第38話 惑いの森の獣 -1
―――――側にいるだけで満足だったんだ、そう、確かにあの日まで
カーテンに透ける柔らかな日差しが遮られ、
青は一度上げた視線を手元の漫画に戻す。そこでは今一推しの、異世界人が人々を攫うSF漫画がちょうど佳境を迎えている。設定に真新しさはないものの、確立された世界観と、敵味方問わず緻密に練られた策略に、処々に散らばる伏線をさりげなく回収しながら進むその展開は文句なく面白い。本来ならば、あと数ページで「ああ面白かった」で終わるはずなのだ。
気付かない振り、を貫こうかと頭の隅でちらと思った。しかしそれで面倒事が過ぎ去ったことなど一度も無い。ましてあの大きな影に暴れられたら確実に窓とベランダが無事ではない。仕方無く再度顔を上げると、一姫が部屋のドアから顔を出した。そのままつかつかと窓へ寄っていく。一姫がシャッと軽い音を立ててカーテンを引き開けた。
窓の外には白い小山があった。動物のようだが顔が窓枠の外にあるので胴体しか見えない。とりあえず大きな真っ白い毛の獣がそこにいる。
「何用だ?」
窓を開けて一姫が問い掛けた。珍しくやる気のある一姫に興味を引かれ、青は後ろから覗きこむ。獣は窮屈そうに顔だけをこちらへ向けた。
「動けないのだが」
獣の口から低い落ち着いた声が響く。困ったように紡がれたそれに、一姫が鼻で笑った。
「当然だ。ここはわらわの結界の中だ。ある程度の妖力のあるものは力を封じるようにしてある」
一姫はさらりと答えたが、青は初耳だ。今までにこんな風に力を制限された
「突然訪ねた非礼はお詫びする。ただ、害するつもりで来た訳ではない」
獣が目を細める。その虹彩はざくろの果肉のような透明感のある赤だ。和犬のようなすっとした鼻筋にピンと尖った三角形の耳、そして特徴的なのはその額だ。円錐形の小さな突起、簡単に言えば角のようなものが生えている。全身が雪のように白い毛で覆われ、尾の毛はひときわ長くふさふさしている。その毛足の長さのせいか、体に比べて尻尾がやけに大きく見える。
神々しくさえ見えるその姿は、危険な妖には見えない。美しい獣だ。しかし今までの経験からして外見に惑わされると碌なことにはならない。青がさりげなく窓から離れて遠巻きに見ていると、一姫が訊いた。
「名は?」
獣がゆっくりと動く。後ろ足を下ろして「お座り」の姿勢になった。ベランダの幅が狭いため横を向いたままだが、ようやく窓枠内に顔が入った。足の先には大きな爪がついている。これで襲われたら人間などひとたまりもない。
「横向きのままで失礼する。私は
「……晨酔山の莫杜?」
一姫の肩がピクリと動く。小さくその名を復唱した。
「わらわに喧嘩を売りに来たわけではないんだな?」
その言葉に、白い獣、莫杜はゆっくりと頷いた。
椅子には男がひとり座っている。それに相対するように一姫と青はベッドに腰掛けていた。いつにない緊迫した空気を破ったのは一姫だ。
「改めて訊くが、何の用だ?」
椅子の男は戸惑うように目を伏せた。ざくろ色の瞳に、色素の薄い肌、背中の中ほどまで届く白く長い髪は先のほうだけが緩く波打っている。切れ長の目を縁どる
神職のような白衣に白袴の彼は、先ほどベランダに降り立った妖、莫杜だ。一姫に許され、動けるようになった獣は、刹那、輪郭が歪んだかと思うと人の形になった。多少驚きはしたが、すでに慣れてしまった青は黙って部屋に招き入れた。そうして今に至る。
恐怖心と好奇心の半々で見つめていた青に気が付いたのか、莫杜が顔を向けた。ばちりと合ってしまった目を、青が逸らす前にその赤い瞳が細められた。笑うと細くなるその目から敵意は読み取れない。しかしすぐに思いつめた様子に戻った瞳に、なぜかどきりと心臓が跳ねた。
「こちらの神は妖の願いを叶えてくれると噂に聞いたので訪ねた」
莫杜の答えに一姫が目を瞬いた。続く声音は純粋な驚きを含んでいる。
「お前ほどの大妖がそんな子供騙しの話を信じてわざわざ町一つ越えて来たのか?」
少々バツが悪そうに莫杜が頷く。そのやり取りを見て青が口を挟んだ。
「姫、莫杜と知り合い?」
「知り合いではない。ただ、話には聞いている。有名だからな」
「有名?」
青が首を傾げると、ああ、と一姫が頷いた。
「莫杜もだが、それ以上に有名なのは晨酔山だ」
「ときよいやま」
ぴんと来ない青が繰り返す。
「読んで字のごとく、だ。その山を守る大妖として莫杜は知られている」
「いや、字のごとく、とか言われても漢字わかんないし」
一姫が立ち上がり、机の上のボールペンと手近にあった付箋を手に取る。その小さな紙にペンを走らせた。青に押し付けた小さな付箋には「晨酔山 莫杜」と流麗な字で書かれている。神社に置く厄除けの札を書いているだけあって、こう見えて一姫は字が上手い。
「はあ、なるほど。でも字を見ても意味わかんないけど。こんなの初めて見たし」
青が「晨」の字を指差す。一姫が呆れたようにため息をついた。
「これは、夜明けや早朝を意味する字だ。詳しくは自分で調べろ学生。で、読んで字のごとく、というのは、この山が朝靄とともに酒の匂いがすると言われているからだ」
「朝っぱらから酒? なんで?」
「晨酔山は、酒の湧く泉だか川だかがあって、その酒が朝靄とともに香るのだ、と言われている。その酒は妙なる美酒だとな。ただ酒を探しに行った者は、その強い香りに酔い惑い帰らない、とも伝えられている。実際、晨酔山はそれほど大きな山で無いにも関わらず行方不明者が多いと聞く。確か、今は登山を禁じて封鎖されていると思ったが……」
一姫も確かな事は知らないのか、その視線が莫杜へと向く。頷いて、莫杜が話の続きを引き取った。
「ああ。以前はよく酒を探しに人間が来たが、酒を守りたい低級の妖に惑わされて命を落とした。逃げ帰った者の中に私の姿を見たものがいて、私に食われたのだ、と人の間で噂されていた。今は人の土地の所有者、『地主』というのか、が山を荒らす人間を私が祟るのだと言って、立ち入りを禁じている」
「え、祟り?」
青が顔を引きつらせる。莫杜は困ったように笑った。
「私は人間を食べたことも、祟った事もないよ。そもそも神ではないから祟ることは出来ない。ただ人を惑わす妖達を諌めたこともないから、人にとっては性質の悪い妖だと思われても仕様がないが」
目を伏せた莫杜に、青はなんとなく悪いことをした気がして口を閉じる。ただ明確に何か言った訳ではないので謝るのも違う気がして、青は仕方なく話を逸らせた。
「それにしても『
付箋に書かれた字を示す。「杜」は神社の息子なだけに見慣れているが、「莫」はそうそう使う字ではない。
「漢字は当て字だ。もともと私の名は『マクズ』という音だけだった。山に入った人間が低級の話でも漏れ聞いたのだろう。いつしか人の間でそう呼ばれていた。莫は「虚しい」とか「果てなく広い」等の意で、杜は「閉ざす」という意味だとか。山の言い伝えと合わせると、言い得て妙だな」
くすくすと莫杜が笑う。青には、あまり良い意味には聞こえなかったが、莫杜は否定しているようにも見えない。
「もしかして莫杜ってすごく長生きなのか?」
青が尋ねる。それなりの大妖であるようだし、百年やそこらではなさそうだ。
「そうだな、人の時の流れで言うと、二千年は越している」
「ええ!? 姫より長生き?」
さすがに驚いた。鷹揚な雰囲気から長く生きていそうだとは思ったが、ここまで長寿の妖には会ったことがない。だが、少々不満そうな一姫から横やりが入った。
「おい、アオ。わらわより長生きとはどういうことだ」
「え、だって。詳しくは忘れたけど姫って千年と幾つかだろ?」
「それは神社が創建してわらわが神として祀られてからの年月だ。『存在している』という意味ではもっと以前から居る。それこそいつから居るのかもわからんほど大昔からな」
「え、そうなの?」
「ああ。まあ、わらわには『生きている』という概念がそもそも当てはまらんがな」
「……はぁ」
話が壮大すぎて付いていけない。青がぱちぱちと瞬くと、その間抜けな顔に一姫は少し笑って、改めて莫杜に向き直った。
「話は逸れたが、お前の叶えたい願いとはなんだ? 本来ならその手の話は断るのだが、お前ほどの大妖になら恩を売っておくのも悪くない」
一姫がにやりと笑う。秀麗な顔にはそんな表情も似合うが、整っているだけに凶悪さもひとしおだ。青が呆れたように息をついた。
「何、恩を売るといっても、たいしたことは無い。少しその妙なる美酒を味わわせてくれれば十分だ」
考えてみれば酒好きな一姫が、この手の話題に食いつかない筈がない。
久々に一姫の「神らしい」ところを見て、ほんの少しだけ見直していた青だがその尊敬も早々に消えた。莫杜も怒っているのではないかと目を向けると、彼はほんの少し困ったように微笑んでいた。青と目が合うとその笑みが深くなる。
一姫が話の先を促すと、莫杜はほんのひと時目を伏せた。すぐに上げられた赤い瞳は一度ゆっくりと瞬きをして、そうして話し出した。
「恋しい人の子がいる」
それは、一姫にとっても、青にとっても、少なからず衝撃だった。その恋心を消してほしい、と莫杜は確かにそう言った。まさかの恋バナに、一姫もきょとんとしている。その反応を見て、莫杜は苦く笑った。
「情けない願いであるのは承知している。ただ、もう他に方法が思いつかなかった」
辛そうに寄る眉は、ほとほと困り果てた、という様子だ。青が隣りに視線を落とすと、一姫は何かを見極めるようにじっと莫杜を見ていた。
「残念だが、その願いを叶えてやることは出来ない。わらわに記憶や感情を操作するような力はない」
静かな一姫の言葉に、莫杜の表情がふっと緩む。
「そうか。もともとそんな都合の良い事が出来るはずもない、とはわかっていた。ただ、願いを叶える神の話を聞いて、万が一にもと訪ねてしまった。面倒を掛けてすまない」
穏やかに頭を下げた莫杜に一姫が首を振る。
「わらわには叶えてやれないが、ただ何故お前がそこまで思いつめたのか知りたい。なに、単なる興味本位だ。嫌なら話さなくていいぞ」
「そうだな。私のようなものが人の子に懸想するなど、一姫殿にとっては不可思議だろう。話して聞かせるほど面白い話ではないが、」
そう一度言葉を区切って莫杜が息をつく。それから続きを話し出した。
数年前、莫杜は山で低級の妖に惑わされ迷子になった子供を助けた。これまでも酒を求めて山へ入り低級に惑わされて命を落とす人間がいたが、特に気に掛けることは無かった。ただ、その時はたまたま機嫌が良かったため、気まぐれに低級を追い払ってやった。それでどういうわけか子供に懐かれたらしく、それからその子供が莫杜を訪ねるようになった。子供は麓に住む地主の一族らしい。
「その時は自分でも想像もしていなかったが、時が経ち子供に情が移ってしまった。私のような長い時を刻む者にはわからない、その短い生の移り変わりがたまらなく愛おしい」
「なるほど。お前も『人』と出会ってしまったんだな」
一姫が目を細める。莫杜は何か思うところがあるようで、まるで同意するように笑った。
「そのうちに眺めるだけでは足りなくなった。ここのところ人の子が訪ねて来る度、森に閉じ込めてしまいたくなる。しかし、それがあの子にとって不幸な事だと私は知っている」
どこか痛みを堪えるようなその声は、莫杜が「本気」なのだと青に思わせるには十分だった。一姫は先ほどから否定も肯定もしない。ただ、そうか、と小さく呟く。
「悪いが、やはりわらわは何もしてやれない。だがお前が少しでも心安らかにいられるように祈っている」
「いや、こんな愚かな想いを聞いて貰えただけでも感謝している」
「あのっ」
一姫は何か思うところがあるのかいつもより優しい。それまで黙って聞いていた青が我慢できずに口を挟む。莫杜の視線が青に向いた。
「あ、えっと、俺みたいのが生意気かもしれないけど、莫杜のその気持ちは愚かでは無い、と思う、んだけど……」
「ありがとう、人の子」
弱々しい青の声に、莫杜は少し驚いたようにひとつ瞬いた。そうして静かに微笑む。
その何もかも諦めたような顔に何か言いたかったけれど、適切な言葉が出てこない。青が言葉を探して黙ると、莫杜は席を立った。結局、何も解決しないまま莫杜は一姫に礼を述べて、ベランダから帰っていった。
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