ。土曜日で学校は休み、特に予定もなく部屋で自堕落に過ごしていた青に一姫が言った。莫杜まくずに酒を貰ってこい、と。何で俺が、とは思ったものの、先日の莫杜の様子が気に掛かり、口から出そうになった文句を飲み込んだ。なぜ気になるのか、なんて考えなくても分かる。思い出すからだ、あの紅葉を。はあ、とひとつ息をつき、改めて晨酔山ときよいやまを見上げた。

 進入禁止の金網の奥に、緩やかな傾斜が続いている。小さな山とは聞いていたが、さすがに『山』と付くだけあってそれなりに広い。辺りを見渡してみても同じような金網と木々の生える斜面が続くだけだ。こんな中で目的のあやかし一人を見つけられるはずがない。いや莫杜は「一匹」かな、と無意味な思考が頭を過ぎる。

 束の間の現実逃避の後、金網を右手で掴んだ。頼りない金網は軽く引いただけでゆらゆらと揺れる。よじ登ったりしたら間違いなく倒れる。一姫は「行けばわかる」と言っていたがどうしたものか。

 溜め息をついて金網から手を離した時、チィと高い声とパサパサと軽い羽音が聞こえた。小さな鳥が目の前の金網に止まる。


「お前、もしかして姫の式か?」


白く小さな体に愛らしい瞳には見覚えがある。尋ねると、そうだ、というようにもう一度鳴いた。

 今日はやけに記憶を掘り起こされる日だ。なすすべもなく見送ったあの優しい妖の、柔らかな笑みを思い出す。小さく息を吐いてゆるく頭を振った。今は感傷に浸っている場合ではない。

 手を伸ばすと、小鳥はぴょんと飛び跳ねて手の甲に乗った。同時に、ぐにゃりと視界が歪む。足元が抜けるような感覚にひっと喉を鳴らすと、次に気が付いた時には目の前に莫杜がいた。獣の白い大きな体を悠然と横たえている。青がぱちぱちと目を瞬くと、莫杜が顔を上げた。


「いらっしゃい、青」

「え、あ、うん。あの、今のは?」


目を白黒させている青の肩に小鳥が乗る。チィと鳴いたのに答えるように莫杜が言った。


「おそらく私たちの使う空間の入口と出口を強制的に繋いだんだろうな。たしか人には物の怪道と呼ばれていたか?」

「物の怪道ってあの、妖怪が使う空間を繋ぐやつ?」


青も漫画で見たことがある。物の怪道は妖怪が使う空間だ。物理法則を無視して遠く離れたところにでも短時間で移動できる便利空間だったはずだ。ただし人間は迷って出てこられなくなるリスク付きだが。


「そうだ。さすが一姫殿だな。その小さな式で繋ぐとは」


興味深そうに莫杜が小鳥を見る。そもそも、物の怪道なんてものが本当に存在しているのに驚きだ。おそらく一姫が使うテレポーテーションも同じような原理だろう。その謎が解明出来ればノーベル賞が貰える。うん、無理だ。


「ええと、莫杜。急で悪いんだけど、一姫が酒を貰ってこいって」


受賞は早々に諦めて、莫杜に尋ねる。

 妙なる美酒、を汲む為に、一姫はわざわざ日本酒を二本買ってきて数日で飲み干した。まったく呆れるばかりだ。一日中家にいて酒をかっくらって寝るとはとんだダメ人間だ。人ではないが。


「ああ、構わないよ」


突然の申し出に気分を害した風もなく、莫杜が頷いた。立ち上がって獣の身を伏せる。


「少し距離があるから、背に乗っていくといい」

「いいのか?」

「問題ない」


莫杜がざくろ色の目を細める。笑うと細くなるのは人型の時と同じだ。少々申し訳なく思いながら青はその背に跨る。白く美しい毛並みは見た目通り触れると心地良い。指先で地肌を撫でると青よりも高い体温が伝わった。

 それまで成り行きを見ていた小鳥は莫杜の前で何度か旋回し、軽い羽音を立ててどこかに飛び去って行った。


「少しスピードを出すからしっかり捕まれ。危ないぞ」


そうは言われても捕まる場所が無い。毛を掴むのは痛そうなので、青は莫杜の背に伏せて胴に手を回した。頬にあたる柔らかい毛の感触と程よい弾力は冬場に最高の寝具になりそうだ。獣臭いのかと思ったが意外にも少し甘い香りがした。




 莫杜の背にしがみついてしばらく、山の中の小さな泉に出た。底からぽこぽこと泡が上がっている。辺りには甘い匂いが漂っていた。果物の様な爽やかな香りは水面から香ってくる。これが、妙なる美酒、だろう。青は酒に明るくないがそれでも極上品に思えた。


「すごいな」


感嘆の声が漏れる。莫杜は少し笑って青を降ろしてくれた。芝生のような短い下草が青の靴裏を柔らかく受け止める。


「じゃあ、早速」


リュックサックから漏斗ろうとと一升瓶を取り出す。この漏斗もご丁寧に一姫が渡してきた。


「なんか匂いだけで酔いそうだ」


泉の酒を瓶に移しながら呟く。鼻はいくらか慣れて香りは薄れて来たが「晨酔山ときよいやま」の名は伊達ではない。なんとか酒を移し終えて蓋を締める。ふぅと無意識に息をつくと、後ろから抑えた笑い声が聞こえた。振り返ると、黙って見ていた莫杜が言った。


「いや、申し訳ない。その様子だと青は一姫殿に苦労させられているようだ」

「そうなんだよ。あいつ俺のこと下僕かなんかだと思ってんだ絶対」


頬を膨らませる青に、莫杜が尻尾を一度柔らかく振った。


「青。時間があるなら少し付き合わないか」

「うん」


はじめからそのつもりだった青が返事をすると、莫杜は楽しそうに喉を鳴らした。




「なあ、莫杜。その姿はなんなんだ?」


 青の前には、白い髪、白い肌の人物が座っている。伏せていた視線が持ち上がると、そこには真珠色の長い睫とざくろの瞳が現れた。その姿は間違いなく人型の莫杜の特徴と一致している。ただ、線が細く柔らかく、胸が大きいことを除けば。胸がきついのか緩く合わせられた白い衣の襟からはなめらかな谷間が覗いている。


「人の姿の方が酒は旨いからな。それに猪口で飲む方が風情がある」


訊きたかったのはそういう事ではない。その間にも莫杜は嬉しそうに酒器を取り出した。なぜか繁みの奥に仕舞われていたのは徳利と猪口だ。猪口が二つあるが、原付バイクの青は酒を飲めない。断ると莫杜は少し悲しそうな顔をしたがこればかりは致し方ない。

 あやかしにとって外見が違うなど些細なことだ。経験上、それを知る青はこの話題を流そうとした。が、莫杜が酒の用意をするために上半身を伏せる体勢になって、ますます胸元の合わせの奥が見えるようになってしまった。今にも布から零れそうな豊満なそれは、はっきりいって目のやり場に困る。


「莫杜って女性なのか?」


とりあえずの疑問を口にする。先日の姿は間違いなく男だった気がするが。


「いや、どちらでもないよ。これは人の姿を写しているだけだ」

「じゃあなんで今、女の人の姿なんだ」

「なんでって……人間の男は私がこの姿の方が酒が旨いだろう?」


莫杜には馬鹿にするとか、そういう感情は浮かんでいない。ただ事実を述べている、という風なので、青も、まぁそうかも、と煮え切らない返事をした。つまりただのサービスのようだ。確かに男と差し向かいで飲むより美女と向かい合って飲む方が楽しい、気もする、するが。しかしこの状況はあまりにも落ち着かない。


「莫杜。悪いけど男の姿になってくれる?」


青は酒を楽しみに来たわけでも、美女で目を潤しに来たわけでもない。莫杜と話をしにきたのだ。青の言葉に、そうか、と少し首を捻って、すぐに莫杜の姿が歪んだ。次の瞬間には初めて会ったときの男性の姿が現れる。ようやく落ち着いて青は安堵の息をついた。



 莫杜との会話はたわいのない内容だった。近況を簡単に伝えた他、特に気になる様子はない。先日の思いつめたような印象は、取り越し苦労だった。やはり長い時を生きる妖の心を、たった二十年やそこら生きた青が推し量るなど無理なのだ。


「なあ、莫杜の好きな子ってどんな子?」


酒がまわってきたのか、頬の血色が良くなった莫杜に問いかける。はじめは青が酌をしていたが、今は手酌でちびりちびりと酒を飲んでいた。


「そうだな。威勢が良くて感情がすぐ表に出る子供だよ。初めて会ったときは、低級に惑わされてべそべそ泣いていてな。人の姿の私が出て行ったら呆けた顔をして、そのあと嬉しそうに笑ったよ。助かったと思ったのだろうが、私は助けてやるなどと言っていないのに」

「でも助けたんだろ?」


当時を思い出しているのか莫杜が喉の奥で笑う。莫杜が子供を助けていなければ、その子は今頃この世にはいないだろう。


「ああ。助けてもらえるのが当然と思っているその傲慢さは少々鼻についたが、でも期待に満ちた瞳で見つめられると、その通り動いてやるのも悪くないという気になってな。なに、酔っていて機嫌が良かったんだ」


機嫌が良くなければ助けなかった、というのはおそらく事実だ。やはり莫杜も妖だと実感する。いくら言葉を交わすことが出来ても本質的に人とは違う生き物なのだ。


「そうしたら懐かれて、ちょくちょく顔を出すようになった。初めは暇潰しにちょうど良かったし、こちらが付き合ってやっていると思っていたんだ」


そうしているうちに、九つの春と夏と秋と冬を終えた。莫杜が過ごしてきた時間を思えばそれは蚊の鳴くような短さだが、これまでで一番時の流れを感じた。

 先を急ぐように育つ子供を見るのは楽しかった。しかし成長するにつれて子供の足は遠のいた。毎日のように訪ねてきた子供が、姿を見せるのは二日に一度になり、三日に一度になり、やがて数日に一度になった。子供の口から知らない場所、知らない人間の話題が上る。日々少しずつ子供の世界は広がった。それは人の子として、喜ばしいことであり祝福すべきことである、はず、だった。本来ならば。


「子供の口から友人の話が出るたびに、何故私以外の者の話でそんなに楽しそうに笑うのかと腹が立った」


莫杜はゆっくりと首を振る。伏せた瞳には影が落ちて、ざくろの輝きは見えない。


「そう気づいた時には愕然としたよ。これは嫉妬だ。こちらが付き合ってやっていたはずなのに、いつの間にか待ち望んでいて、そうして欲していた。これまで長きを過ごして、ついぞそんな想いに囚われたことなどなかったのに」


力なく紡がれたその言葉は、恋のよろこび、のようなものは無く、ただただ後悔が滲む苦しい音だった。

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