いってらっしゃい

 5月25日金曜日、午後12時43分──。

 広島県呉市、杉野宅にて。


「うん……、うん、こっちは平気だよ。隆貴たかきは大丈夫? ちゃんとご飯食べてる? ……なら良いけど。…………うん、分かった。それじゃあ、また連絡するね」


 電話の受話器をそっと置く。それと同時に深いため息が洩れてしまった。


 あの日からどれくらい経っただろう。

 私は教師を辞職し、しばらく実家で過ごしている。両親は事情を聞くこともなく、黙って帰って来た私の頭をそっと撫でてくれた。まだふたりの中の私は幼くて、だけど今の私にはそれがとてもありがたかった。

 教頭になった夫の隆貴とは別居生活が続いていた。三度の飯より趣味を優先してしまう彼のことが心配で、毎日電話を欠かさずにしている。

 隆貴には全てを打ち明けた。彼は黙って聞いてくれて、聞き終えると私を抱きしめてくれた。ごめん、ごめん。そう何度も呟いて。私が謝るべきなのに、彼はずっと謝ってくれた。

 私が犯した罪を償う機会を失い、私は誰に、どうすれば償えるのかをずっと考えていた。


 私が広島に帰ってきてから少し経った頃、隆貴の勤める高校にひと組の男女がやってきたそうだ。男女は中内先生へ伝言を頼まれたと言い残し去って行った。最初は自分にだと思っていた隆貴が私宛ての伝言じゃないかと連絡してきてくれた。


『彼女から先生に「ムスカリ」と伝えてほしい』


 伝言の意味はすぐに理解できた。事情を知った隆貴も『彼女』というのが蛍ちゃんだということ、そしてムスカリの花言葉の意味にも気が付いたのだそうだ。


 高校に来たのは朝芽野君と堂城さんだよね?

 ありがとうね、ふたりとも。



 今日は金曜日。冷蔵庫を漁り、カレーの準備を始める。

 何度も作ったからか、もう手慣れたものだ。準備を終え、隠し味にインスタントコーヒーを少し入れて保温しておく。


 時間が空いたのでその間に最近読み始めた小説の続きを読もうと思い、テーブルに置かれた小説に手を伸ばす。

 その時だった。


「……え」


 閉じていたはずの本が、パラ、パラ、パラ、とひとりでにめくられ始めたのだ。

 家の窓は閉まっているし風が吹くわけもない。

 ただ勝手にページが捲られていく。

 まるで、誰かが読んでいるかのように。


「……蛍ちゃん?」


 自然と名前を呼んでいた。

 すると、ピタッと本は動かなくなった。

 そして……、


「お姉ちゃん」


 後ろからそんな声が聞こえたような気がした。

 そう、この声。懐かしい、あの子の声だ。

 後ろを振り返るけれど、そこには誰もいない。

 けれど、あの子の声がはっきりと私には聞こえた。


「ああ、あはは……、浩輔だ。浩輔の声だぁ」


 こぼれだす涙はとめどなく私の頬を伝って床へと落ちる。両の手のひらで目を押さえて、私は涙を受け止めた。


 目をつむればふたりの姿がそこに現れる。

 いつまでも、いつまでも、忘れられない私の大好きな子達。

 笑顔のふたりが私を見つめている。

 そして、私に背を向けて歩いて行く。向こうへ、向こうへ、その先へと。


 ……そっか。最後に私に逢いに来てくれたんだね。

 お別れを言いに来てくれたんだね。

 浩輔……、蛍ちゃん……、ありがとうね。


「いってらっしゃい」

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胡乱の死者 家達あん @iesato_anne

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