休みって言葉知ってたんだな
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『125階です』
シンと静まり返った昇降機は、ゴウン、と硬い音をあげて止まった。
昇降機から女性の声が響き、アリシアは足元に落としていた視線を跳ね上げる。ものの数秒しか動かなかった思っていたため、聞こえていた音声に耳を疑う。表示された数字はたしかに125を示していた。
「ひとまず、医務室の前に、イーサンのところに顔を出さないと。執務室にいるようなので」
ノアに続き、アリシアは歩き出した。その後ろにはグレンがついてくる。まるで逃げ場がない。
廊下の突き当たりが見えているのに、いくら歩いても近づかなかった。なぜか足取りが重く感じられ、アリシアは辟易とする。自分の身体なのに。
三人は重厚な大扉の前で止まった。黒く平たい不気味な外観の建物には似つかわしくない、美しい木彫りの装飾が施された扉だった。
ノアが軽く二回ノックすると、ガチャ、と音を立ててドアノブが独りでに回り、重い音を引きずりながら扉が開かれた。部屋の内側に、眩しい陽の光が溢れていた。アリシアは思わず瞼を閉じかけた。
部屋は本で囲まれ、落ち着いた雰囲気が漂っている。入口のすぐ右手側で、カコンカコン、と音を立ている置物があった。丸い鏡にアリシアが映っている。その鏡の周りを、金の線が三重になって回っている。機械仕掛けの置物だ。
「待ってました、三人とも」
低く心地の良い声がして、アリシアはその方向へと顔を向けた。
扉とは反対の壁は、一面が硝子張りになっている。その窓を背に大きな机――崩れそうな書類が山積みされた――があり、その前に一人の男が立っている。
光に目が慣れると、振り向いた男の顔が徐々に明瞭になって見えた。
――イケおじじゃん。
アリシアの目の前に姿を現したのは、優しげな雰囲気を纏った男だった。
白髪がところどころ混じる焦げ茶色の髪を、オールバックに整えている。顔立ちは彫りが深く力強さを感じさせるが、垂れ目がその印象を和らげていた。
「待っていたよ」と言いながら、男は三人に微笑みかけた。
その柔らかな笑顔には親しみやすさがあり、厳しさとは無縁だった。細い銀縁の眼鏡が鼻筋にかけられ、知識人らしい温和な風格を漂わせている。だが、彼の体つきはしっかりしていて、黒いスーツ越しにもそれが分かるほどだった。
彼はデスクの椅子に座った。ノアがデスクに近づいたが、グレンはそのまま離れた位置に立ったままだ。ノアの隣に行くのか、行かなくてもいいのか。悩んだ末に、アリシアはグレンの隣から動かなかった。
――それにしてもかっこいい。あのひとがイーサン? アリシアの上司? なんだか俳優みたい……。
アリシアは、特別イケメンが好きだというわけでは無かったが、初対面でそう思わせるほど、イーサンの所作の一つ一つに風格と美しさが滲み出ていた。呼び出された時に感じた恐怖は、今のイーサンからは微塵も感じ取れない。
「――そしてこれが押収……、もう遺品ですが、回収した人形師のトランクです」
ノアの報告は終わりを迎えた。ノアは話しながら、魔法を使ってどこからともなくあのトランクを取り出す。イーサンはそれに一瞥をくれ、アリシアとグレンに視線をうつした。
「グレン。君がこの魔法道具の解析をしてくれないか」
「はい」
――声まで、聞き心地がいい。すごいなぁ。
「アリシア。君からはまだ何も聞いていないが」
ノアの肩越しにぼうっとイーサンの姿を観察していると、その視線はグレンからアリシアへと移る。
「アウセンディーヤの番犬に噛まれるなんて、君はそんなヘマしないだろう」
不意打ちにアリシアの心臓がどんっと飛び跳ねた。ばっちりと、眼鏡の奥の黒い瞳と目が合う。何もかもを見透かそうとしている視線だ。
アリシアが言葉に詰まると、ノアが恐る恐る口を開いた。
「イーサン、そのことでご報告があるのですけど……」
あ、とアリシアは声を出しかけた。ノアはアリシアの記憶喪失について報告するのだろう。バディの不調を上司に伝えるのは当然だ。だが、アリシアは迷った。
記憶喪失。アリシアがアリシアではないことを誤魔化すには、先手を打っておくべきだ。記憶喪失というていにしておけば、多少はアリシアがおかしな言動を取ったとしても、「記憶喪失」という現象に帰属されるだろう。
使い勝手の良い言葉だ。
しかし、今ここでイーサンとグレンに伝えることは最善の手なのだろうかと――思考を巡らせたところで、アリシアはノアの口を閉ざすこともできなかったが。
ノアはイーサンに、現場に行くまでの情報を伝えた。
「まじかよ」話を聞いたグレンは、目を見開き、アリシアをまじまじと見て絶句した。その一方で、イーサンはひどく落ち着いた様子だった。
「いつからの記憶がないんだ。それは断片的にかい」
観察するような三人の視線にアリシアは圧倒される。必死に無難な答えを探して返した。「断片的に」と。
実際、ふとした拍子に、知らない記憶や情報が頭の中を駆け巡っていることを思えば、嘘はついていない。
だが、いつから、ということには答えられなかった。アリシアには、イーサンとの関係性が分からない。イーサンとアリシアの関係が「いつから」を指しているのか、答えようがなかった。
三人の中でも、特にイーサンの視線がいっとう突き刺さる。あの柔和な表情の中に、アリシアの真偽を見極めるような威圧感が隠れている。
「魔法は使えるのかい?」
ひゅっとアリシアの喉が鳴った。 「使える」と、アリシアは反射的に答えた。
身が竦む思いだったが、声は震えていない。もし、アリシアがアリシアではなかったとしたら、毅然と受け答えなどできないだろう。膝から崩れ落ちていたかもしれない。
「先程、魔法を使っていました。番犬に噛まれたことも処置したようですし、問題ないと思います」
ノアが助け船を出す。アリシアは心の中でノアに感謝した。なぜだろうか、ノアはよくアリシアを助けてくれる。
「魔法が使えるなら問題ないかな」
「記憶を戻す魔法を使いますか?」
イーサンは顎に手を当ててしばらく考えた。
「いや」と首を振る。「それは最終手段にしよう。アリシアの生きてきた時を考えると、それだけ強大な魔法が必要だろうから、それにともなう代償がどれほどのものか分からない。ひとまず様子を見よう」
様子を見るのであれば、このまま「療養する」ということはどうだろうか。それならば、アリシアのボロは出ないかも――ふとそう思って、アリシアは提案した。
「それなら、少し休みをもらってもいい?」
一瞬の間。場が静まり返った。初めて、イーサンが表情を崩し、優しげな目を丸くした。アリシアもまた驚いた。
言ってはいけないことではないはずなのに、さも有り得ない言葉を耳にしたように三人は反応する。アリシアは頬を掻いた。
「やっぱり今のはなし……」
「いや、いや。当然だよ。驚いた。こちらが休めと命じても休まなかった君が、自ら休みを望むなんて」
イーサンはぽかんとした表情を元に戻そうとしていた。
「とりあえず、ノア。アリシアを医務室へ連れて行って検査を受けさせなさい。今のアリシアなら連れて行けそうだ。それから」イーサンは続けた。「……それから、アリシアの状態については他言無用だ。今日ここにはいない梟の捜査官にも、口外は一切禁止とする」
「え、話さないの」驚いて言うと、イーサンは口を引き結んだ。
「アリシア……、記憶が無いということは、それだけ君がこれまで捕まえて、敵対してきた奴らに隙を見せることになるんだ。ノアもそう思って、ここで話したんだろう」
「事前に、管理官と特別捜査官には話しておくべきだと」と、ノアが言う。
「懸命な判断だな。これが知られたら俺たち魔法使いは大変だわ」グレンが納得したように頷いた。
どうやらアリシアは、記憶喪失がバレることも良くないらしい。フリすらもできないのだ。
――そんな無茶な!
「そういうことだ。グレンも、アリシアも、大変だとは思うけど、いいね。じゃあノア、よろしく頼んだよ。それが済んだら次の任務に取り掛かってくれ」
「任務はアリシアも一緒にですか?」ノアは、ちらりとアリシアを見た。
「ああ」と頷くイーサン。アリシアは耳を疑って、「え?」と聞き返した。どう考えても休みをもらえる話の流れであったのに。
「ちょっと待ってく、……まって。私も? 記憶ないのに?」
「君はその場にいるだけでもずいぶん力になるしね。ここは記憶のない大魔法師の杖だけでも借りたいくらいさ」
アリシアは愕然とした。その期待はどこからくるのだ。この職場は、黒と黒を混ぜてより真っ黒なのかもしれない。もしかしなくてもそうだ。イーサンはにこやかに笑っている。
「仕事をしていれば、記憶が戻るかもしれないだろう。そのほうが手っ取り早いと思うんだ」
「いや、そんな」
「すまないが、人手不足はいつものことで、困っていてね。お上から、速く解決しろと言われるのに、『梟』に回される案件の数は減らなくて。今回の任務、ノアの補佐として同行してくれないか。お願いだ、アリシア」
「うっ……」
アリシアは、他人の困った顔に弱かった。演技めいていたそのしおらしさに、こころの柔らかな部分がくすぐられる。言いくるめられていると分かっていながら、断れなかった。
気付いた時にはアリシアは了承していた。了承する以外の返事が口から出なかった。
三人はイーサンの執務室を後にした。部屋を出ると、ずっと黙っていたグレンが徐に口を開く。
「アリシア、お前……休みって言葉知ってたんだな」
馬鹿にしているのかと反論したくなったところで、グレンが本当に驚いていることに気付いた。
『アリシア』は、一体どのような人だったのか。身体の元の持ち主のことを思い浮かべて、頭の中にアンバーの言葉が蘇った。
――御主人は仕事中毒でしたから。
あのとき軽く流した言葉が、言い過ぎだと感じた言葉が、アリシア以外の人々にとっては当たり前の共通認識だった。それは呆れて笑うにも、笑って済ませない。これからも『アリシア』という存在を形作る、人々の認識だった。
月夜の霞に梟鳴きて 藤橋峰妙 @AZUYU6049
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