第20話 去にし辺 終わりとはじまり -1

※残酷描写を含みますのでご注意ください。この話を読まなくても物語上は問題ありません。


 苔の広がる幹、光を遮る様に枝を伸ばした木々が並ぶ、鬱蒼、と呼ぶに相応しい森の中、一人の少女が座っていた。目を閉じた彼女は数時間、その体勢を保っている。数人の男に連れられて来たその少女は、華やかさとは無縁だが小綺麗な着物に包まれていた。男達の薄汚れた衣類と比べれば随分と豪華だと言える。すでに日は暮れ始め、辺りは暗い。遠く獣の声が響き、少女は僅かに肩を揺らした。


「娘、何故逃げんのだ?」


 がさりと茂みが動き、声が聞こえた。金色に光る眼が暗闇の奥から覗く。


「貴方が、この森の主様ですか?」


少女は怯える様子もなくその光る瞳を見据えた。少しの沈黙の後、茂みの奥からその姿が現れる。小さな獣だ。


「私、主様が狸だとは知りませんでした」


目を丸くした少女に、狸が息を吐いた。人であれば溜息をついたというところだろう。


「これは、仮の姿だ。我はこの土地の力の塊。決まった形は無い。故に、お前に分かりやすいように獣の体を間借りしておる」

「形が無い、とはどういうことですか?」

「言葉の通りだ。説明してもわからんよ」

「そうですか」


少女が相槌を打つ。狸はそれ以上説明する気はないようで、低く鼻を鳴らした。


「それより男どもはとっくに帰っただろう。何故お前はここにいる?」

「それは、主様に食べてもらうためです」


笑みを浮かべて言った少女に、狸がもう一度呆れたように息を吐いた。


「期待を裏切って悪いが、我に雨を降らす力などないぞ」


 先ほど男たちが叫んでいた。村一番の美貌の女と引き換えに雨を降らせて下さい、と。要するに少女を生贄とした雨乞いだ。ここ数カ月まとまった雨が降っていない。人々は水の不足と作物の不作に怯え、周囲の村では死者も出ている。遠く風に聞く噂では都の貴族の庭の池まで干上がったという話だ。


「村の人達がこの森が枯れないのは主様が雨を降らせているからだと言っていました」


長く続いた日照りで、地面がひび割れはじめている。しかしこの森だけは今も青々と葉を茂らせ、空気も湿り気を帯びている。人々が何か特別な力が働いていると思うのも無理はない。


「この土地の下には広く水脈が巡っている。森に必要な水はそれで賄われているだけだ。我が何かしているわけではない。それに根の浅い下草にはこの森でも影響は出始めている」


少女が辺りを見回すと、下草には色が変わり始めた葉が混じっていた。森の外の草木の立ち枯れが酷くて気付かなかったが、確かにこの森にも干ばつは迫っているようだ。


「そうなのですね」


考え込んで俯く少女に、狸は踵を返した。


「わかったなら、早く出て行け」


それだけ言葉にすると、狸は茂みの奥へと消えた。




 頭に何かが当たる感覚に少女は目を覚ました。空は白みはじめて木々の隙間から弱い光が差し込んでいる。起き上がって辺りを見回すと、桃色の実が落ちていた。熟したそれは甘い香りを放っている。何故こんなものが、と顔を上げると、視線の先には大きな鹿がいた。驚いて身を竦ませる。


「何故まだここにいる。出て行けといっただろう」

「もしかして主様ですか?」


少女の問いに鹿は首を縦に振る。


「何故昨日のお姿と違うのですか?」

「ひとつの動物の体に長く入っているとその動物に負担が掛るからな」

「昨日のお姿は可愛らしかったですが、今日はお美しいですね」

「お前、寝ぼけているのか?」

「思った事を口にしただけですが」


不思議そうな少女に、言及しても無駄だと悟った主は口を閉ざす。少女は桃色の実を指差した。


「あの、この実は?」

「それを食べたら出て行け。腹が満ちれば動けるだろう?」


主は鹿の姿で地に伏せた。どうやら直ぐにどこかへ行く気はなさそうだ。主を横目に見ながら少女は桃色の実を拾う。


「いただきます」


甘い香りが示す通り、少女が今まで食した中で一番甘い実だった。美味しい、と呟いた少女に主がちらりと視線を寄こす。夢中で頬張った実はすぐに無くなった。


「さて、食べたのなら出て行くと良い。こんなところで野たれ死なれてはかなわん」

「あの、」


主がゆっくりと立ち上がる。去ろうとした鹿を少女が呼び止めた。


「私は、貴方に食べて頂くまでここから動きません」

「……お前、実は言葉の意味が分からないのか? 阿呆なのか?」


主がいささか不機嫌に問う。気圧されることなく少女は続けた。


「雨を降らせることは出来ない、というのは伺いました」

「では何故? もうここには用は無いだろう?」

「用はなくとも私は貴方に食べられる為にここにいるのです。今更村には帰れません」


少女の平坦な声に、すっと鹿の目が細くなる。


「阿呆ではなく、狂っているのか?」

「そうかもしれません」


刺すような主の視線を浴びながら、少女は静かに頷いた。

 太陽は完全に顔を出したようで、辺りは随分と明るくなった。差し込む光に少女は目を眇める。ひたりと主を見据えるその瞳は狂っているようには見えない。


「主さ、」

「黙れ」


少女が何か言いかけたのを、主が止めた。主は森の一点を見ている。

 程なくしてがさがさと葉擦れの音が聞こえた。次第に音は大きくなる。すぐに数人の男達が姿を見せた。中年の男が三人に、青年期の男が一人。年嵩の三人は昨日少女を連れて来た人間だ。青年は昨日はいなかった。


「いち様」


年嵩の一人が少女に呼びかける。


「主様は現れましたか?」


少女がちらと目線だけを鹿に移動する。


「残念ですが、まだお会いしておりません」

「そうですか。その鹿は?」

「わかりませんが、先ほど寄ってきました」

「なんと! さすがいち様、やはり我々とは違う力をお持ちなのですな」


鹿が人に懐くことなど早々ある事ではない。中年の男達が驚く。その中で年若い男だけが思いつめた顔をしていた。少女の言葉に彼だけは不快そうに眉を寄せる。


「本当に主なんているのか?」


青年の声に、少女の顔が少しだけ曇る。しかしそんな少女に気付いた様子は無く、中年の男たちは青年を怒鳴りつけた。


「おい、滅多な事をいうものではない!」

「そうだ、主様に聞かれたらどうするんだ」

「村の命が掛っているんだぞ。少しは自覚しろ」


非難を受けて、青年が口を噤む。しかし彼の視線は少女に向いている。少女は少し微笑んで青年と男たちに話し掛けた。


「雨を降らせて頂くのが私の務めですから」


年嵩の男たちが満足そうに頷く。青年だけが辛そうに顔をそむけた。少女の指先は態度とは裏腹にわずかに震えている。

 しばらくして男たちが帰っていった。青年は何度も振り返ったが、少女はその視線に答える事は無かった。静寂の戻った森に少女が息をついた。


「お騒がせして申し訳ありません」


少女が主を見上げる。二度ほど目を瞬いて鹿はその場に伏せた。


「娘、お前は高い身分なのか?」


男たちの薄汚れた身なりからして裕福な村には思えない。そのわりに少女の話しぶりは聡明だ。整った容姿も相まって貴族の娘だ、と言われても納得できる。


「私は村の巫女として暮らしていました」


巫女とは神の声を聞く者、神に近しい者だ。年若い少女に向ける男たちの妙に丁寧な態度も頷ける。


「ならば雨を降らす神などいなかったと言って村へ帰ればいいだろう」

「帰る場所などありません」

「何故だ? お前はそれなりの力を持っているから巫女になったのではないのか? その力は重用されるだろう」

「巫女は、両親を亡くした村の娘から選ばれます。特別な力などありません。『いち』という名も一番目の巫女、というだけの事。私がいなくなれば他の巫女が『いち』になります」

「要するに口減らしか」


人口抑制、食物確保のための間引きは珍しくない。巫女の名のもとに、災害時に人身御供として神へ捧げる。神への供物にもなり、村人の食料も節約できる。まさに一石二鳥の存在という訳だ。少女は答えなかったが、否定もしない。


「あの、若い男はいいのか?」


 中年の男達とは明らかに違う態度で少女を気にしていた。少女はほんの少し笑みを引く。


「あの人は両親が亡くなる前に隣に住んでいた幼馴染で、巫女になってからも何かと良くしてくれました。ですから彼に迷惑を掛けない為にも戻るわけにはいきません」


ここにきて少しだけ少女の目に明るい光が宿る。主は鼻を鳴らした。


「娘、どうあっても帰らぬと言うのならここにいるがいい。望むならお前を食べてやろう」

「本当ですか?」

「ああ。ただし、条件がある。我は暇でな。我が満足するまで楽しませろ。そうした後、お前を食ってやろう」

「楽しませるって……何をしたら良いですか?」

「さあ、それは自分で考えるといい」


少女が眉を寄せる。それを横目に、主は森の奥へと帰っていった。

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