第24話 ≒ (ニアリーイコール) -2

 雲ひとつない晴天に、柔らかな光が降り注いでいる。数日ぶりの暖かい陽気に誘われて一姫は外に出た。拝殿裏の外回廊に、壁に背を預けて座る。暇を持て余してぼんやりともみじを眺める。いくつかの葉は朝夕の寒さに赤く色付いてきていた。

 神社の敷地内にもみじはこれだけだ。去年、この葉が真っ赤に染まったある日、あおいがもみじを見あげて佇んでいるのを見た。小雨が降り出して、直ぐに雨粒が大きくなろうかという荒れた天気で、一姫は声を掛けようとしてやめた。いつになく青が沈んでいるように見えたせいだ。その日、青はずぶ濡れになって帰ってきた。幸子ゆきこには傘が無くて走って帰ったと嘘をついたのを一姫は知っている。

 過去に一時期同じような事があった。青が高校生の時、例年は年に一度しか戻らない母方の田舎に行きたがるようになった。しかし有る時沈んだ様子で帰って来てから、ぱたりと行かなくなった。上辺では普段通りを装ってはいたが、ふとした拍子に見せる辛そうな顔に幸子とともに随分と気を揉んだものだ。

 明らかにそれまでの青とは違った。何らかの痛みを知ったらしい青に、しかし幸子も一姫も理由を聞き出す事はしなかった。日々は過ぎてそれは記憶の隅に追いやっていたが、青の中ではまだ燻っていたようだ。

 結局、その雨の日も理由は訊かなかった。おそらくこれからも訊ねる事はない。ただ今年もこのもみじが色付いた時、青は同じ顔をするのかと思うと少し胸が痛む。人は穏やかなままでは生きられない。それは百も承知だがやはり沈んだ顔は見たくないものだ。

 



 体に微かな重みが掛って一姫は目を開けた。いつの間にか眠っていたようだ。


「あれ、起こしちゃったかな。ごめん」


見慣れない上着と友哉が目に入る。確かに少し肌寒くなっている。一姫が上着を軽く畳んで友哉に渡した。


「ありがとう」

「いや、結局起こしちゃったし」


ごめんな、と友哉が笑う。一姫は首を振って疑問を口にした。


「今日は水曜日ではないよね? それと、それは?」


 友哉はいつも水曜の午後に姿を見せる。しかし今日は土曜日だ。それに抱えるほどの大きな袋が置いてあるのに一姫は指を差した。袋の上部から茶色いものが覗いている。


「あ、これね。商店街の福引で当たったんだ」


友哉が袋を拝殿の床に置いた。袋を剥ぐと、現れたのは大きなクマのぬいぐるみだ。身長が座った一姫と同じくらいある。


「俺の狭い部屋に置いても邪魔なだけだし、だれか喜びそうな奴いないかなって考えたら一姫を思い出したんだ。これ、いらない? 興味無かったら他をあたるけど」


ぬいぐるみの黒い瞳が一姫を見つめている。触ってみると予想よりふかふかだ。抱きしめるとちょうど良く腕に馴染んだ。ぬいぐるみに興味は無いが抱いて寝るには快適そうだ。


「貰っていいのか?」

「うん。俺が持っていても困るだけだし」

「そうか、ありがとう」


一姫はなんとなくクマの鼻先を押しつぶしながら、友哉に腰掛けるように勧める。一姫は抱いたままのクマを膝に乗せた。潰した鼻はもう元の形に戻っている。


「友哉さんは大学生?」

「うん。そこの横浜国際大学」

「ふぅん、横国か。どこの学部の何年生?」


 横浜国際大学はその名の通り国際的に活躍する人材を育てる事をコンセプトにした大学だ。和久永神社から徒歩で二十分程の場所に位置する。それなりに頭の良い大学だが「家から近い」そのたった一点だけで青が猛勉強して入った学校だ。このあたりの人間には「横国」と略される。


「薬学部三年」

「へぇ、頭良いんだね。学部は違うけどこの家の子供と同じ」

「この家の子供って、一姫のお兄さんかお姉さん?」


その問いに、一姫は自身をこの家の子供みたいなものだ、と話したのを思い出す。


「この神社の子供はその大学生で、私は親戚みたいなもの。それに私は千六十六歳だから、私の方が上だ」


にやりと笑うと、友哉が面白そうに目を細める。


「あれ、この前千六十五歳って言ってなかった?」

「そうだったか? この歳になると一年や十年の差は忘れちゃうよ。いつだったか暦が変わって数え方も変わったからなぁ」

「確かにその歳になれば一年も十年も変らないかも」


声を立てて友哉が笑う。まだこの冗談に付き合ってくれるらしい。一姫にとってはあながち冗談でも無いのだが、それが真実だと言ったところで信じはしまい。


「そういえば、友哉さんは参拝の作法を良く知っているね」


 一姫にとって友哉が気になったのは、姿形が整っているということもあるが、それ以上に神社の作法を良く知っていたからだ。最近は参拝に正中を通る者や手水舎に寄らない者も珍しくはない。その中で友哉の美しい所作は目を引いた。


「小さい頃じいちゃんがこの辺りに住んでたんだ。じいちゃんに連れられて良くここに来てた。その時に教わったんだ。あの頃は何か有るたびに神頼みしてた」


昔を思い出しているのか友哉の視線が下がる。


「この前久しぶりに神社の前を通って思い出したんだ。なんかじいちゃんがいるみたいで懐かしくてさ。神様には悪いけど、なんかお参りはじいちゃんと話してる気分、みたいな」

「お祖父さんは亡くなったのか?」

「あ、そうそう。俺が中学の時に」

「そうか」


それだけ言って一姫が微笑む。どこか寂しげにみえる表情に、友哉が不思議そうに首を傾げた。

 その時、じゃり、じゃり、と音がした。誰かが玉砂利を踏む音だ。


「噂をしたら、当人が来たみたいだ」

「当人?」


友哉が一姫の視線を追う。拝殿の角から青が姿を現した。


「姫、外行くなら携帯持って歩けっていつも言って、……ってお客さん?」


 文句を言いながら歩いて来た青が友哉に気付いた。一姫が神社にいる時には大抵携帯電話は置いたままだ。時折母、幸子に頼まれてこうして青が迎えに来る。青は、想定外の他人の存在に声が裏返っている。


「お前はまたそんな格好で、」


一姫が言葉を濁す。青は黒のジャージ素材のズボンと、緑のパーカーだ。いかにも寝巻の上に適当に羽織って出てきました、という風情だ。髪の毛は寝ぐせで所々跳ねている。近所の散歩程度なら問題の無い服装ではあるが、他人の前で指摘されると恥ずかしいのか青が顔を赤くした。

 一姫は膝に座らせたクマの腕を持ち上げて青に向ける。


「友哉さん、これがこの家の子供」

「どうもお邪魔してます。元杉友哉もとすぎゆうやといいます」


友哉が立ち上がって会釈する。


「あ、はい。涌永青です」


何か引っかかる事でもあるのか青が返事をしながら僅かに眉を寄せる。


「アオ、友哉さんは横国の先輩だぞ」

「え、そうなんだ。だからかな。なんか元杉さんて見た事が有るような。横国の元杉って……」


言いかけて、青が小さく呻く。それきり続けようとしない青に友哉が小さく笑った。


「なにか噂とか聞いてるかな?」

「う、ええ、まぁ」

「へえ、どんな噂だ」


横から一姫が口を挟む。困ったように青が視線を泳がせた。


「碌な噂じゃないのは知ってるから、言っていいよ。怒ったりしない」


そうは言われても本人を前に口にするのは憚られるようで、青が言い淀む。


「そんなに気を遣わなくていいのに。確か、二カ月に一度彼女が変わるって言われてなかった?」


にこやかに友哉が言う。自分の事を話しているとは思えないさわやかな口ぶりに青が戸惑っているのが分かる。


「いや、自分が聞いたのは三カ月に一度でした」

「あ、そうなんだ。まぁ二カ月も三カ月も大した差ではないね。他は?」

「あー……二股掛けてて、髪の長い子と短い子と同時に付き合ってた、とか」

「ああ、それは嘘。さすがに二股はしてないよ。多分髪の短い子っていうのは妹だね。妹は運転出来ないから時々買い物に付き合わされるんだ」

「あと、実は隠し子がいるとか」

「マジで!? それは面白いな~。残念だけどそれも嘘だな」


まるで他人の噂話を聞くような友哉に、青の口も軽くなる。


「それと、実は本命が居て、それが禁断の相手だからその変わりに他の女の子と付き合うけど長続きしない、とか」

「何その禁断の相手って? 例えば?」

「え、さあ、そこまでは。 友達がどっかの誰かから聞いたって」

「雑だなあ。けど噂なんてそんなもんだよね」


納得したように友哉が頷く。


「つまり、ほとんど嘘だけど二ヶ月に一度彼女が変わるって言うのは本当?」


足をぶらぶらさせながら、それまで黙っていた一姫が訊いた。クマの肩に顎を乗せ、面白そうに見ている。


「おい、姫」


青が嗜めるが、一姫に気にした様子はない。


「それは、半分本当で半分嘘かな。一年、いや一年半くらい前まではそんな感じだったけど、今はもうそれっきり彼女は居ないよ」

「それは、なんで?」

「意地悪な質問だなぁ、一姫。……無駄だって分かったからかな」


気を悪くした風ではないが、わざとらしく拗ねた態度で友哉が答える。


「無駄?」


いまいち話が見えずに青が訊き返すと、一姫が口の前で人指し指を立てた。


「それは私と友哉さんの秘密だ」

「そうそう、秘密秘密」


友哉にまで同調され、蚊帳の外の青が何とも言えない顔をする。


「ていうか、なんで二人は知り合いなんですか?」


秘密の内容が気にはなるが、ほぼ初対面の上に先輩だし、そもそも追及する権利も無い。青は話を変えることにしたらしく、別の疑問を口にした。


「俺がこの神社に何度か来てて知り合ったんだ。大丈夫、危ない事は考えてないよ。って、俺が自分で言っても説得力ないけど」

「いえ、それは別に心配してないから平気です」

「おい、アオ。どういう意味だ」


全く興味のなさそうな青に一姫の文句が飛ぶ。確かに一姫はアイドル顔負けの美少女だが、その実ただのか弱い少女では無い。成人男性の一人や二人撃退するのはたやすい。それは一姫自身も承知だがこうもあっさり流されるとそれはそれで腹が立つ。しかし、そんな一姫に青は無視を決め込んだようだ。


「そのぬいぐるみは元杉さんが?」


クマを指さし、青が友哉に訊ねる。友哉は二人を面白そうに眺めていたが、話を振られて笑った。


「ああ、商店街の福引で当たったんだ」


友哉が一連の事情を話すと、青が頭を下げた。


「ありがとうございます」

「いや、別に元手は掛ってないし、貰ってもらえて助かるよ。そんなお礼を言われてしまうと逆に申し訳ない」


友哉がひらひらと手を振る。話が一段落したところで、一姫が青に訊いた。


「で、アオは結局何しに来たんだ?」

「あ、そうだった。母さんがおやつ用意したから姫を呼んで来いって」

「なんだ、アオ。そういう大切な事は早く言え。お前先に帰っていろ」

「え、なんで?」

「まだ友哉さんと話がある。だから帰れ」


 しっしっと虫でも追い払うようにあしらわれた青が顔を歪める。気を取り直して青は友哉に別れの挨拶をして歩き出した。しかし少し遠ざかったところで立ち止まり、照れくさそうに振り返る。


「あの、ご本人に言うのもなんですけど、元杉さんって、あれだけ噂されてるからどんな人かと思ってたけど、意外に普通の人、っていうか良い人みたいで驚きました」


青の言葉に、友哉がぱちぱちと瞬きをする。


「本当に? それは良かった。じゃあ、これからも遊びに来てもいいかな?」

「はい。もちろん。よろしくお願いします」


青が頭を下げると、こちらこそ、と友哉も頭を下げた。


「おい、姫。あんまり失礼な事するなよ」


最後に一姫に釘を刺して、青はこんどこそ去っていった。青が拝殿の角を曲がって見えなくなった後、一姫は友哉に向き直った。友哉も一姫に視線を落とす。


「話って?」


友哉が問い掛ける。


あおいも友哉さんの事気にいったみたいだ。毒にも薬にもならない奴だけど、よろしくしてやって」

「ああ、もちろん。こちらこそ。ところで一姫、話し方が最初と大分変ったね? まるで一姫の方が保護者みたいだ」

「仕方なかろう、こっちが地だ」

「初めは猫をかぶってた?」

「だって、いきなりこんな話し方で声をかけたら可笑しいだろう?」

「まあ、確かに子供っぽくは無いよね。でも一姫は今の方が似合うと思うよ。本当にお姫様みたいだ」


にっこりと笑う友哉に一姫が黙る。少し考えるようなしぐさで頷いた。


「なるほど、友哉さんに女が寄ってくるのが分かるな。アオも見習えばいいのに」

「え、何で?」


友哉がきょとんとしている。どうやら意外と無自覚であるようで、一姫の真意は友哉には伝わらない。


「いや、何でも。それより、名前も呼び捨てでいいか?」

「構わないよ。俺も一姫のこと呼び捨てだし。それより、話って青くんの事だったのかな?」


友哉がぽんぽんとクマの頭を叩く。一姫は拝殿の外回廊に座り、その前に立つ友哉との距離は意外と近い。


「違う。ぬいぐるみの礼に良い事を教えてやろうと思ってな」

「良い事?」


首を傾げる友哉に一姫がふっと息をつく。


「恋をすることが人間の価値でも幸せの尺度でもないよ。恋愛をしていても寂しい者はいるし、恋愛をしなくても満たされている者もいる。しかしそれすら私から見れば皆ただの人間だ。誤差程度の違いだよ」

「その言い方、一姫は人間ではないみたいだね」

「最初から千六十五歳だと言っているだろう」

「そうでした」


友哉が小さく笑う。その笑いが収まったのを見届け、一姫が続けた。


「まだ若いから解らぬだろうが、孤独は気づかぬうちにその身を浸食していくものだ。独りで生きていくには人より努力が必要だぞ。それだけは肝に銘じておけ」

「それが、良いこと?」


理解は出来るが、納得は出来ない、と言ったところか。拗ねたように友哉が問い返す。一姫がゆっくりと微笑んだ。


「私は生涯誰にも恋をせず、けれど幸せに死んでいった人間を知っているよ。それの身内は誰ひとり居なかったけれど、友人とその家族に囲まれて死んだ」


クマに顎を乗せて一姫が友哉を見る。


「たくさんの人間に見送られても、人は死ぬ瞬間は独りだ。でも本当に最後の最期まで笑っていた。その『瞬間』を幸せなまま迎えられたということは、人としてこれ以上の幸福はないだろう?」


夢見るように語るその口元は柔らかな笑みを結んでいる。翳りのないその瞳は死者の話をしているようには見えない。


「すごく素敵な人だったんだろうな。一姫もとても幸せそうだ。その人のこと大好きだったんだね」


目を細めて、一姫が笑う。


「そうだな、愛していたよ。私の、誇り、だ」

「……なるほど。愛している、ってこういう時に使うんだ。羨ましいな。俺もそんな風に言われてみたい」


一姫が手招きする。耳を貸せ、という合図に友哉が顔を近づけた。


「お前が息を引き取るその瞬間まで幸せに笑っていたなら、同じように言うよ」

「それは、難しいかも?」

「若いんだから努力をしろ。さっき言ったばかりだろう」

「はは、手厳しいなぁ。でも、そうだね、」


ふと真顔になって友哉が言葉を切る。ほんの少し考えてから、友哉は一姫の右手を取った。


「お姫様の仰せのままに」


優雅にお辞儀をした友哉に、一姫が目を瞬く。少し遅れて吹き出した一姫に、つられて友哉も笑った。二人でひとしきり笑いあった後、ひっそりと指切りをした。

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