第14話 薄明の月 -2
蔵のつづらをすべて外に出し、
時刻は正午過ぎ、しばらくは暇だ。とりあえず昼を食べようと冷蔵庫を開けたが、中には驚くほど何も無かった。ハムとヨーグルトと卵。あとは、スライスチーズとみかんゼリーがひとつ。このゼリーは
「人に面倒な仕事させるならせめて飯くらい用意してくれてもいいのに」
ぶつぶつ呟きながら食器棚をあける。たしか、一番下にカップ焼きそばが入っていたはずだ。棚の奥に目当ての物を見つけて立ち上がった。
テレビをつけると、特に興味を引かれない昼のバラエティが映った。面倒ばかりだが、でも誰もいない休日の家というのは解放感がある。機嫌良く出来上がったカップ焼きそばをすすっていると、電子音が聞こえた。聞き慣れたこの音は風呂が沸いた時に鳴るアラームだ。
こんな時間になぜ、と首を捻っていると、一姫が戸口に現れた。隣には例のつづらの男がいる。
「あ、姫。結局その人誰なんだ?」
虫干しの最中、インパクトある登場をしたその人を忘れていた訳ではない。でもいい加減
「大分図太くなったな、アオ」
「少しも褒めてるように聞こえないんだけど」
「別に褒めて無いからの。それより、アオ。こやつは薄墨と言う」
「うすずみ?」
「そう、薄い墨汁で薄墨」
「ふぅん、で?」
「お前、今から薄墨を風呂に入れてこい」
「は?」
大抵の事では驚かなくなったつもりだが、唐突な命令に間抜けな声が出る。風呂を沸かしたのが一姫だという事は解ったが、何故またそんな話になるのか。
「薄墨は長く封印されていたからな。現代の風呂の使い方などわからんから仕方なかろう」
何故突然風呂なのか、訊きたいのはそこだが、まあ深く追求する程の事でもないと思い直す。風呂に入ってすっきりするくらい咎めるような事ではない。
「風呂に入れるのはいいとして、俺じゃなくても姫が教えればいいじゃんか」
「お前はうら若き乙女に成人男性の風呂の世話をしろというのか」
「だれが乙女だ。俺より何百年も歳とってる癖に」
一姫は見た目こそ十二、三歳の少女だが、数百年を軽く越す時を過ごしている。でも確かに、外見だけとはいえ幼い少女に風呂の世話をされるのは、一姫より薄墨の方が可哀そうな気がする。しかし青が世話をするには大きな問題がある。
「だって俺、薄墨と話せないぞ?」
一姫は薄墨が話す言葉を平安の言葉と言った。つまり薄墨は千年近く前の妖だ。そんな途方もない時間の流れはまったく実感できないが、少なくとも言葉が通じなかったのは事実だ。
「心配するな、手は打ってある」
一姫が指を鳴らすと、空中に小さな鳥が現れた。ぱさぱさと軽い羽音を響かせて青の肩に止まる。
「な、なんだよ突然」
うろたえる青に一姫がふふんと笑う。青の言葉に少し遅れて、誰のものでもない高い声が響いた。と、それまで黙っていた薄墨が反応をした。その瞳が小鳥に視点を定める。薄墨が何かを話した。また少し遅れて高い声が響く。今度は日本語だ。
「鳥が話した」
声の出所は、間違いなく青の肩の鳥だ。せわしなく動く小さなくちばしに合わせて音が出ている。
「その小鳥はわらわの式だ。お前たちの言葉を同時通訳してくれる。どうだ、便利だろう」
「おお、マジで? すげえ! やれば出来るんだな、姫」
「違う。出来るけどやらないだけだ」
「……それはそれでどうなんだ?」
自信ありげな一姫に、今までの苦労を思い出して息をつく。これまでの妖がらみのトラブルは一姫が協力すれば間違いなくもっと簡単に解決した。だが、そんな事を言ってみたところで一姫の機嫌を損ねるだけだ。下手をすれば小鳥を没収されかねない。
「ほれ、さっさと薄墨を風呂に入れてこい」
一姫が手をひらひらと振る。青は薄墨をつれて風呂場に向かって歩き出した。
近くで見ると、確かに薄墨は汚れている。風呂に入れろという気持ちもわかる。薄墨に風呂場の説明をすると、見るのも聞くのも初めてという様子でとてもたどたどしい。シャワーを出した時の驚きようはすごかった。水が出た瞬間びくりと跳ね上がり、漫画のように目をまん丸に見開いた。
「すごいな、雨みたいだ」
唄う様な平安言葉の後に、小鳥が続ける。あれはこれはと質問してくるのは小さな子供のようで微笑ましい。石鹸を泡立てる事に苦戦し、シャンプーを手にとって悩む薄墨に助け船を出し、ようやく湯船に浸かったところで、青はリビングに戻った。後は体を拭いて出てくるように言ったからそのうち戻ってくるだろう。
何も知らない人間に物を教えるのは意外と手間が掛かる。そんなに時間は掛からないだろうと、食べかけで残していたカップ焼きそばがすっかり冷たくなっている。カップラーメンでなかっただけマシだ。
焼きそばだけで満腹になるはずもなく、台所で発見したバナナを剥く。あらかた食べ終えたところで薄墨が顔を出した。
「ああ、服大丈夫みたいだな」
薄墨がもともと着ていた服が狩衣だったため、父の神社用の狩衣を拝借した。薄墨の方が背が低く細身だが問題はなさそうだ。
「この布は不思議だな。良く水を吸う」
「布?」
薄墨が嬉しそうに差し出した物を見ると、何の事は無いバスタオルだった。この様子では今の世の中は本当に驚く事ばかりだろう。別世界に来たようなものだ。さすがに少し不安になる。これは慣れるまで大変だ。
しかし先の事を心配しても仕方がない。青はグラスを二つ用意して冷蔵庫の麦茶を注いだ。ひとつを薄墨に差し出し、自分も口をつける。薄墨は少し戸惑ったようだが青に倣って口をつけた。
「冷たい!」
薄墨の声の後に肩の小鳥が叫ぶ。その音量に驚いて肩が跳ねた。
「ちょ、鳥、悪いけど薄墨の方に止まってくれる?」
小鳥に向かって話しかけると、チィと小さく鳴いて薄墨の肩へと移った。一姫の式にしては驚くほど素直だ。
「この大きい箱はただの棚ではないのかい?」
薄墨が冷蔵庫の前に移動する。彼の肩の小鳥がそれに合わせて話した。
「それは中が冷たくなってて、食べ物を保存する仕組みになってるんだよ」
「これ、開けても?」
「いいよ、ほら」
青が冷蔵庫の扉を開ける。ひんやりした空気が流れて、薄墨が感嘆の声を上げた。
「これ、下の段も同じ仕組みかい?」
ひとしきり観察した後、冷凍庫と野菜室に興味を向けた薄墨に、青が冷凍庫を開ける。いくつかの冷凍食品と製氷機から落ちた氷がある。氷をひとつ摘まんで渡すと、薄墨は驚いた声を出した。
「これ、もしかして氷? 不思議な形をしているけれど」
「この引き出しは上の扉よりさらに冷たい温度に設定されてて、氷が自動で出来るんだ」
「ということは、この中は冬と同じくらい寒いのかな?」
「え、いや、たぶんこの中の方が寒いかな?」
北国ならともかく、ここは関東だ。雪が降る事さえ珍しいのだから冷凍庫の方が寒い。でもこんな想定外の質問をされると一瞬頭の中が白くなる。たどたどしく答えると、今度は薄墨が一番下の段に手を掛けた。開けてもいいかと視線が訴えてくる。青が頷くと薄墨は野菜室を引き開けた。
「野菜が入っているね」
「この段は、野菜が長持ちする温度になってるんだ」
「へえ、便利な世の中になったものだね」
覗きこむと、大根、トマト、にんにく、ニンジン、玉ねぎしか入っていない。それにしても母は見事に冷蔵庫を空にしてくれたものだ。夕飯は何か買ってくるか、とぼんやり考えていると、満足したのか薄墨が野菜室を閉めて立ち上がった。
と、同時にその体がぐらりと傾いだ。反射的に青が手を差し出す。体勢が悪かったのか、支えきれずに青もろとも床に倒れこんだ。薄墨が持っていた氷が床に落ちてからんからんと音を立てる。
幸い青が尻もちをついただけで、腕の中の薄墨は無事のようだ。打ちつけた尻が痛いが、骨がどうこうという程のものではなさそうだ。小鳥は、ぱたぱたと羽ばたきちゃっかり難を逃れている。それにしても思った以上に抱えた薄墨の体が軽い。たしかに線が細いがそれにしても軽すぎる。
「薄墨、大丈夫か?」
「す、すまない。怪我は無いか?」
薄墨が慌てて上から降りる。その顔色は異様に悪い。もともと肌の色は白いが、白いを通り越して蒼くさえ感じる。さすがに心配になった。
「もしかして、具合悪い?」
湯あたりでもしたのかと思ったが、それにしても体調が悪そうだ。その時、大きな音を聞きつけたのか一姫が姿を見せた。
「大事無いか、ふたりとも」
「ああ、姫。なんか薄墨が調子悪そうなんだけど」
一姫の視線が薄墨へ向く。
「風呂ではしゃぎ過ぎたんだろ、どれ、わらわがちょっと休ませておく」
「え? ああ、うん。じゃあよろしく」
薄墨を立たせて、一姫が連れていく。なんとなく釈然としなかったが、あれでも神様だ。一姫に任せておけば問題はないだろうと思い直し、青はそれ以上追求するのはやめた。
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