理想の理想のそのまた理想



 男は笑い、そして澄ました顔で魔法を唱えた。「【ロディエク】」――その言葉にケースから黒い煙が吹きあがる。そこには二頭目の死霊が姿を現していた。


「そんなあ!」ルーカスが絶望の声で叫んだ。「二頭目だって!?」


 死霊は首を長く伸ばして、鋭い牙を剝きだした。地面を抉り、木をなぎ倒し、襲い来る獣を避けながら、ノアが男に直接魔法を放った。男の顔には絶対の自信があった。魔法はいとも簡単に防がれ、反撃がくる。

 とうてい頭数が足りないが、グレンとルーカスが一人当たりで五つ頭を担当し、襲い来る首を次々と避けては切り落としていく。しかし切っても切っても、切り口からは頭が再生し続けている。


「リベラ捜査官、あなたも随分腑抜けた。死神と恐れらていたあなたがこうも手間取るなんて……弱っているという噂は本物だった」


 言葉の裏には嘲笑がある。今ここにいる、アリシアであってアリシアではない存在への、それは妥当な評価だった。


 アリシアはずっと、自分にできることを考えていた。


 抉れた歩道の瓦礫が飛んでくる。おどろおどろしい姿の獣が大きな口を開けて間髪入れずに襲い掛かってきていた。噛まれてしまえばおしまいだ。幸いにも、身体は驚くほど自由に、そして軽々しく動いていた。

 考えて考えて、考えるたびに手足が震えて。逃げたい、怖い――耳の奥で叫び声が聞こえてくるのに――「【セーレハルニア】」――そう、口が勝手に魔法を唱え、差し迫った犬の頭をいくつも落としていた。

 あの男をどうすればいいのか、いつの間にかアリシアは考えていた。ノアに加勢しようとしても、永遠に再生を繰り返す死の獣が邪魔をしていた。 


(あの魔力でこの契約は無理)


 アリシアは頭を振った。耳奥から自分の声が聞こえる。


(魔法を支える媒介物)


「ケース!」


 同じことを考えていたのか、グレンの声と、アリシアの視界にそれ映るのはほぼ同時だった。

 あれだ。アリシアは身を翻して、手にしていた杖を振った。トランクケースが口を開けたまま宙を飛び、目の前の地面を滑る。ケースの中は真っ黒だ。底の無い闇が詰め込まれている。


「シア!」と、ノアが叫んだ。

「やめろ! それに触るなっ!」


 男が焦燥を顕に魔法を放った。雷のような光に周囲一帯が青白い色を帯び、光線が幾重にもなって乱れ、辺りは騒然となった。

 男の魔法を防ぐことに必死だったアリシアは、その時、牙を剥いた獣のに対する意識を逸らしてしまっていた。右腕に鋭い痛みが走った。目を向ければ、太くて大きな牙が腕に食い込んでいた。

 アリシアはすぐに獣の首を切り落とした。黒い袖に空く二つの穴に、溢れ出した血液がぐんぐん染み込んでいく。


 不思議なことに、痛みはなかった。


 だからアリシアはそんなことを気にも留めず、目の前にあるスーツケースへと目を向けた。開けっ放しの蓋の裏側に、黒い円形の模様。複雑な線がいくつも絡まった、魔法陣の様なもの。

 アリシアは一もにもなく杖でその線を切った。綺麗な線の一つがぶつりと断たれ、模様から真っ黒な液体がどろりと溶ける。溢れ出した黒墨が、蓋の溝へと溜まっていく。


 刹那、十の頭が一斉に男へと向いた。男は短く悲鳴を上げて、後ろへと退いた。


 ――突如、標的を変えた獣たちが、男に襲い掛かった。


「ぎゃぁああッ!」


 男は断末魔の悲鳴を上げ、抵抗する間もなく獣に噛みつかれた。その噛まれた箇所からは黒い痣が広がり、そこから、ボロボロと男の身体が崩れていった。まるで塵のように、紙屑のように、男の身体から剥がれ落ちて、風に撒き上がっていく。


 そんな、とアリシアは声に出していた。このままでは、男は死ぬ。


「や、やめ――たすけ」


 アリシアに向かって、男がそう、口を動かした――ような気がした。

 恐怖を張り付けた目と、視線が合う。助けを求められていた。どんどん身体が崩れていくまま、男の身体は獣たちに引き摺られていく。

 男が残った腕を上げ、伸ばしかけたその瞬間。バチン、バチン、と落雷のような音が二度鳴った。思わず閉じてしまった瞼を開くと、獣の姿も、男の姿も、その場から消え去っていた。ただ男の金切り声だけが辺りに残響していた。悲鳴は木々を揺らし、次第にか細くなって、そして聞こえなくなった。


「あーあぁ……」


 これから何が起こるのかを予想していたかのように、ノアはゆるりと身体を起こして姿勢を正した。


「過ぎた力は身を亡ぼす。魔法の基本なのに」

「連れてかれたな」

「後味の悪い終わり方っすね」


 肩を竦めたグレンに、ルーカスは苦笑した。サングラスで表情はうかがえないが、同じような気持ちなのだろう。


「『怒れる《幻想生物種レヴェリー》触れるべからず』、仕方ない、自業自得だ。俺らの最優先事項は調! その過程がどうであれ、な。事実、身柄確保は理想の理想のそのまた理想だ」

「……ほんとは法で裁かれるべき、ですが」


 ノアの言葉に、グレンは大きく溜息を吐き出して、残されたトランクケースの蓋を押し上げた。

 グレンの動きを目で追って視線を落とす。ふと、足元で何かが光り、アリシアは膝を折った。


 指輪。


 アリシアは、ベンチを見た。人形だった人間の手にも、同じような指輪があった。

 光を失った瞳。恐怖と苦しみを塗りつけた真白の表情が、ベンチに座ったままアリシアをじっと見つめている。――否、もうそこには、誰も座ってなどいない。ケースに視線を映した。目の前で消えていった男の最後の顔が、瞼の裏にこびりついていた。

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