我々は『梟の魔法使い』
透き通ったガラス玉の青い瞳がくうを見つめている。精巧な人形はベンチに背をつけて坐し、力なく腕を放り投げていた。
子供の忘れ物だろうか。アリシアは人形を拾い上げようとしたが、しかし、それは叶わなかった。
人形は鉛かと思うほど重たく、片手ではびくとも持ち上がらないのだ。右腕だけを掴んで持ち上げるが、それは到底、人形の片腕の重さではなかった。
虚空を見つめる青い瞳に、アリシアは眉を寄せた。身に纏うドレスは華やかだ。艶やかに光る赤毛は緩く巻かれ、肩口でカーブを描いている。そして人形にしては、とても精巧な顔つきをしている。
まるで人間みたい。
不気味に思い始めて距離を置こうとしたその時、下がったアリシアの肩が何かにぶつかった。
「――人形はお好きですか?」
耳元に息が掛かる。
甘い調子の声音に、背筋がぞわりと震えた。男の声だと脳が処理を重ね、咄嗟に距離を取りつつ振り返ったアリシアは、その形貌を視界に入れた。
見た目は若そうな風貌であった。黒のハンチング帽を被っており、俯きがちなその表情に影が掛かっていた。同じく黒と見えたトレンチコートは街灯の光を受けて深緑色となり、右手には角ばった茶のレザートランクが握られている。
「またお会い出来て光栄です、リベラ捜査官」
男は笑う。芝居がかったように。対してアリシアは、「ハ?」と音にならない声を出していた。内心では、誰だこいつ、である。その言葉は口には出さなかった。アリシアの全身が、目の前の男に警鐘を鳴らしていた。
「今日はあなたのためにお一つご用意しましたよ。どうですか」
男はそう言って、ベンチの上に座らせていた人形をみやった。どうですか、だって。男が一体何を言っているのか、アリシアにはわからなかった。この男とアリシアは、知り合いなのだろうか。だが、仲間には――見えない。
「……わたし?」
「ええ、喜んでいただけると」男はベンチに近づくと人形を見下ろし、「ですがもう、この子も必要ないようですね、残念だ」
と言って、人形に向け何かを呟いた。風の囁きのように小さな声だった。
すると目の前で、人形の輪郭が動いた。まるでゼリーのようにグニャグニャと歪み、人形は少しずつ大きくなっていく。そのまま手足も胴体も顔の部分をも残しつつ、アリシアとほぼ同じくらいの大きさになった、それ。
アリシアは目を疑った。首元にちりちりと静電気が走った。
「以前ここでお会いした時、あなたは私と同じでお好きなのかなと思ったのです。でも、お気に召しませんでしたか」
まるで、若い女の蝋細工だった。魂がそこから抜け出ていったかの如く半開きになった青白い唇。光を失った蒼い瞳が、恐怖と苦しみを塗りつけた真白の表情が、アリシアを貫いていて――そして次の間に、その頭が、かくり、と重力に従い前へ倒れ落ちる。
ドレスの袖から覗く腕は小枝みたいな細さで、だらり投げ出されたまま。けれどもその指の中ほどで光る指輪を見た瞬間、背筋の上を冷たいものがゾワっと撫で上げた。
人形をそっくりそのまま、人間に、作り替えたかのよう。精巧だと称するにはあまりにも人間にそっくりで。
口の中の水分が全て失われ、アリシアは飛び退いて、男から距離を取った。男は人形であったものから目を離し、アリシアに向かって、にこりと笑いかけてきた。
「じゃあ、あなたを人形にしましょう」
「ハ……わ、たし?」
「良いと思ったんです、リベラ捜査官。特にあなたのその、美しいタンザナイトの瞳。初めて見た時から気に入っていました。珍しい色をしている」
男は笑みを崩さずに言う。絶対にヤバい。変質者だ。
だというのに足はまったく動かない。今すぐここから走り出したいのにもかかわらず、全身が叫んでいた。
目の前の男から逃げるな。
目の前の男は、罪を犯した者。
目の前の男は、アリシアの敵。
魔法を紡げ。声を上げろ。
そう――まったくもっておかしな感覚、体感。胃の奥底から何かが迫り上がってくるのに、頭は非常に冴え渡っている。それが余計に気持ち悪い。この感情は、感覚は、いったい誰のものなのか――。
「シア!」
勢いよく鼓膜を突き破った声は、ノアのものだった。次いでアリシアの横を、男目掛けて白光が走った。白光は男の胸元で防がれ、二人の間で小規模に弾け散った。
白光は目が潰されるかと思うほど眩しくて、男もアリシアも、咄嗟に目を閉じていた。それでも目の奥がチカチカと光を纏い、鋭い痛みを帯びる。
後方から走り寄ってきたノアが、固まったまま動かないアリシアの腕を思い切り掴んで引く。
アリシアはうめき声を上げてよろけ、引き寄せられた方向に足を動かした。パチパチと視界の中で光が点滅する。男からも、ベンチからも、だいぶ距離が取られて、隣にはノアが厳しい表情を見せて、アリシアの腕を掴んでいた。
「何をしているんですか!」
唖然としたアリシアに対し、ノアはもの凄い剣幕で叫んだ。
「魔法の使い方すら忘れたんですか!?」
「あ――、ご」アリシアはどもった。「ごめん、なさ」
ノアがアリシアを一瞥する。鋭い視線に、アリシアは閉口するしかなかった。
「……怪我は」
「な、ない」
「魔法は一秒が命だと、……そう言ったのはあなたじゃないか」
「――……さっきの、燃えてたやつ、は」
「あちらは粗方。他の仲間も来てます。ですから残るは」ノアは男を見据えた。「『人形師』」
「……あの、人は」
アリシアはベンチに座る躯に、恐る恐る顔を向けた。
「残念ですが」と、ノアが淡々と返す。その声音にアリシアの口内からは水気と言う水気がほとんど乾ききって、喉の奥までもカラカラになっていた。
「……よくも邪魔を」
地の底を這うような低い声が聞こえる。発光に目を眩ませていた男が、目もとを手で押さえたまま、ふらりともう片方の手を挙げた。
次の瞬間、ノアに押されるまま、アリシアは右へ倒れ込んでいた。二人がいた場所の瓦礫が抉れ、石礫と砂ぼこりが舞っている。ノアが飛び起き上がりながら杖を振った。それを弾き飛ばした男の胸元で白い幕が散る。続けざまに男が杖を振りかぶる。
「うッ!」
腹部に一撃があって、アリシアの頭は、その一時痛みに塗りつぶされた。何が起きたのかさえ、分からなかった。後ろへと吹き飛ばされて、木の幹に身体を打ち付ける。
「【レヴィス・アステ】! ――しっかりしてください、シア! シア!?」
男とノアの攻防は、目には追えないほどの速さで繰り広げられていた。
杖を振るたびに放たれる互いの魔法を、また互いが杖を振って防いでいく。石畳を粉々に抉り飛ばし襲い掛かる魔法に、ノアがそれを防ぐように杖を前へ翳した。アリシアには、何もできなかった。ただ痛む腹を抑えて蹲っているしかできなかった。
全身が痛いのか、何なのか、ぐっ、と腹のあたりのスーツに皺が寄る。それでもアリシアは足に力をいれて、立ち上がった。
男はノアの攻撃を防ぎながら数歩後ろへと下がると、深くにやりと笑った。ベンチに項垂れていた人間の躯に近づくと、その場で手にしていたトランクケースを地面に落とす。――ケースが、ぱかりと口を開けた。
途端、轟々と音を立て、四角い茶色の鞄の奥底から、石礫を含む黒煙が噴出した。
巻き上がった砂塵はまるで生き物のように口を開け、ベンチ上の躯を飲みこむと、またケースの中へと吸い込まれていく。
一拍、静寂。
次の瞬間、火山口から噴き出す溶岩のように、何かが激しく湧き出した。それは巨大な獣の形をしており、勢いのまま飛び出してノアに噛みつこうとした。
「【セディエルア】――ッ! ノア、そいつは『ホルトゥ』だ! 嚙まれるなよ!」
「『ホルトゥの死霊』!?」
空気を裂く一閃。厳しい声と共に、先ほどアリシアが見たサングラスの男が息せき切って駆け付けた。その後ろにはもう一人、誰よりも――もしかしたらアリシアよりも――青白い顔をした茶髪の青年もいる。
二人とも、夜に紛れるような黒い衣服に身を包んでいた。サングラスの男はグレン。茶髪の青年はルーカス。どちらもアリシアの同僚だ。
「クソッ! あの番犬よりタチが悪いな!」
やって来たグレンは苦々しく吐き捨てる。その表情はどこかげんなりとしていた。
「分裂していないだけましか……」
「ははっ、ですね。死霊もさっきみたく骨を投げれば喰いついてくれるかな」ルーカスが冷や汗を流しながら笑いを溢し、アリシアのほうを向いた。「アリシアさん、大丈夫ですか」
「え、あ、ええ……大丈夫、動ける」
「本当か?」と、グレンが怪訝そうに眉をひそめる。アリシアは頷き返した。「なら良いが気が抜けてるぞ……、っ!」
グレンの魔法の障壁が、五つの頭を持つ死の国の獣、その頭を阻み、切り落とした。残った四つの頭が悲痛な叫び声をあげたが、切り落とされた首からまた新しい頭が再生する。ノアは強張った表情で後ろへ飛び退き、グレンの隣に並んだ。
「流石、梟。よくご存じですね。『ホルトゥの死霊』……噛まれたら最後、そこから呪いに侵され死に至ります」
「よくもまあ、こんな大層な〈
「私はそこらにいるヤワな魔法使いじゃない」
黒いサングラスの向こうにある表情は見えないが、肩をすくめたグレンに、男はうっそうと笑みを深めた。
「ですが、贄となるものは掃いて捨てるほど、そこら中にいる。死霊は死んだ人間が好みなんです」
「……作った人形を、人間を、贄にしていたのか」ノアが問いかける。
「人間も本望ではないでしょうか。私の人形になれば、いつまでも綺麗なままでいられる。人間は我々とは違って百年も生きられない。短命で、すぐに老いる哀れな生き物なのだから」
「まったく歪んでる」
――ノアはひとつ息を吐き出して、深い紺青の瞳を細めた。
「魔法による大量殺人、及び魔法による人間の魂の変形行為、そして登録禁止魔法の使用。お前の行為も、その魔法も、我々が見逃すことはできない。魔法法第一章第一項『魔法使用に関わる基本的規定』を充分に違反している。それは理解しているのか?」
「あはは、ええ。分かっていますとも。……だが、私たちは魔法使いだ。人間が決めた人間のためのルールに従ってやる義理はなどない。――そうでしょう?」
「いいや。これは人間と魔法使いのためのルールだ」
力強い眼差して、ノアが男を見据えている。その瞳に宿る光は、まるで群青の波間に揺れる眩い陽光のようだとアリシアは思った。
「我々は『梟の魔法使い』。よって、お前の身柄を拘束する」
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