強い心

 

『何かを得るためには犠牲が伴い、対価に等しく相当の価値ある代償を支払わなければならない。それは魔法使いでさえ例に漏れること非ず、彼らは心に拠りて魔法を唱えるが、それ即ちこの世の全てとの対話において万物へと心を捧げる行為に等しく、ともすれば魔法使いは魔法を紡ぐ行為の中で心を削り力を得ているのである。


 言うなれば一種の契約とも考えられるが、殊更に強い魔法は殊更に『強い心』の代償にて紡がれるのであり、心が弱ければ紡ぐことは不可能であるのではないだろうか。そう、べアルドット、ルール・ルルフ、アリーシア、マノエ、カトス、カタリナ、サノッチ、ノクテ・オリエス――これから名を記す強い魔法使いに総じて言えることは、彼らが一概にして強い心を持つということだ。


 だが、強い心とは一体何であるというのだろう。ここでは良くも悪くも歴史に名を遺す彼等の例を挙げ、その心について考察を加えるとする。強い心とは――心も何もその原理を証拠立てるものは何一つとして明確化することが不可能であるものの――私が最も確信と疑念を持って言えるとすればそれは……』


 ――テセウス・ノーチェ著【魔法使いの心に関する想像と考察】



 *****



 静寂に包まれた部屋の中で、アリシアは背を丸めて床の上に蹲った。

 部屋に戻った瞬間からアリシアに無視され続けた小麦色の獣は、いつの間にか口を閉ざし、ただただ宙を浮遊している。


「う、うぅ、うぇっ」


 未だに残った恐怖で身体は震えて、途端に沸き上がってきた烈しい悪心にアリシアは口へ手を当てた。


 目の前で人が死に、人形が人間の死体となって、まるで信じられない数々の光景が脳裏に蘇る。今になって、あの時感じていなかった現実感と戦慄が体を突き抜けていた。

 思い出すだけで吐き気が込み上げてくるが、口から出てくるのは咥内に溜まった唾液と嗚咽。収まらない苦しさと痛みがいつの間にか涙となり、目尻から溢れ出して、口元を抑えた手の指先で唾液と交じり床に流れ落ちていく。


 恐怖に見開かれた女の瞳が、助けを求めた男の瞳が、あの開いた瞳孔に映る自分の姿が、忘れようにも忘れられない。まだずっと、あの瞳に見られているような気がしてならなかった。

 

 いっそおかしくなってしまえれば楽なのに、全身を満たしている嫌悪感と今なお続く痛みに全てが支配されていた。

 何処も彼処も焼き切れるように痛い。そのせいで思考が現実の中に引き留められ、意識さえ千切れる寸前を無理やりに繋がれているような状態にある。

 感情と思考がかけ離れ、めまいがするほどの頭痛の波が押し寄せる。顔の中心に熱が籠もり、零れ出した嗚咽に喉が上下に動く。うまく呼吸さえ継げず、嗚咽さえも途切れ途切れになって。


「うっ、うぅぅぅ、ぅっ……」


 この先どうしたら良いのか、まったく分からない。


 誰かを助けたことに、決めたことに、後悔なんてない。そう威勢良く宣言した自分がひどく馬鹿らしく思える。口で言うのは簡単だ。自分で決めた道といえばそれまでで、けれども、こんなことになるなんて一体誰が想像できただろう。


 全く心の中に後悔がないと言えば、嘘。

 死にたくなかった。

 なんであの時、助けたのだろう。

 どうしてあの人の手を取ったのだろう。


 結局のところ「後悔なんてない」というのは、自分の中に沸き上がる感情を抑えつけるだけの言い訳。自分のした行動を後からあれは失敗だったと思いたくないだけの強がり。ただただ、良い人ぶりたいだけの、後先も考えずにした偽善だったのかもしれない。


 一つ芯の通った、強い心が欲しい。


 自分の信念に沿って、自分の決めた道を真っ直ぐ突き進める。心の赴くままに迷うこと無く、誰かに流されることも無く、うじうじと悩むことなんてしない。そんな人間になることに憧れていた。


 この身体は、アリシアは、どんな女性だったのだろうか。

 ぴんと伸びた背筋。美しく自信に満ちた微笑み。堂々と自分の意思を持つ視線。それはまるで憧れを体現したかのような姿で、ちゃんと地面に足を付けて、自分で立つことができる佇まいを持っていた。


 対する自分はどうか。自分自身の足下さえしっかりしていない人間が、憧れそのものの姿を持つ人に成り代わるだなんて、土台無理な話だったのだ。


 ――どうして私がこんな目に?


 そればかりが、アリシアの思考を占領している。

 けれどもその答えは明白だ。炎に呑まれて死にそうになったあのとき、不思議な夢の中に現れた女性に死にたくないと願った。助けを求めていたあの女性の手を、自分の意志で取った。


 ――そうしたのは、紛れもなく私。でも、


「あ、……わたし、って……だれ」


 ただでさえ柔い自分の足下が砂の如く崩れ落ちていくような感覚に、アリシアは、思わず床へと両手を突いた。

 何か大切なことを忘れていて、忘れたことすらも忘れてしまっている。


 ――わたし、あんたには幸せになって欲しいの。

 ――本当に、許してもらえるわけないけど……ごめん。

 ――誰かの手を取って、誰かに寄り添える、優しい人になって。

 ――いつも笑顔を忘れずにいるのよ。


 頭の中に誰かの声がどっと流れ出す。それはこの身体の記憶ではない。

 いつからかだろう。一人の中に二人が混ざって、そのうちの一人分が消え始めている。いつからだろう。恐ろしい体験にショックを受けていたはずが、どこかで心は平然としている。いつからだろう。頭の中で響く声が、誰のものかさえ分からなくなったのは。


「あ、あ、ああ、ああっ」


 いつからだろう。自分の名前がアリシアだと、思い始めたのは。


「私の、私の名前……なまえは、……イヤ、いやだっ、わ、わたしっ!」


 大きくかぶりを振れば振るだけ、記憶が陽炎のように揺らめき、形を失っていく。綺麗さっぱり、跡形も無く、自分が消えてしまう。自分の状況が罪に問われるかもしれないことよりも、自分が自分ではなかなっていくことが、震えるほど恐ろしく感じている。


「あぅ、うぅうっ、そんな、なんでっ!」


 いや、これは夢なのだろうか。でも、そうしたら、この痛みはなんだろう。

 もしかしたら始めから、そんな記憶はなかったのではないか。ここがアリシアにとっての正しい場所で、頭の中にある別の場所の記憶こそが、妄想だったのでは。違う、違う! それはない。絶対――そんなことは――ない、とは言い切れなかった。

 

「かえり、たい」


 心の中が妙にしんと静まり返り、冷めた背筋に生温かなものが通り抜けた。頬から滴る雫が足下に広がる底なしの沼に落ち、ぽちゃんと音を立てて水面を波立たせ、心をいともたやすく揺さぶった。


 帰りたい。戻りたい。


 漠然と浮かび上がる衝動だけが突き抜けた。なんて身勝手。けれども、何も言わないまま身体を渡したあの人も、随分と、幾分と、身勝手。お互い様だ。


 元の場所に戻るには、どうすればいいか。


 戻れば、あの人に身体を返せるだろうか。けれどもあの人は、どうなってしまったのだろう。

 戻ったとしても、死んだ自分がどうなっているのかも分からない。――否、死んだということもあの人から聞いたことなのだから、もしかしたら、まだ。


 冷たいフローリングの上に倒れ込み、そのままアリシアは蹲った。

 噛まれた右腕の皮膚は黒ずみ、指先は木炭のようになっている。痛みが頭から足先までをも侵していく。何度も鳴り響く雷のみたく、断続的に痛みが脳天を貫いて、そのたびに身体が引きちぎられるようだった。


 ただひたすら、アリシアは痛みに床の上をのたうち回った。壮絶な痛みに声すらも上げられず、息を接ごうと口を開けば喉の奥からは赤黒い液体が溢れ出して、もう何が混ざったかも分からない床の上に散っていく。次第に感覚が失われていき、アリシアは横たわった状態で何度も粗い息を繰り返した。


 もう、どうでもいい。耐えきれない。

 このままでいれば、帰れるのかもしれない。


【――御主人。また、死ぬのですか】


 そう、頭の上から声が振ってくる。その声には、何の感慨もなかった。悲しそうでもなく、嬉しそうでもない、なんとも平淡に落ち着いた音であった。


 そういえば、いたのか。


 身体を投げ出して横たわったまま、視線だけを動かして少し上を見上げる。膜が張ったようにぼやけた視界の中で、小麦色の塊が頭の隣で行儀良く座り、アリシアを見下ろしていた。


 帰る。


 そうアリシアは答えようとして、けれどもそれは、言葉にはならなかった。一体、どこに帰るというのだろう。


 ぱちん、ぱちん、と耳の奥で音が鳴る。聞いたことのある音だ。どんどん視界の隅が黒ずみ、ぱっと世界が白く光る。見たことのある光景だ。

 ぱちん、ぶつん。耳の奥で何かが切れた音。今度は、一際大きく聞こえて。


 そして、暗転。

 何もかもが消え、意識は何も無い暗闇へと瞬く間に沈む。


 ――もう一度、再び。



 

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