第11話 昼下がりの空 -2

そら、ご飯だって」


 帰るなり部屋に籠った僕に、兄ちゃんがドアの外から声を掛けた。この部屋に鍵は無い。


「いらない」


ドア越しに言うと、後で食べろよ、と兄ちゃんの声が聞こえた。階段を下りる足音が聞こえる。食べない、なんて言ったらお母さんか一姫が来そうなものだけれど、誰も来なかった。きっと兄ちゃんが何か言ったんだろう。

 本当は兄ちゃんが悪くない事なんて分かってる。僕に「不思議なもの」が見えないのは兄ちゃんの所為じゃない。やつあたりだ。でも苛々は収まらない。



――――誰かが泣いている。


 その声に気付いて目を開けた。目の前に広がる風景は見慣れたものだ。神社の端、あけ緋の居る池だ。ひとつだけいつもと違うのは、僕は池の中から池のほとりを見ている。僕が学校帰りにあけ緋と話すその場所には知らない男の子が立っていた。僕と同じか少し下ぐらいの歳だろうか。右膝には包帯が巻かれている。左膝には大きなガーゼがあった。

 泣き声はその子だ。怪我が痛いのだろうか。顔を伏せて声を殺しているのに、それでも抑えきれずに漏れるその声に心配になった。大丈夫、と訊きたいのに声が出ない。代わりに聞いた事のない男の人の声がした。


「その怪我、どうしたんだい?」


男の子が顔を上げた。やっぱり知らない子だ。でもどこか見覚えがある。


壬笠みかさにリレーの途中に足引っ掛けられた」

「壬笠? ああ、あの悪戯好きのあやかしか。仕様がないな」

「悪戯のレベルを超えてるよ!」


 男の子が声を張り上げる。全速力で走っている間に足を引っ掛けられたのだとしたら、確かに悪戯と言うにはちょっと酷い。それに妖ということはもしかして。


「それで、傷が痛くて泣いているのかい、あおい?」


その声が呼んだ名前は僕もよく知っている。そう、見覚えがある筈だ。歳の離れた弟の僕には小学生の兄ちゃんには馴染みがないけれど、言われてみれば兄ちゃんその人だと分かる。

 これは、夢だろうか。小学生の兄ちゃんの記憶さえ無い僕に、こんな思い出はない。でも池の上、小さい兄ちゃん、見下ろす視線、それにこの知らない声、すべてを合わせて思い当たるのはひとつしかない。あけ緋だ。これはあけ緋が見せているのだろうか。


「違うよ」


兄ちゃんが右手で涙を拭く。どうした、とあけ緋が気遣うように訊いた。


「リレー、途中まで一位だったんだ。でも、俺が転んだせいで最下位になった」

「それで皆に何か言われたか?」


小さい兄ちゃんは黙ったままだ。けれど口を引き結んで涙を堪えるその顔が、あけ緋の質問の答えだろう。


「それは酷いの。青の所為ではないだろう?」

「俺、もともと皆から浮いてるからしょうがないよ。それに、つい転んだあと壬笠に文句言っちゃったんだ。誰だって何もないところに叫んでる奴みたら気持ち悪いって思う」


そうか、という吐息のようなあけ緋の返事に、兄ちゃんの涙がまた滲んでくる。

 僕は兄ちゃんの事情を知っているけれど、知らない人から見たら、転んだ後何もない空中に文句を言っている奴が居たらたしかにちょっと、いやだいぶ気持ち悪い。そういうのは一番の攻撃対象だ。学校でみんなに遠巻きにされる気持ちはどんなものだろうか。想像しただけで嫌な気分になる。


「なんで俺ばっかりこうなんだろう」


その時の事を思い出したのか、さっきよりも大きな泣き声が響く。しばらく続いていたけれど、やがて小さくなって兄ちゃんが鼻を啜った。


「青は、見えないほうが良かったかね?」


あけ緋の言葉に、兄ちゃんが考えるように口を閉じる。少しして兄ちゃんは首を振った。


「壬笠とか嫌な事してくる奴らはムカつくけど、俺、姫も染若もあけ緋も好きだもん。見えないのはやだな」

「そうか、ありがとう」

「なんであけ緋がお礼を言うんだ?」


ちょっとだけ嬉しそうな声で答えたあけ緋に兄ちゃんが首を傾げる。話している間に涙は抜けたのか、今はしゃくりあげるだけだ。


「俺、見えているのに、外では皆がいない振りしなきゃいけないのがすごく嫌なんだ。あけ緋はいるのにいないって言われて悔しくないの?」

「青がそう思っているのは嬉しいの。ただ、我らにとって見える見えないはさして重要ではない―――――


 そこでテレビのスイッチが消えたように景色が途切れた。目を開けるとぐしゃっと丸まった布団が見える。ベッドに寝転がっているうちに眠っていたらしい。夢は大抵忘れてしまうのだけれど、今回ははっきりと覚えている。小さい兄ちゃんも、あけ緋の事も。

 最後、あけ緋が言った「重要ではない」の続きは何だろうか。そもそもあの夢は本当にあけ緋の記憶だろうか。考えても僕には分からない。

 ただ、ひとつだけ、僕が兄ちゃんにとても酷い事を言った、というのは分かった。あの夢が本当にあった事かは関係ない。見えないものが見える事で、たぶん兄ちゃんは今までに辛い思いをしているんだろう。「人と違う」とはそういうことだ。

 なのに、僕は羨ましいと兄ちゃんを責めたのだ。あの時、少し困ったような顔で、でも兄ちゃんが僕を怒らなかったのは、いつも大人気なくてもやっぱり「大人」だからだ。自分の気持ちしか考えられなかった僕とは違う。おまけに、ご飯に呼びに来てくれた兄ちゃんに嫌な態度を取った。それに気付いたらなんだか急に恥ずかしくなった。枕に顔を押し付ける。もう本当に格好悪い。

 時計を見ると、もう夜九時を過ぎている。ご飯も食べずに部屋に籠っているから、きっとお母さん達は心配しているだろう。家族が心配する、そんな事にさえ僕は今の今まで気付かなかった。本当に自分の事ばっかりだ。

 今更顔を出すのは恥ずかしいけれど、お母さんは僕のご飯をとっておいてくれているだろう。せっかく作ってくれたのに食べずに捨てるなんて、それこそさっき兄ちゃんを責めた僕とおんなじだ。自分の事しか考えていない。それはダメだ。深呼吸をひとつして、立ちあがった。

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