海の女

 家庭科室は、特別棟一階の北階段の向かって右隣にある教室だ。

 向かう途中の廊下で野太い笑い声が背後から聞こえ背筋が凍りついた。振り返ると、丸顔の男がニタリとした笑顔で、自身の指に引っ掛けた魚のついたストラップを眺めていた。

 先ほど机の下に潜り込んでいた植木という男だ。そのストラップを探していたのだろうか。やけに丸い体型をしているが、太っているという風にも見えない。そういう体型なだけなのだろう。

 今の今まで、後ろにいたことに全く気が付かなかった。足音が一切聞こえなかったのだ。そして、彼から妙に煙草たばこの匂いがするのが気になる。

 耳元で紗倉が「気にしないでいいよ」と呟いた。


 階段を降りる手前で何やら良い香りが漂ってきた。


「カレーだね」


 朝芽野がぼそりと呟く。

 家庭科室のドアをノックすると、中から「どうぞー」と何やら聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 高木がドアを開けると、ブワッとスパイスの香りが一気に流れ出し、思わず「おぉ」と息がれてしまう。


「先生、連れてきましたよ」

「ありがとう」


 ああ、やっぱり。この人だ。


 壁のように佇む高木の脇下から家庭科室を覗き込むと、そこには迷彩柄のエプロンをした中内早苗が立っていた。


「どけやー」


 先頭に立っている所為せいで誰も家庭科室に入れず、立ち往生おうじょうになっていることに気付かない高木の尻を紗倉が思い切り蹴り上げた。

 うずくまりうめいている高木には目もくれず、ぞろぞろと中へと入っていく。


 長方形の机が縦に2列、横に3列並び、それぞれにコンロが設置されている。後方には、食器棚や電子レンジなどの調理器具が並んでいた。

 前列ドア側の机には、切り分けられた林檎りんごやスナック類、インスタントコーヒーなどの飲料類まで様々なものが置かれており、中内はその隣、中央の机のコンロ上に置かれた鍋をおたまで混ぜていたところだった。

 混ぜる手は止めず、視線だけをこちらに向けて「あっ」と目を見開いた。


「あなた達だったの!?」

「早苗ちゃん知ってる子達?」と紗倉。

「知ってるも何も、うちのクラスの生徒よ」


 中内は私達3人にそれぞれ目を向け、にこりと微笑む。


「えー、みんな早苗ちゃんのクラスとか最高じゃん」

「本当、茜ちゃんの担任の先生が誰なのか気になっていたけど、中内先生なら安心ね」

「もう! 2人してそんなこと言わないでよ」


 と、中内は頬を赤らめる。

 昨日の力の抜けるような口調とはまた違い、まるで友人に話すような緊張感の抜けた話し方。普段はこうなのだろうか。

 クラスの生徒も口々に中内のことを噂していた。中には「化粧の仕方を教えてほしい」「どうしてそんなに綺麗な髪をしているの」だとか、そういった質問をしている生徒もいたほどだ。

 彼女は誰に対しても態度を変えない。それは緊張しているから余裕がないだけなのかもしれないが、それでも担任ではなく顧問の中内の姿を見れば、誰からも愛されるような存在であるのが見て取れる。


 中内に促され、私達は前列中央の机の椅子に腰を下ろした。

 高木曰く、毎年新入部員歓迎会では担任の中内が手作りカレーを振る舞うのだそうだ。まだ入部するなんて一言も言っていないが、まあそれは後々訂正すれば良いだろう。


 随分と上機嫌な中内は鼻歌を歌っていた。聴いたこともないどこか古い歌。チョイスが渋すぎる美人である。

 私の隣に座るれい先輩が耳打ちで教えてくれたのだが、中内は去年の春に結婚したらしく、新婚生活真っ只中なのだそうだ。お相手は以前に勤めていた高校の教師で、4月からその高校の教頭になったという。


「ああ、だから上機嫌なんですね」

「そうなの」


 れい先輩も幸せそうな笑みを浮かべていた。


 家庭科室の東の窓からはグラウンドが見渡せる。

 サッカー部やラグビー部などが新入生に部活動体験をさせていた。それにしても熱い。いや体温ではない。運動部の熱気というのだろうか、体験だというのに容赦のない指導をしていた。

 こういうところが高業績を成す理由なのだろうか。


 と、突然どこからともなく獣の呻き声にも似た音が鳴り、反射的に周囲を見渡した。


「今の何ですか」


 訊くと、紗倉がゆっくりと手を挙げた。みるみる顔が紅潮していく。


「ごめん、あたしのお腹」

「お腹空いてるんですか?」

「……うん」


 恥ずかしそうに顔を伏せる。


「かえでちゃんお昼食べてなかったよね。もしかして、具合悪い?」


 れい先輩の問いに、彼女はふるふるとかぶりを振る。

 朝芽野と約束をしていたということは、もしかして何も食べずにずっと彼が来るのを待っていたのか。

 朝芽野を見ると彼もそう考えたらしい、肩を縮ませて「もしかして僕が来るまで食べなかったのですか」と問うたが、彼女はそれにもかぶりを振った。

 彼女の次の言葉を皆待つが、いつまでも黙ったまま俯いていた。

 あまり話したくないことなのだろうと察して、私は話を変えた。


「そういえば、超研って6人いるんですよね。あと2人は……」


 ここには私、木嶋、朝芽野、そしてれい先輩、紗倉、高木、植木、顧問の中内が集まっている。

 れい先輩は部員が全部で6人だと昨日話していた。そしてその内の4人が不可解な現象に立ち会っている、とも。


「あいつらは来ないでしょ」


 紗倉が鼻で笑う。れい先輩も「うん、来ないと思う」と顔を伏せる。

 何か訊いてはいけないようなことだっただろうか。高木は何知らぬ顔でそっぽを向いていた。


「来てくれるといいんだけどね」


 中内が深いため息を吐き、つられるように次々と皆が息を洩らす。

 そんな中、私の向かいに座る朝芽野が妙に険しい表情で中内を見つめていることに気が付いた。

 一体何を考えているのかと思ったら突然、


「先生ってもしかして広島出身ですか?」


 と訊ねた。

 唐突なことに皆唖然とするが、まもなく「すごい、よく分かったね」と中内が感嘆した。


「朝芽野君、どうして中内先生が広島出身だって分かったの?」


 と、れい先輩が訊く。

 広島弁を話していれば私も気付いただろうが、彼女は今の今までずっと標準語で話していた。どこにそのヒントがあったというのだ。


「イントネーションに違和感があったので」

「イントネーション?」

「さっき高木先輩に『ありがとう」と言った時のそのイントネーションが違いました。標準語では『り』にアクセントがつくところ、広島弁では『が』につきます。さっきの先生のは『が』についていました」


 ほう、それは気が付かなかった。


 中内は片手を自身の顔に押し付け「しまったなぁ」と息を洩らす。


「方言が出ないように気をつけてたのに。そっかぁ、イントネーションが違うのかぁ」

「それと今日は金曜日。金曜日にカレーを作り、その場にインスタントコーヒーや林檎が用意されているところからして、くれ市出身ですね」


 中内は眉根を寄せた。興味深そうに彼を見つめる。


「どうしてそこまで分かったの」


 朝芽野は中内に見つめられ、ふいっと目を背けた。そして、ぼそぼそと囁くように言う。


「金曜日にカレーが出ることで連想できるのは海上自衛隊です。常に海の上で生活をしている彼らは、曜日感覚が狂わないように毎週金曜日に決まってカレーを食べます。そしてそのカレーには、隠し味としてインスタントコーヒーや林檎などが入っているって聞いたことがあったので。広島で海上自衛隊と言えば、戦艦大和でも有名な呉市しかないなと思って。それに、さっき歌ってたのは軍歌ですよね」


 頭をぽりぽりと掻く。

 彼は時々私の知らない知識を披露するので驚いてしまう。そして、中内の反応は彼の言葉が事実であるということを示していた。


「ほんと、よく知ってるね。当たり。実は先生の父が海上自衛隊だったの。だから昔から色んなことを教わってきたの。カレーのレシピが書かれた紙の束を抱えて帰ってくる父が『これは極秘資料だ』って言って、作り方を教えてくれたりね。それでお風呂に入ったら聴こえてくるの、この歌が。もう覚えちゃった」


 中内は微笑ましく笑う。


「よし、できた。高木君、お皿にご飯盛り付けてくれる?」


 高木は立ち上がり、後ろの食器棚から深掘りの皿を持ってきた。手伝おうと私も立ち上がるが「1年生は座ってて。私達がするから」と、れい先輩に静止され、仕方なく腰を下ろす。

 常に家事をしている私は、こういう時何かしないと気が済まない。どうやら木嶋ももじもじと落ち着かない様子だった。朝芽野は軍歌を口ずさんでいた。

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