第21話 去にし辺 終わりとはじまり -2

 楽しませろと言われたものの、太陽は真上に昇っているのにいまだ妙案は思いつかない。少女が困っていると、かさりと葉の揺れる音が聞こえた。柔らかそうな大きな尾と丸い目が可愛らしい小さな動物だ。口に黄色い物を咥えている。しばらく警戒するようにこちらを見ていたが、少女が動かない事に安心したのかゆっくりと近づいてきた。


「あの」


 少女が声を掛ける。動物は全身の毛を逆立てて、すぐさま森の奥へと走って行った。主が来たのかと思ったが、違うようだ。草の上には小さな黄色い果物が残されている。拾い上げると、厚い皮の柑橘だった。


「食べて、良いのかな?」


動物があえて人に近づいてくることなどしない。これは主が持って来させたもののように思う。しかし勘違いなら食糧を横取りするようで申し訳ない。だが早朝に甘い果物をひとつ食べただけの体は水を欲していた。少しの迷いのあと、少女は黄色い皮に爪を立てる。食欲を刺激する甘酸っぱい匂いにきゅうと胃が収縮した。

 それから一日に数度、様々な動物が木の実を持ってきた。小さな動物がひとつ咥えてくることもあれば、大きな動物が複数落としていくこともある。そうして三日ほど過ぎた時、がさり、と大きな音を立てて茂みから獣が現れた。

 音の元に目を向けると、大きな狼が顔を出した。距離を測るように立ち止まって、じっと見つめてくる鋭い瞳に緊張が走る。掌をぎゅっと握って見つめ返すと、狼がまるで溜息をつくような息を吐いた。その様に少女は主であると気付く。


「本当に、帰る気はないのだな」

「そう言っています」

「では、我を楽しませる方法は見つかったのか?」

「……それは、まだですが」


少女の目が泳ぐ。数日考えているが、やはり良い案は浮かばない。


「貴方の事を、聞かせていただけませんか?」


少女の提案に、狼が目を丸くする。その表情が思いのほか可愛らしく、少女は内心で笑みを浮かべた。


「私は、主様の事を知りません。何をすれば楽しんで頂けるのか、貴方の事を知れば分かるかもしれませんから」

「話してやれるような事は無いぞ」

「そうですか?」


主からの返事はない。その代わり、向き合っていた狼がくるりと体の向きを変えた。


「本当に帰れなくてもいいのなら着いて来い」


それだけ言い残して、主は森の奥へと入っていく。一度だけ村の方を振り返り、少女はその後を追った。




 がさがさと、下草を揺らして歩く。獣道さえ無い森の中を歩き続けて随分経つ。主は狼の姿で軽快に進んでいく。深い森で少女がはぐれていないという事実が、主がそれなりに気を使って歩いている証拠だ。

 村を出るときに与えられた白い着物は見る影もなく、砂埃に汚れている。むき出しの手足には枝や草で切り傷が出来た。張り出した枝によってまた新たに加わった傷に顔を歪めると、狼が足を止めた。


「少し休むか。人の足には辛いだろう」

「平気です」


少女が疲労しているのは顔を見れば明らかだ。人の体には堪えるのは主も承知している。狼はひとつ瞬いて、その場に座り込んだ。主が休息の体勢になったのに少女が安堵の息を吐く。


「先ほどのお話の続きですが、主様の事、ひとつわかりました」


草の上に腰を落ち着けた少女に、狼が顔を向ける。重なった視線に少女は口の端を上げた。


「主様は、お優しい事がわかりました」

「……何を言っているんだ?」


意味が分からない、そう言いた気な主の声に、少女の笑みが深くなる。


「分からないなら、良いです」


ふふ、と軽やかに笑った少女を、狼は訝しげに見つめていた。




 休憩を終え、再び歩き始めてからどれほどの時間が過ぎただろうか。今、主とはぐれたら命はないだろう。そんな事をぼんやりと考えていると、急に視界が開けた。


「……え」


そこには小さな湖が広がっていた。湖、というよりは池と言った方がしっくりくるだろうか。水は波紋が無ければ気が付かないのではと思う程に澄んでいる。鬱蒼とした森とは対照的に、降り注ぐ陽光の反射で煌めく水面に少女は目を細めた。


「これ……は?」


少女が湖岸に屈む。手を入れると、放射状に広がる波紋で湖底の石がゆらゆらと歪んで見えた。


「喉、乾いているだろう? 飲むと良い」


促されて、掌で水を掬う。口を付けると少女が今までに飲んだどの水よりも臭みが無く透明だった。掬っては飲み、掬っては飲む、を繰り返す。随分と体は水を欲していたようだ。


「本当に美味しいです!」


興奮して話しかけると、主は満足そうに目を細める。


「ここは地中から水が湧き出している。澄んでいて美味いだろう」

「すごいです。村の井戸は枯れかけているのに、こんなに水があるなんて」


ぱしゃぱしゃと指先で水を遊ばせる少女に、狼の耳がぴくりと動いた。


「娘、」


 呼びかけられた声に、不穏なものを感じて少女は手を止める。


「ここは動物達の水場だ。お前一人が加わったところで水が枯れる事は無い。だが、村の人間に教えようなどとは思うなよ。ここにも日照りの影響は出ている。湧き出す水の量が減っている。お前の村の人間まで潤す水は無い」


まるで獲物を狙うように低く喉を鳴らす狼に、少女は身を固くする。嫌な汗が背中を伝った。


「……は、い」


掠れる声で返事をすると、主は興味を無くしたようにそのまま森の奥へと消えた。




 湖の周囲には初めに貰った桃色の実のなる木があった。ひとつもぎ取って口に運ぶ。甘い、そう思うのにどこか味気ない。小さな物音に振り返ると大きな尻尾の動物が顔を出していた。声を掛ける間もなく一目散に逃げて行く。少女は小さく息をついて木の下に腰を下ろした。

 一晩、二晩を少女はそうして過ごした。水を飲み、果物を食べ、座る。もう動物達は少女に果物を運んでこない。動物達は時々姿を見せるが、警戒しているのかぴりぴりした空気が伝わってくる。少女は刺激しないように息を潜めるほか無かった。

 こうして森の中で過ごした数日間にも、やはり雨は降らない。一度だけ薄く広がった雲が霧の様な雨を降らせていったが、ほんのひとときだ。大地を潤すには遠く及ばない。村ではますます水不足が深刻になっているだろう。

 雨乞いの効果が無かったことを村人たちは怒っているかもしれない。それに比べて自分は飢えも乾きもない生活をしている。それはなんと幸福な事か。そう思うのに気持ちは晴れない。少女は目を閉じて木の幹に背を預けた。


「相変わらずだな」


 ぱきり、と小さな枝を踏む音に、少女は飛び起きた。森の奥から鹿が出てくる。


「主様」


ここ数日まともに声を出していないせいか、思ったよりも掠れた声が出た。


「娘、どこか痛むのか?」

「え?」


主の言葉に少女は自分が泣いていることに気付いた。無意識に流れた涙を右手で拭う。


「いえ、主様はもういらして下さらないと思っていたので安心しました」

「何故そう思ったんだ?」

「先日嫌われてしまったのかと思いましたから」


主に心当たりは無い様で、首を捻る


「お前は嫌われるような事をしたのか?」

「先日、村の話をした時にすぐに帰ってしまわれたので」

「ああ、それは器の狼に長く入っていたからだ。ひとつの獣に長く入ると負担になる」

「そうなのですか?」


少女は安堵の息をつく。反対に主は呆れたように言った。


「お前、そんなことを気にしていたのか?」

「すみません」


少女が気恥ずかしそうに俯くと、主はわかりやすく溜息をついた。


「勝手に勘違いして勝手に泣くな。我はお前をそれなりに気に入っている。そうでなければこんなところまで連れてきたりはしない」


主の言葉に目を丸くした少女はしばらくしてゆっくりと微笑んだ。




 湖の畔で顔を洗っていた少女は、何かに気付き顔を上げた。振り返った先には朝霧が立ち込める森が広がっている。早朝の弱い光と夜の闇が融け合って、いつもより奥深く感じる。ただ、それ以外にも感じる違和感に少女は目を細めた。上手く表現は出来ない。見渡す限り特別なものは無いのに、けれど何かを感じる。嫌悪感や不快感は無い。温かささえ感じるそれに自然と口から零れた。


「主様……?」


その小さな声は、それでもしっかりと拾われていたようだ。


「何故、わかった? 今は器に入っていないから人の目には映らないはずだ」


驚いた声が聞こえてくる。耳元という程では無いが、近くの木で囀っている鳥の声よりは近い。手を伸ばしても何にも触れないが、確かに存在している確信はあった。


「気配と、いうのでしょうか。上手く言葉には出来ませんが、主様がいらっしゃるような気がしました」


かすかに大気が揺れる。目に何かが映る訳ではない。けれど小さな刺激で水面に波紋が広がるように、空気が振動している気がした。


「見事だな、娘。本当に巫女の素質があるのではないか?」


面白い、そう言って揺れる楽しい空気が伝わる。何かがふわりと頭をかすめた気がして少女は頭に手を触れたが、やはり何も無かった。

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