第16話 薄明の月 -4
蝋燭の光量は弱いが、そう広くはない部屋の中は見通せる。そして予想外に人口密度が高い。布団の上に薄墨、その周りに一姫、染若、あけ緋が座っていた。全員人間に見えるが、その実、人ではない。そんな状態を不自然と思わない自分をどうかとも思うが、今更臆する間柄でもないので部屋に足を踏み入れた。
「お前ら、病人の前で酒盛りすんなよ」
先ほど買いに行かされたつまみを肴に、皆それぞれに酒を飲んでいる。正確には樹木の化身である染若は、飲料は飲むが食物は食べない。鯉の化身のあけ緋は雑食なのでなんでも食べる。酒の肴はほとんどが一姫とあけ緋に消費されるだろう。一姫は行儀悪くさきイカを咥えながら、手招いた。
「アオ、お前も飲め」
「勝手に開けてるそれ、父さんの秘蔵の酒だろ? あとでちゃんと謝れよ」
一姫の隣の一升瓶は、頂き物の高級品で父がハレの日に開けようと楽しみにしていたものだ。十二、三歳の少女の姿をしながら一姫は底なしの酒豪だ。既に半分以上消費されているそれは間違いなく今日中に空になる。父の口に入る事は無いだろう。
青は酒に強くないが、めったに飲めない高級品、とりあえず味見だけする事にした。染若に差し出された
「染若まで一緒になってなにしてんだよ」
酒好きのあけ緋は、時々どこからか持ちだした酒で一姫と酒盛りをしているのは知っていたが、染若は普段は飲まない。この家に居る人間と人外の中で一番良識がある筈だが、その彼は青の御猪口に酒を注ぎながら少し申し訳なさそうに笑った。
「薄墨も、体調悪いのに飲んで平気なのか?」
「お前はオカンか。わらわが平気と言ったら平気なのじゃ、とっとと飲め」
薄墨より先に、一姫が答える。一姫が手に持っていた酒を強引に飲まされて、青は激しく咽た。
「これこれ、青は酒に弱いからアルコール中毒になりますぞ。無理は宜しくない」
あけ緋が朗らかに言う。言っている事は正しいがさして青を心配している風ではない。
「ふん、だらしないのぉ」
一姫は反省した様子も無く横目で青を見る。
「お、お前なぁ」
ひくついた喉をなんとか落ち着かせ、肩で息をして一姫を睨みつける。染若はさすが常識人らしく背中を擦ってくれていた。
「ありがとう、青。でも皆は私の為に宴を開いてくれたんだ。あまり怒らないであげてくれないか?」
布団の上で薄墨が笑う。この様子では一姫が強引に宴会を始めたんだろう。まったく病人にまで気を遣わせて碌な事をしない。が、薄墨に怒るな、と言われてしまえばそれ以上言えない。なんだかんだ薄墨も楽しそうなので、青は諦めて宴に参加することにした。
「おい、アオ。起きろ」
頭を叩かれる感触と一姫の声に呼ばれて意識を引き戻す。う、と小さく呻いて目を開けた。何度か瞬きを繰り返し、次第にクリアになってきた視界と思考にようやく自分の状況を思い出した。
あの後、夜中まで飲み続ける面々に呆れながら適当に付き合っているうちに、酔いが回って寝落ちしたのだ。深夜の十二時半までは時計を見た記憶がある。身を起こすと悪酔いしたのか頭の芯が痛んだ。
あけ緋と染若の姿は見えない。明らかに家に置いてあった分以上に乱立していた出所不明の酒瓶も今は無い。おそらく染若が片づけたのだろう。
「うー、今何時だよ」
呻きながら時計を見る。時刻は午前四時過ぎを示していた。まだまごうことなき夜中だ。
「もうちょっと、寝る」
こちらも染若が掛けてくれたであろう夏用の上掛けを引きよせ、再び畳に横になる。
「起きろと言っとるだろうが」
心地よく閉じかけた思考は、強烈な扇子の一撃であっさりと現実に引き戻された。
「痛ってーよ、何なんだ」
ひっぱたかれた頭を摩りながら体を起こす。一姫が顎で薄墨を示した。
寝ている薄墨は明らかに様子がおかしい。もともと悪かった顔色はさらに悪くなり、血の気がまったく感じられない。苦しんでいる様子は無い、けれど生きている様にも感じられなかった。慌てて名を呼ぶ。何度か呼びかけると薄墨はうっすらと目を開けた。生きていることに胸を撫で下ろし一姫を振り返る。
「おい、姫が強引に飲ませるから、やっぱり悪化しただろ」
非難を込めて睨むと、一姫に本日二度目の制裁を食らった。
「ほんに、お前は馬鹿じゃの」
「痛いって言ってる。何度も頭叩くな。もっと馬鹿になったらどうする」
「逆だ、刺激を与えて頭の回転を速くしてやってるんだろうが」
いつものやり取りだが、いつになく一姫の目が怖い。青と話しているのに、細めた目はぴたりと薄墨に固定されている。一姫の所為で悪化したと思うと同時に、一姫がいるから大事には至らないだろう、と軽く考えていた青はようやくただならぬ事態だと気付いた。
「なあ、薄墨はどうしたんだ?」
一姫に尋ねると、薄墨がゆっくりと体を起こした。
「あ、薄墨、辛いなら起きないほうがいいぞ」
「平気だ、青。病気ではない」
「そうなのか? でもすごく辛そうだけど」
青が薄墨の前で膝をつく。目を合わせると微笑んだ薄墨の顔に僅かに血の気が戻った。少し安心したのも束の間、上から一姫の無情な声が降ってきた。
「アオ、結論から言うと薄墨はもう朝まで持たない」
「持たないってどういう、」
「生きられないってことだ、つまり死ぬ」
「は? だって病気ではないんだろ?」
薄墨も肯定するように頷く。話についていけない青は、薄墨を見て、一姫を見て、それからひとつ息を吸った。動揺を隠さない青に一姫が口を開く。
「原因は飢餓による栄養失調、要するにエネルギー不足だな」
「え、薄墨さっき、飯食べたぞ? それに酒も飲んでたよな」
薄墨に粥を食べさせたのはほんの数時間前だ。酒だってそれなりにカロリーは高い。確かに満腹になるほどの量ではないが、飢餓になるほどの少なさでもないはずだ。
「人間の食物では薄墨の腹の足しにはならない」
「それなら、何食べさせればいい? 手に入るものなら買ってくるぞ」
検索すれば二十四時間営業か、朝方まで営業している店が見つかる筈だ。原付バイクでもこの時間ならそれほどかからない。スマホを取り出した青を制して、一姫が首を振った。
「薄墨は、人喰いだ」
「え?」
「人間を、食べるんだよ」
外から聞こえる、遠くの音さえ止まった気がする。静まった室内で薄墨を振り返ると、彼はゆっくりと頷いた。
「人の食べ物は私の糧にはならないんだ。言いだせなくてすまなかった。けれど、粥は美味しかったよ、ありがとう」
「え、あ。うん。どういたし、まして」
「やはり、恐ろしいか?」
途切れがちな青の言葉に、薄墨が尋ねる。薄墨の態度に変化はなかったが、肩の小鳥が気遣わしげに彼を見た。恐怖、よりも驚愕の方が強い。白い肌、柔らかい髪、線の細い体型に綺麗な顔立ちは、とてもそんな危険な存在には見えない。無差別に悪さをする低級の妖と違って知能も高い。ふと、その瞬間疑問が湧いた。
「もしかして薄墨は、人喰いだから封印されてたのか?」
「そうだ」
「なら、なんで封印が解けた時俺を食べなかった?」
「そうだな。言われてみればそうすれば良かった」
薄墨が薄い笑みを引く。
「本当に、そう思ってる?」
青からまっすぐに向けられた視線に、少しの間無言で見つめあっていた薄墨は顔を伏せた。それから小さく息を吐く。
「昔、私には
はるか遠くを見つめるような瞳は切なげに揺れている。でもどこか嬉しそうにも見えた。
「その二人と出会ったことで、私は人に『心がある』事を知った。そうしたら人間を食べられなくなった。息の根を止めようとする一瞬にどうしても力が抜けてしまうんだ。けれど鷹晴が、人を食べなくなった私を生かそうと気に病んで、そうして壊れてしまった」
「壊れた……?」
「襲ってきた賊を殺した。それ自体は治安が悪かったから珍しくはない。ただ、その死体を私に食べさせようとして捕まった。本来は争いを好まない理知的な人間だったのに」
ふと、薄墨の視線が動く。今はカーテンの引かれた窓。その先にあるのは小さな庭だ。口元に微かな笑みが浮かぶ。
「秋良が私を封印したんだ」
カーテンの向こうに見つめるのは、おそらく花壇の花だ。千日紅を前にして聞いた話は、二人のうちどちらかの言葉だろう。千年生きろ、そう言われて、本当に千年生きたと薄墨は笑った。
「薄墨は、人喰いだから封印されたんじゃなくて、人を食べないから封印されたんだな」
封印は、薄墨を生かすための苦肉の策だったに違いない。そうして幸か不幸か封印は破られないまま薄墨は千年を生きた。皮肉にも友人のいない現代までこうしてひとり生き残ったのだ。
「なあ、姫。どうにか出来ないのか?」
「無理だ。わらわは人間の信仰、人の思いによって力をつけた存在だ。人間を守るためのこの力は、人と相容れない薄墨にとっては毒にしかならん」
「でも、放っておくわけには、」
「無理だと言っている。ならお前が喰われてやるか?」
食い下がった言葉に重ねられた一姫の声には容赦がない。けれど返す術はなかった。犠牲となる人間を用意することも出来なければ、そもそも薄墨自身が人間を食べる事も出来ない。
「ごめん」
自然と口から洩れた。薄墨が笑う。
「なんで、青が謝るんだい?」
「わからない」
食事を用意できないから、犠牲になれないから、封印をといたから、見殺しにするから、すべてが理由のようでどれも違う気がする。ただ言えるのは、死なないでほしい。けれどその方法が何一つ思いつかない。
「わからないけど、ごめん。今度は死んでしまうって知っているのに何も出来ないなんて、」
―――悔しい。
泣いてはいけない、そう思うのに思えば思うほど目頭が熱くなる。隠そうと思って俯いた頭に薄墨の手が乗った。子供をあやすように撫でられる。パタリ、パタリ、小さな音と共に畳に水が落ちる。これ以上流れないようにぎゅっと目を閉じた。
「うわっ」
思いのほか強い力で体を押された。薄墨と向き合うように顔を上向かされる。伸びて来た白い手が、頬の涙を拭った。
「秋良に、こういう時は泣いているのを見ない振りしろって言われたんだけれどね」
今度は引き寄せられて、されるがまま薄墨の肩に顎を乗せる。無理みたいだ、と薄墨がすぐ隣で呟いたのが聞こえた。
「青は優しいね。消える前に君に会えたことを誇りに思う。今も昔も、私の為に泣いてくれる人間に出会えて、こんなにも幸せだ」
青の背に回された手が、ぽんぽんと柔らかく叩く。優しいのはどっちだ、と思ったけれど言葉にはならなかった。
「私が消えることで、もしかしたら君に傷を残すかもしれないね。結局最後まで私は人を傷つけてば……り、でも、あ…………と」
最後は蚊が鳴くように小さくなっていた。小鳥は聞き取れなかったのか、困ったようにチィと鳴く。でも耳元で聞く青にだけは分かった。ありがとう、薄墨は確かに現代の言葉でそう言った。
薄墨の手が畳に落ちる。力の抜けた体が青に凭れた。
「薄墨?」
「無理をしたせいで、消耗したようだな。もう、静かに寝かせてやれ」
一姫の静かな声が降ってくる。薄墨は先ほどよりもさらに息が細くなっている。青は薄墨を抱き寄せて布団に寝かせた。
空は暗い。月も星もまだ明るさを保っていたが、僅かに空の端が白み始めていた。青は小さな庭に薄墨の体を横たえた。花壇の千日紅の花を一輪摘む。母には悪いが少し融通してもらっても許されるだろう。その花と彼が封印されていた小さな壺、着ていた狩衣を布に包んで薄墨の胸に乗せる。青は縁側で一部始終を見ていた一姫を振り返った。
「姫、頼む」
一姫が頷き、少し開いた扇子を閉じる。パチリという小さな音と共に、薄墨の胸に乗せた布に火がついた。千日紅と同じ鮮やかな赤紫の炎が一瞬で薄墨を包む。一度大きく燃え上がったそれは瞬く間に消えた。もう、薄墨も布も花も何一つ残っていない。庭の芝に焼け焦げた跡さえなかった。
「あのくらいの酒で、悪酔いするとはほんに情けないの」
「……え?」
「そんな泣くほど気持ちが悪いならさっさと寝てしまえ。わらわはもう休むぞ」
青を見もしないで一姫はその場から姿を消した。
そうだ、胸の奥が痛いのも涙が流れるのもすべて酒の所為に違いない。朝特有の少し湿った空気が頬に触れる。朝日が昇るまでそう時間は掛からない。青は酒が抜けるのを庭に座り込んで待つことにした。目の端で微かな風に赤紫の花が揺れている。
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