第19話 夏の面影 -3
自分が、と手を上げた
「おい、青。どういうつもりだ?」
一姫が名を「あおい」と正しく呼ぶのは深刻な時だけだ。それは青も良く分かっている。普段であればそれだけで挙動不審になる青が、今はただ黙って一姫を見つめ返した。ベッドに背を預け床に座っている。
部屋からベランダに続く大きな窓は開け放され、部屋の緊迫した空気とは裏腹に穏やかな景色を見せている。空の端に夕暮れの茜を覗かせていた。
「どういうつもりもない。ただ、反対って言っただけだ」
「理由は?」
「言えない」
「なんで?」
「なんでも」
ふいと青が視線を逸らす。無意味なやりとりに一姫は息をついて、ベッドの端に腰を掛けた。一姫とて理由も無く青が反対をしているとは思わない。言えないと言うのならばそれも良い。しかしあくまで理由を話さないつもりであるならその青の意見を尊重するかはまた別の話だ。一姫の一存で夏月を住まわせることも可能なのだ。
「いきなり家に他人が住むとなれば反対という意見もあるだろう、別にそれは良い。そうではなく、わらわはあの態度がどういうつもりだと聞いている」
夏月は水気の増した瞳を見えないように必死で隠していた。ひとり、理由も解らぬまま人とは違う時を生きてきたあの娘が傷つかなかったはずがない。今までも何度も同じように涙をこらえてきただろう。
「お前は夏月が嫌いなのか?」
「別に、嫌いじゃない。そもそも好き嫌いを語るほど知らないし」
青の顔は窓の外に向いているが、一応は会話をする気はあるらしい。
一姫は手を伸ばして床に座る青の髪を引っ張った。小さな悲鳴と共に青が顔を向ける。ようやく重なった視線に、髪を握る手を緩めた。
「ならばあのお前の態度は、夏月に対する正当な評価では無いな。周囲の人間の無理解と否定される虚しさはお前だって良く知っているだろう?」
人とは違うものが見える、それだけで青は小さなころからうそつき呼ばわりされていたのは一姫も知っている。今更その傷を掘り返すつもりはないが、だからこそ青のあの態度は解せない。すでに髪を掴む手は離れているのに、青の顔が歪む。俯いて黙り込んだ青に、一姫はもう一度息をついた。
「お前が、お前の理由で夏月の同居を拒否するならそれで構わない。ただ、ちゃんと消化して、論理的に反対しろ。それが出来ないうちはお前の意見を取り入れてやる気はないぞ」
ぽんっと軽く青の頭を叩く。一姫は振り返らずに青の部屋を後にした。
どんよりと雲が掛っている。天気予報は薄曇りで雨はないでしょう、と話していたが予報に反してすぐにでも雨が降り出しそうだ。気温は少し低いがその分湿度が高く、じっとしていても汗が出る。夏月は額に浮かんだ汗を拭いながら境内に向かって歩いていた。
幸子の時々遊びに来たらいいわ、の言葉通りに家に誘われたのは良いものの、逃げるように帰った手前顔を出し辛い。一度はやんわりと断ったが、夏月の都合に合わせる、と言われてしまえばそれ以上拒否は出来なかった。
幸子は、青のことなら大丈夫、と請け負ってくれたが、何がどう大丈夫なのか詳しい説明は無かった。
「青は、バイトで居ないの」
出迎えてくれた幸子が言った。申し訳ないと思いつつも、正直ほっとする。いきなり他人が家に住む、と言われたら誰だって拒否をする。それは夏月も理解している。しかしあそこまであからさまな反感を示されると少し堪えた。やはり顔を合わせるのは気まずい。
ただ青以外の人たちは歓迎してくれているのが分かった。幸子と
それが昼過ぎの出来事だ。今は午後五時を回っている。なんだかんだ長居してしまい話し疲れた口の筋肉を解すように両手で頬を包む。母親がいなくなってからこんなに話したのは久しぶりだ。二、三度ぐいぐいと頬をひっぱってその手を離した。
境内に入ると
御神木の化身だというこの染若という青年は普通の人間にしか見えない。今も整った顔に人好きのする笑みを浮かべている。何の用でしょうか、と訊ねるよりも先に染若が口を開いた。
「わざわざ寄っていただいてすみません」
穏やかな口調につられて夏月も笑みを返す。
「申し訳ないのですが、ちょっとついて来て頂けますか?」
それだけ言って、染若が歩き出す。
「あの、なんですか?」
後について歩きながら、夏月が疑問を口にする。染若は答えない。神社の関係者であるから危険はないだろうが少し不安になる。拝殿の裏まで歩いて、染若が足を止めた。夏月は奥に見える人物に気付いて息を飲む。涌永家の長男、青がそこに居た。
「青、お連れしましたよ」
染若が言うと、拝殿の階段に座っていた青が立ちあがった。じゃりっと玉砂利が音を立てる。夏月が緊張に息を飲むと、それに気付いた染若が微笑んだ。大丈夫ですよ、と優しく囁かれた声にぎこちなく頷く。
笑みを残して染若が踵を返した。立ち去る背中に思わず声が漏れる。
「あのっ」
「染若、悪いな。ありがと」
後ろから青の声が聞こえる。いいえ、と振り返らないまま染若の声だけが返って来た。
「
背後からの声に、仕方なく振り返る。青と目が合い、思わず肩が揺れた。
「あ、えーと、青さんはバイトで留守だって聞いていました」
誤魔化すように、慌てて言葉を紡ぐ。
「バイトは二時間前に終わってます。でも母さんたちに聞かれたくなかったから、染若に吉峰さんを連れてきてもらうように頼んでここで待ってました。驚かせてすみません」
気まずそうに視線を泳がせた青のTシャツの襟元は汗で湿っている。この蒸し暑い中わざわざ二時間も外で待っているとはただ事ではない。
「あの、何か御用でしたか?」
恐る恐る声を掛けると、青が口を一文字に引き結んだ。何か言われるのかと夏月が身構えると青が動いた。
「先日は、すみませんでした」
最敬礼、とも言えるような深さで頭を下げる青に、夏月はぽかんとその後頭部を見下ろす。驚くのも忘れて思考が停止した。
「あー、ええっと、何ですか?」
状況についていけないまま、とりあえず訊くと、青が顔を上げた。
「この前、俺すごい態度悪かったから、謝ろうと思って。一姫にも怒られたし……」
「一姫に」以降だんだんと小さくなる音量と、申し訳なさそうな顔はまるで先生に叱られた子供のようだ。何度か目を瞬いた後、つい吹き出す。笑っては悪い、そう思うがなんとも可愛らしい。夏月が笑ったのに気付いたらしく、青が顔を赤くした。
「あの、とりあえず座って話しませんか?」
血行の良くなった顔を隠すように、青が言う。拝殿の張り出した床の階段に青が腰を掛けたので、夏月もそれに続いた。座った視線の先には枝を大きく広げたもみじの木がある。
「このもみじ、綺麗ですね。秋は紅葉しますか?」
特に、他意はない。ただ何か話した方が場がほぐれると思ったから、もみじの葉を見て言っただけの夏月に、青が驚いたように振り向いた。じっと夏月を見つめる。
「えっ」
その青に、こちらも驚きの声を上げる。我に返ったような青が、すみません、と呟いた。
「あの?」
明らかに様子のおかしい青に夏月が疑問を投げる。
「いや、本当になんでもないです。すみません」
弱々しく首を振る青は、とてもなんでもないようには見えない。しかし話したくないのであれば問い詰める訳にもいかず、夏月も口を噤んだ。気まずい沈黙が降りる。
「……似ているんです、知り合いに」
「ごめんなさい、何て?」
無言の空間に耐えられず、夏月が必死で話題を探していると、囁くように青が言った。聞き取れずに夏月が問い返す。青が膝を抱えた。小さな子供の様だ。何とはなしに夏月はその姿を目で追う。
「吉峰さんが、似てると思ったんです。昔の知り合いに」
「えっと、それはその知り合いさんが嫌いだったってことですか? その人に似てる私が嫌だった?」
要領を得ない青の言葉を、夏月なりに解釈して尋ねる。他人の空似だというのならとんだとばっちりだが、顔を見るのも嫌なほど似ているというのなら一緒に住むのが辛いのも理解できる。
「いや、仲は良かったです。ただ、もう会えません」
「会えないって、それは遠いから?」
青が静かに首を振る。その動作に、全てを察した気がしたが、でもここで引き下がってはまた誤解が残る。先ほどからの青の様子に少なくとも彼が冷徹な人間では無い事は分かった。だからこそ、その先を言葉にするのは少し辛い。
「亡くなったのですか?」
ほんの少し間を置いて青が頷く。先ほどまで赤かった顔が嘘のように、青は無表情に前を見据えた。感情の抜け落ちたその顔が逆に内側を物語っているようだ。
「その人は、恋人?」
どこまで踏み込んで良いものか迷う。ただ夏月の問いに青が気分を害した様子は無い。
「俺は友達だと思ってた。けど、思い出すとこんなに……胸が痛い。あいつは俺の事を好きだって言ったし、俺も好きだった。だから、違うのかも」
「恋人では無くても、素敵な両想いだったんですね」
素直に声が漏れた。これまで誰かと深く付き合う事を意図的に避けていた夏月に、胸を掴まれるようなそんな感情は無い。会えないと苦しむ青には申し訳ないが、少しだけ羨ましく思う。
「さっきから笑おうと、思ってるんだけど、上手く出来ない。すみません」
顔を伏せてしまった青の表情は窺えない。泣いてしまっただろうか、と思うけれどしゃくりあげる声は聞こえなかった。
また、沈黙が落ちる。少し強くなってきた真夏の湿った風が、目の前のもみじの葉を揺らす。濃い緑色が綺麗だ。晴れたら日に透けてもっと美しいだろう。こんな立派なもみじが、拝殿の裏にひっそりと立っているなんて勿体ない。
「ねぇ、青さん。私、どうしたらいいですか?」
「どうしたらって?」
「私、もう来ない方が良いですか?」
青が顔を上げる。その頬にはやはり涙の跡は見えない。
「来てください。もしかしたら俺は上手く笑えないかもしれないけど。吉峰さんがそれでも良かったら、歓迎します」
笑おうと、したのだろう。青の口元が笑みの形を作る。ただ、少し眉間にしわの寄った微妙な顔だ。でも夏月にはそれで充分だった。
「ありがとうございます」
心からの礼を込めれば、青は静かに首を振った。
いつか青に笑顔を向けて貰える日が来たら、その時は自分に似たその人がどんな人なのか尋ねても良いだろうか。さわさわと風に吹かれるもみじの葉を眺めて思った。
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