第17話 夏の面影 -1

 雲ひとつない密度の濃い青い空と、太陽に感情があるならば気合い十分というガンガンに照った日差しに、ミーンミンとどこからか聞こえる蝉の声が重なる。まさに『夏』と叫びたくなる猛暑だ。

 ここ、和久永神社わくながじんじゃでもあまりの暑さに境内に人影は無い。あけ緋をはじめ、池の鯉たちも涼を求めて水底に潜っている。動く者の無い神社はまるで廃墟のように静まっていた。

 その静寂を破ったのは水色と白のストライプの日傘の少女だ。長めのショートカットの黒髪で、二重の大きな瞳と小ぶりな鼻はバランス良く配置されている。しかし俯きがちな視線がその魅力を半減させていた。十代後半に見えるその少女の手には小さなメモが握られている。少女は日傘を畳んで形式的な参拝を済まし、きょろきょろとあたりを見回した。



 お守りと匂い袋の並べてある小窓をコンコンと叩く音に、社務所の中の涌永空わくながそらは顔を上げた。窓の外に人影がある。立ち上がってエアコンの冷気を逃がさないように閉じていた窓を開ける。途端にむわっと熱い空気が流れこんだ。息の詰まるような熱に思わず顔を顰める。はっと気付いて窓を見ると、窓を叩いた少女にばっちりとその顔を見られていた。


「あ、ごめんなさい。今日暑いですね~」


はは、と嘘っぽく空が笑う。幸い少女は気にした風は無く、そうですね、と穏やかに返した。


「すみません、一姫さんはいらっしゃいますか?」

「え?」


その質問に空が目を丸くする。一姫の存在は、神社の関係者とあやかしの類しか知らないはずだ。近隣住民でさえ知らない一姫の事を、初めて会う人間が知っているのは可笑しい。


「ごめんなさい。こちらの神社だと思ったのですが、もしかして間違いでしたか?」


空の反応を見て、少女が慌てる。手にした小さな紙を確認する少女に、空はそれを見せて貰った。間違いなく和久永神社の住所と一姫の名が書いてある。空は少し悩んで、少女に名前を訊ねた。


「え……と、吉峰よしみねと申します」


戸惑いがちに少女が答える。少女の不安気に寄った眉に、空は、ごめんなさい、と一つ声を掛け、社務所の電話から一姫の携帯にかけた。


「あ、もしもし。お客さんが来てるんだけど」


何度目かの電子音の後に、一姫は電話に出た。吉峰の名前を出すと、直ぐ行く、と弾んだ声で一姫が通話を切る。


「すみません、一姫は今から来るみたいです。えっと、中へどうぞ?」


暑い、を通り越して「熱い」外で待っていて貰うのは気が引けて、空が社務所のドアを開ける。知らない人を入れるのはどうかとちらりと思ったが、一姫の知り合いだし問題はないだろう。

 少女の方も少し戸惑ったようだが、社務所に居るのが小学生の空だけなのを確認して、いくらか安心したのか遠慮がちに入って来た。


「一姫とは、どういう知り合いですか?」


畳に座った少女に、空が声を掛ける。親族以外で一姫の事を知っている人間には会った事が無い。好奇心で空が尋ねると、少女は困ったように笑った。


「私もよくわからないんです。母から一姫さんを訪ねる様に言われているだけなので」


少女は本当に困惑した様子で、これ以上訊いても話は進みそうにない。空は素直に一姫を待つことにした。

 それからすぐに一姫がやって来た。窓ガラスが軽く叩かれて、空はドアを開ける。一姫はパウダーピンクのワンピースを着ていた。母、幸子ゆきこが一姫にと買って来たものだ。着物より涼しいのか、一姫は夏には洋服を着ていることが多い。


「待たせたな、夏月かつき


まるで旧知の仲で有るような一姫に少女は目を瞠る。少女が戸惑っているのを見てとって一姫がカラカラと笑った。


「覚えていないみたいだな。無理もない。なんせ二十年前に一度会ったきりだ」

「え?」

「は?」


少女と、そして隣で聞いていた空から疑問の声が上がる。二人はその声にお互いに顔を見合わせた。唯一状況を理解している一姫が笑う。


「疑問は山ほどありそうだが、詳しい話は後だ。とりあえず自己紹介をしよう。わらわは一姫と言う、そして隣に居るのがこの神社の神主の息子、空だ」

吉峰夏月よしみねかつきといいます。宜しくお願いします」


一姫の言葉に、少女も自己紹介をする。空が、よろしく~、と軽い挨拶をした。


「さて、その様子だと夏月は何も聞いていなさそうだの。奈津子なつこはどうした?」


子供に自分の母親を呼び捨てにされたことに、夏月は少々驚いたようだ。それでも嫌な顔をせずに答える。


「母は三年前に亡くなりました」

「原因は?」

「癌です」


言葉少なに語る夏月に、一姫が、そうか、と短く返事をした。


「母の手紙に、今年の夏にこちらの神社を訪ねるようにと書いてありました。神社の住所と一姫さんのお名前以外、詳しい事は何も。ただ、必ず行くように、とだけ。どういうことでしょうか?」

「奈津子はお前に父親の話はしたか?」


夏月の問いには答えないまま、一姫が質問を返す。夏月が僅かに眉を寄せた。


「私が、産まれる前に行方不明になったとだけ」

「人ではない、とは言わなかったか?」

「……聞きました。その話、本当、なんですか?」


驚きと困惑の入り混じった顔をしている夏月に、一姫が意地の悪い笑みを浮かべる。


「おや、母親の言う事を信じないのか?」

「もちろん信じたいです。でも、妖怪との間に生まれた子が私、なんて言われても簡単には信じられません。父親が酷い人で、私を傷つけないように嘘を言っているのかと」

「嘘だったらもっとマシな嘘をつくだろうよ。それに、夏月は今三十一歳だろう?」

「三十一?」


空が驚きの声を上げる。一度上から下まで夏月を見て、それからまた一姫を振り返った。


「二十一、ではなく三十一? すんごい若くない? 兄ちゃんよりちょっと年下くらいかと思った」

「二十年前会った時に十一歳だったから、今三十一のはずだ。自分でもその外見はおかしいとは思わないか? 小さな時から他の子供より大分成長が遅いはずだ」


前半は空に、後半は夏月に一姫が問いかける。夏月が僅かに眉を寄せた。不快さの覗くその顔は夏月にとってあまり好ましい話題ではないらしい。


「まあ、この現代に妖怪だなんて言われて信じられないのも無理はない。そうだな、実際に見た方が早いか」


言うなり、一姫の姿がその場からかき消えた。

 マジックショーのようにその場には残像ひとつ残っていない。えっ、と小さく声を上げて、夏月が室内を見渡した。簡素なつくりの社務所には畳敷きのこの一部屋しかない。人が隠れられるような場所も無く、一つしかないドアが開閉された形跡も無い。


「どうだ、驚いたか?」


何も、誰も居ない空間から一姫の澄んだ声が聞こえる。


「そうしてると、神様っぽいね、一姫」


空がなにも無い空間に向かって声を掛ける。驚いた顔のまま視線を投げて来た夏月に、空が、大丈夫だよ、と笑った。


「見直したか、空?」


声と共に一姫の姿が現れる。頷く空を満足そうに眺めて、一姫は夏月に向き直った。


「信じる気になったか?」

「いえ、や、はい」


上手く言葉が出ない夏月に一姫がにんまり笑う。


「久しぶりの反応じゃな。この家の者はもうこれくらいでは驚かない。改めて自己紹介しよう。わらわがこの神社の主、早い話が神様ってやつだ」

「神様……」

「そうだ。奈津子がわらわのことを話さなかったのは、お前が父親の事を信じていないのを知っていたんだろう。神様のところへ行けなんて言って、お前が本気にしないのを恐れたんだな」

「そんなこと、」

「ない、と言い切れるか? 神社に行って神様と会ってこい、なんて易々と信じないだろう?」

「うっ」


図星なのかバツが悪そうに夏月が呻く。


「まあ良い。そうやって疑えるのは自分で考えている証拠だ。母の言う事であれば世の条理に外れることでも盲目的に信じるようでは先が心配になる」

「……すみません」


さらりと笑った一姫に、何に対して謝っているのかあいまいなまま夏月が応じた。



 目を閉じて正座した夏月の額に一姫の人差し指が触れる。バチリと静電気が跳ねるような音と光が弾けた。驚いた夏月が目を開く。その時にはすでに一姫の指は額から離れていた。不安気な顔で夏月が一姫を見る。一姫が口の端を上げた。


「これで終わりだ。また二十年後の夏に来れば良い」

「終わり、ですか?」


夏月はまるで理解が及ばない、という顔だ。一部始終を見ていた空も、同じように拍子抜けした気分になった。

 夏月が今日、ここに訪ねた理由。それを一姫が話しだしたのはほんの数分前だ。人と妖怪の合いの子であるという夏月の、妖怪の部分を二十年前の夏に一姫が封印したという。「ぬえ」という力の強い妖の種族である父親の血が強すぎて、幼い夏月は体に変調をきたしていた。

 封印というのは少々大げさだな、人と妖の力のつり合いが取れるように調整しただけだ、とは一姫の言だ。日々が過ぎるうちにだんだんとバランスが崩れてくるから、それを二十年周期で調整し直す必要がある。それが今日だというのだ。

 あまりにも突拍子の無い話で空もついて行くのがやっとだった。妖怪の存在を信じてさえいなかった夏月にはもっと不可解だろう。それも、その「調整」に何かしらの儀式が必要なのかと思えば、狭い社務所の中で、ものの一分も立たずに終わってしまった。夏月が呆けるのも無理はない。


「さて、これで別れてもいいんだがな。折角だからこの家の者に会っていかないか? 晴一はるいち幸子ゆきこが喜ぶぞ。あと、あおいも」

「父さん達はともかく、兄ちゃんも?」

 

 二十年前といえば、空は産まれていないのでともかく、青だってまだ一歳だ。夏月に会ったとしても覚えてはいないだろう。空の疑問に一姫が愉快そうな顔をする。けれど答えは返ってこなかった。


「晴一と幸子っていうのは空の両親だ。あと、空の兄で青っていうのがいる。三人とも二十年前に会っているけれど、覚えているか?」


問われた夏月が視線を泳がせる。けれどその瞳に明確な答えは映らなかった。


「幼い日のたった一日の出来事だしな。思い出すより会った方が早い」


どうする、と問う一姫に、少し考えた後夏月が頷いた。

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