第27話 名残の雨 -3

 天気予報は一日晴れマークだ。窓の外は雲ひとつない晴天で今日も暑そうだ。家を出る前に母さんとばあちゃんに声をかける。


「今日、夜遅くなるから。もしかしたら泊ってくるかも」

「泊ってくるって、どこに? お友達?」


母さんは俺が毎日出掛けるのを見て、友達が出来たと思っているらしい。例年、ここにいる間はほとんど居間で寝て過ごしていたから、急に外出するようになったら気になるに決まっている。


「キャンプして星見ないかって誘われたんだ」

「そうなの。お友達のお家に何かお礼とか、ご挨拶とか」

「いいよ、そんなの」


嘘は言ってない、嘘は。ただ、そのキャンプ地が近所の森で、テントも無く、その上その相手が人間ではない、だけだ。せめて挨拶を、と食い下がる母さんに首を振る。一姫や染若を知っている母さんなら話せばわかるだろうが、色々訊かれるのは面倒だ。


「えっ、僕も行きたい!」


キャンプ、の言葉を聞いて反応したのは弟のそらだった。空もここでは退屈している。出掛ける俺を羨ましそうにしていたのは知っている。だけど空を連れて行ったところであやかしべには見えない。空の目には俺が何もないところに話し掛けているように映るだけだ。


「悪い、急いでるから」


ちょっと可哀想だけれど、詳しく訊かれる前に逃げる事にした。

 兄ちゃんばっかりずるい、という空の声と宥める母さんの声、あと、気をつけてね、というばあちゃんの声が聞こえる。明日には遅れてくる父さんが着くから、空の気も少しは紛れるだろう。

 紅を訪ねる前にコンビニに寄ることにした。一晩を森で過ごすのならそれなりの準備が必要だ。相変わらずコンビニへと向かうアスファルトにはじりじりと日が射している。この前ここを歩いた時はあんなに辛かったのに、これから遊ぶためだと思うと足が軽い。

 コンビニに到着して、とりあえず店の中を一周する。運良く虫よけスプレーがあった。少し高いが仕方がない。森で数時間遊んだだけでも数か所刺されるから、一晩いたら体中虫に刺されて酷い目にあうに決まっている。

 他に大きいペットボトルのお茶と500mlのスポーツドリンクを手に取り、適当に調理パンを選んでレジに向かった。

 飲み物は紅も飲むだろう。この前ジンジャーエールを飲ませた時も特に問題は無かった。炭酸に驚いて変な顔をしていた紅を思い出して少し笑うと、店員さんが変な顔をした。人前で思い出し笑いとか恥ずかしすぎる。商品を受け取ってそそくさと店を出た。

 森に入ると、待ち合わせをしている訳でもないのに紅が迎えに来た。紅はこの森の中の生き物の気配が解るらしい。紅はすぐにコンビニの袋に興味を示した。少し笑ってスポーツドリンクを渡す。気に入ったようで楽しそうに飲んでいる。まだ三時半を過ぎたところで、日暮れには時間がある。明るいうちにトランプを教えることにした。

 紅はトランプも気に入ったようだ。しばらくババ抜きをしていたが、飽きて七並べ中だ。そうしているうちに暗くなってきた。空の端から金色の光が伸びている。空はまだ明るいが森の中はもう暗い。カードが見辛くなってきたのでトランプは終えた。

 小腹が空いたのでパンを食べていると、紅が羨ましそうに見ていた。でも染若と同じ木の精だから食物は摂らないらしい。食事を終えたところで立ち上がった。


「ちょっとトイレ行ってくる」


近所の公園に公衆トイレが有るのをチェックしておいた。さすがにこの歳でその辺で用を足すのは避けたい。まして森が紅の縄張りだと思うとなおさらだ。

 森を出たところで、月と一番星を見つけた。せっかくなら一番星は紅と一緒に見つけたかった。星なんてそう珍しく無いのにこのいつもとは違う空気が少し胸を浮つかせる。

 用を足して森に戻ると、暗さを増していた。ここ数日で歩き慣れたはずなのに、暗いとやはり怖い。ごくりとひとつ唾を飲む。少し歩いたところで、行き先に自信がなくなった。所々の目印の木が今は暗くてよく見えない。こんなとこで迷子とか有りえない。


「紅」


とりあえず名を呼ぶ。大きな声を出すと、森の外まで聞こえてしまいそうなので音量は控えめだ。気分を紛らわすためにスマホを取り出す。煌々と光る液晶に少しほっとしながら、懐中電灯くらい持ってくるべきだったと後悔した。少ししてガサリと草が鳴り、肩が跳ねた。


「青?」


ほっとして腰が抜けそうだった。なんとか耐える。


「悪い、暗くて良く見えなかったから」


怖かった、なんて素直に言えない。少し棒読みだが紅は気付かなかったようだ。


「そっか、人は夜目が利かないからな」


紅は納得したようで、俺の手を取って歩きだした。弟以外と手を繋ぐなんて随分と久しぶりだ。少し気恥ずかしいけれど、この闇の中では手から伝わる感触に安心する。紅は人間より少し体温が低いみたいだ。冷たく感じる手も、今の俺には温かかった。

 夏とはいえ、少し冷えて来た。もみじの木の下に戻り、パーカーを羽織る。昼間に涼しいだけあってやはり夜は肌寒い。明け方にはもっと冷えるだろう。


「青、そろそろ星、見に行こう」


頷いて荷物の入った鞄に手を伸ばす。と、さりげなく紅に取られた。


「暗いから、私が持っていく」

「え、あっと、ありがと」


なんだか慣れない扱いに戸惑う。

 夜の森を紅に手を引かれて歩く。だいぶ目は慣れてきたけれど、人工の明かりがほとんど入らないと本当に暗い。下草や、張り出た枝が体に触る度、内心で悲鳴を上げる。もし一人だったらマジ泣きだ。

 何度か躓いて、ようやく辿り着いたのは小さな広場だった。広場、とは言ってもただ木がないだけだ。短い下草とところどころに岩が出ていた。


「おお、こんなところがあったんだ」


木が無いからぽっかりと空が広い。星が良く見えた。こんなにたくさん見たのは初めてだ。さすがにプラネタリウムとまではいかないが、少なくとも神奈川の家から見える夜空の数倍は星がある。


「すげぇ」


思わず声が漏れる。小さな森だから本当は祖母の家から見る空とそれほど変わらないだろう。でもこんなに長く明かりの無い暗闇にいる事なんてなかった。そのせいか星がやけに明るい。ぼうっと眺めていたら手を引かれた。


「座ろう」


そういえばまだ手を繋いだままだった。なんだか急に恥ずかしくなって手を放す。先に座っていた紅の隣に腰を掛けた。

 このところ雨は降っていないので地面は乾いている。丈の短い下草がチクチクと手首を刺した。懐かしい感触だ。小さい頃、学校の裏の原っぱでオンブバッタを追いかけた時の景色が甦る。今も昔も世界はこんなにも綺麗だ。たった数年でそんな事も忘れていた。

 後ろに倒れて寝転がった。草の青い臭いが鼻に届く。でも嫌ではない。さん、と草を倒す軽い音をたて、紅も隣に寝転がった。


「星座、見えるんだろうな、きっと」


星には詳しくないから、俺がそれとわかるのはオリオン座くらいだ。探してみたがそれらしきものは見つからない。大昔、今よりもっともっと星の多い空で、同じように上を見あげた誰かが星と星の線を結んだ。なんだか意味も無く胸が詰まる。


「なあ、青。せいざって何?」


半身を起こして紅が俺を覗きこんだ。紅に星座の説明をする。どの星が何座かまでは教えられないのが残念だ。また今度見るときの為に次は星座を覚えてこよう。星を追って空を見あげた紅の横顔を見ながら思った。




 紅との別れの日はすぐだった。もともとこちらに居るのは夏休みのうちの数日だ。一人で残ることも出来たが、すでに地元の友達と遊ぶ約束をしている。会えなくなるのは少し寂しいが、でもこれが最後という訳でもない。


「なぁ、紅。俺、明日家に帰るから」


ババ抜きで、俺の手札の二枚を真剣に見つめている紅に話しかける。残りの手札はハートの七とジョーカーだ。どちらにするかカードの前でふらふらと動いていた紅の指が動きを止めた。


「帰るって? いつも帰っているじゃないか」

「へ?」


紅の問いに間抜けな声が出る。

 そういえば一姫をはじめ家の者達の話をしたが、それがこの土地ではなく神奈川の家だとは伝えていない。今、夏休みで一時的に祖父母の家に来ているのだと紅には話していないのだ。


「えーとごめん。家っていうのはこの町にある家じゃなくて」


紅に、事情を説明する。実家からは軽々しく来られる距離では無い。俺の話が進むにつれ、みるみる紅の顔から元気が無くなった。垂れた耳が見えるようだ。


「もう青はこないのか?」

「いや、すぐには無理だけどまた来るよ」

「本当か?」

「うん。次はそうだな、秋くらい? お前もこの森も紅葉するんだろ?」


紅はもみじの化身だ。きっと葉の色が変わったら綺麗だろう。秋には連休がある。ばあちゃんに訊いて、紅葉の時期に来ればいい。ちょっと交通費が掛かるが祖父母の家に行くというのなら父さんたちも許してくれるだろう。


「そうか。なら、次来るの待ってるな」


紅はしょげた顔がもう上機嫌だ。

 その勢いで迷いも吹っ切れたのか、紅が俺の手のカードを引いた。ジョーカーだ。またすぐに紅の顔が悲しそうにしぼむ。ころころと表情がよく変わる。紅が体の後ろで混ぜた二枚のカードを俺の前に出した。左のカードに手を伸ばすと、紅の頬がほんの少し嬉しそうに動く。本当にわかりやすい。反対のカードを引くと、スペードの七だった。数字の揃った手札を山へと捨てる。俺の勝ちだ。

 ひとまずの別れの前に、ひとつ大事なことを教えておこう。


「紅、次までにもうちょっとポーカーフェイスを覚えたほうがいい」


これでは何度勝負しても俺の勝ちだ。ポーカーフェイスの意味を置き土産に、俺は祖父母の家での夏休みを終えた。

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