すてーたすおーぷん?



 ――

 

 引き上げられる感覚に、アリシアはゆるりと上半身を起こした。

 痛みはどこにもない。全身の倦怠感もない。思考は霧が晴れた後のようにキンと冷え切ったような心地だ。

 どれだけ寝ていたのだろうと首を動かして、黄色の毛玉が頭のすぐ近くの床で丸まっている姿を発見し、ぼんやりと見つめる。


「アンバー」


 黄色の毛玉は瞬きをした。くりくりとしたつぶらな瞳に、アリシアのぼうっとした姿が映し出される。それは、そこに誰がいるのかを確認するかのような目つきだった。


『おはようございます、御主人。お目覚めのご気分はいかかですか?』

「最悪」アリシアは痛くもない頭を抱えるしかできなかった。「夢を見た気がする。……あまり思い出せないけど」

『夢は夢ですよ』

「……私、どのくらい寝てた」

『おおよそ5分というところでしょうか』

「5分?」


 アリシアは自分の右手をそっと真上に伸ばした。噛まれたはずの牙の痕跡がない。無惨な状態に千切れた袖さえなければ、それこそ、噛まれたことさえ夢であったのかもしれないと思ってしまいそうだ。


「――死んだと、思った」


 自分の腕を見る。まるで元から無かったかのように、日焼けのない、傷もない、綺麗な真白の肌が艶やかに光る。


『魔法使いは長命ですが、死なない魔法使いは、いません。でもあなたは、ボクが出会う、ずーっとずぅーっと前から、魔法使いでした』


 アンバーは立ち上がり、アリシアの頬をざらざらとした舌で舐め、そして少し離れた場所に座った。

 なんとなく、アンバーの言いたいことに予想がついた。


『呪いでしょう。でも、アリシアもその呪いをどうすることもできなかった。そもそも、不死の呪いがどこにあるのか、どうかけられたのかさえ、あのアリシアでも分かっていなかった』

「わたし、こんな」

『可哀想なアリシアの魂。アリシアは狡猾で冷徹で手段を厭わない魔法使いだったから、あなたが騙されてここに来た光景が目に浮かびます。アリシアになんと言われたのですか? 何も言わずに連れこられたとか? 死にたくないなら助けてやるとでも? アリシアならやりそうなことだ』

「違う」その言葉は驚くほどするりと落ちた。

『じゃあ、助けてやるから代わりになれと?』

「違うの」記憶を辿る。「あの人は、助けてほしいって、私に言ったの」

『アリシアが。あのアリシアが?』

「うっ、嘘じゃない! わたし、助けたいと思った。嘘だったとしても、わたしは助けを求める人のことを、見捨てたりなんかしたくないって……」


 あまりにも信じられないという声音のアンバーに向けて言う。しかし思い出そうとすればするほど、自信は失われていく。


『お優しい心構えだ。でも、アリシアは二枚舌の演技派でしたからねぇ』


 本当にアリシアは助けを求めていたのだろうか。それともアンバーの言うように、騙されたのだと言うのだろうか。その言葉はひどく皮肉めいたものに、まるで自分の選択を非難されているように聞こえた。


『アリシア。その身体はもうあなたのもの。ならば、これから先のことはあなたが決めなければならない』

「どういうこと?」

『まだ、分かっていないみたいですね。あなたはアリシアの代わりに、使になったんですよ』


 アンバーは平淡な声で続けた。


『まあむしろ、あなたにとってしたら、死なない身体になったことが嬉しいのでしょうか。人間は常に老いない身体と永遠の命を求めているでしょう?』


 ハ、と短い息がアリシアの口から零れる。

 アリシアは降りかかる事実を何も飲み込めなかった。飲み込む以前に、飲み込む事を脳が、全身が拒否しているのか、自分の口から出ていく言葉も、耳に入るアンバーの言葉も、すべてが遠くの世界で起きている出来事のよう。


 アリシアはふらつきながら立ち上がって、床に散乱していた硝子片を拾い上げた。握った拍子に切った指先もそのままに、尖った先端を手首に当ててすっと引く。尖端を追って、細やかな線が白い皮膚に痕を残し、その合間から鮮血がゆっくりと滲んだ。


「痛い」

『そりァ痛いですよ』


 じくじくと痛み出す手首に、何をやっているんだと、アリシアは冷静さを取り戻した。


 そして同時にこれが現実であることを突きつけられる。痛みだけではなかった。まるで逆再生の動画のように、赤い液体が皮膚に吸い寄せられていく。白い線が塞がっていく。じくじくと痛みを帯びていた手首がじんわりと暖かくなり、元から何もなかったように、その痛みすら消えてしまって。


「うぁ」


 きもちわる、という言葉が、自然と口をついて出た。


「……私、もう帰れない?」

『どこにですか』

「私がいた場所」

『どうやって?』

「あなたは知ってるんじゃないの」

『いいえ?』語気を強めて言うと、アンバーは語尾を挙げて首を振った。『それこそあなたの方が分かりそう』

「分からないよ」

『じゃあ、あなた、彼女に会う前は何をしていたんですか?』


 あ、とアリシアは言葉を詰まらせた。

 肌を焼く熱風。落ちていく身体。そしてあの――青く見えた炎。帰りたいと思っても、もとの身体は残っていないだろう。


『帰れるんですか?』

「分からないよ」アリシアは呆然と首を振って答えた。「分かるわけないじゃん!」


 訳が分からないことに鼻の奥がツンとして、アリシアは下唇の内側を噛んだ。この目の前にいる生物の円らな瞳は、どこまでも純粋そうに見えて、どこまでも底のない暗闇のように見えた。


「ほんとどうしたらいいの……?」


 息を吐き出して、膝を抱えて、そういえば、と思い出す。

 この状況こそ、異世界転移や異世界転生と言うものではないだろうか。もしかしたらゲームや本の世界かもしれない。

 その手の話には興味が無かったが、こういう時は、ある言葉を言えばいいのだと誰がが言っていた――。


「す、す、すてーたすおーぷん、だっけ」


 空気は白けるどころか変わった気配すらない。アンバーがひょこりと首をかしげる。


「ハハ。ちがうよね……うん、そうだよね……」


 アリシアは自分の顔に熱が集まる心地になって、抱えていた膝の間に顔を挟んだ。その時だった。


 ゴトン。硬いなにかが、床に落ちた。


 アリシアは顔を跳ね上げる。抱えた膝越しに、黒革の手帳が落ちているのが見えた。


「なにこれ」アリシアは思わず自分の背後を見た。白塗りの壁が広がっている。もはや驚く気持ちさえ動かない。


「これ何? ねぇ、これ、知ってる? 彼女のもの?」

『うーん』アンバーは鼻をひくひく動かした。『そんな気もするし、そうじゃないような気もします』

「何、それ」


 この生き物が本当に役に立つのだろうか。使えないな、という言葉を呑み込み、アリシアは半目で睨み付けるだけに留めた。

 アリシアは黒革の無地の表紙に指を添えた。表紙と黄ばんだ一枚目の紙を捲ると、そこには何一つとして書いた形跡はなかった。そして次のページへ進む。


「……なにこれ」


 二枚目から、手帳の中身は黒く塗りつぶされていた。黄ばんだ色を四隅だけ残して、隙間無く、黒い闇が広がっていた。

 三枚目も四枚目も、捲っても捲っても、ページは黒い。インクか、とも思ったが、ムラが一切なければ、インクを使った時のように、紙が水気で寄った様子もなかった。


「これ、変、だよね」

『何かが書いてありますか? ボクには何も書いてないように見えますが』

「え、でも、黒いじゃん」


 アリシアは両手で手帳の端を押さえ、親指の腹で紙をめくった。

 そして、黒く塗りつぶされたページは唐突に終わりを迎えた。硬い指ざわりの厚紙を、ぺらぺら、何枚もめくったその先で。


〈██:全てを水に流しましょう。

 ――あなたは罪過を断つために、報いを受けなければなりません。

 ――あなたは███の未練を果たすために、祝福を受けなければなりません。


 主任務:捜査官になって事件を解決し、魔法種アデイラの正しい在り方をこの世界に普及しましょう〉


〈異常項目:不死の呪い


 解呪方法:████████████〉







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