第3話【混乱 / Confusion】
記憶喪失になっちゃった
第3話【混乱 / Confusion】
――ドォンッ!
怪訝な表情でノアがアリシアの顔を覗き込んだその瞬間、周囲一帯の空気が地鳴りのごとく震えた。彼の斜め前方の方角で強烈な赤の閃光が迸り、炎が爆ぜる。ビュン、と何かがこちらへと向かってきて、並んだ二人の箒の間を太い木の枝が音を立てて飛ぶ抜けた。
あんぐりと口を開けてノアを見ると、ノアはまるでいつものごとくと言いたげに肩をすくめ、「あそこか」と呟いた。
「い」アリシアはあまりの衝撃に息を呑み込んだ。「いま爆発しなかった?」
「しましたね。きっとルーカスでしょう。あいつ、何かにつけて何でもかんでも爆発させるのが得意ですから。行きましょう、シア」
「何かにつけて……そ、そっか」
「……そうです」
色とりどりの閃光が散る。その様子に目を細めていたノアだったが、アリシアの歯切れの悪い返答を聞くと、じれったそうに唸った。そして頭を振って箒を急停止させ、「本当に、いったい今日はどうされたんです?」と、顔を向け、固い声を絞り出した。
「少し、いえ、かなり、今日のあなたは何処か変です! い、いやいつだって変だったけど、今日は一段と、変じゃないところがおかしくて、あれ? おかしくないからおかしいっていうのも何だか変だけど、おかしいことが反っておかし……うん?」
「ん?」ゲシュタルト崩壊を起こした『おかしい』に二人揃って首を傾げる。「おかし?」「おかし、じゃなくて!」
ノアは語気を強めると、大きく息を吸って呼吸を整えた。
「ともかく! 今日のあなたは、いつもと違って」
「あ、あー」アリシアは目を泳がせた。それもアリシアにしてみればおかしな挙動だっただろうが。「私がおかしいって話ね。確かに私はおかしいみたいだけどね」
「それ、自分で言うんですか……」
「ただちょっとさっき、ほんとにちょっと、その、頭を打って。多分それで」
「頭? 頭を打った? だからあんなに部屋が散らかって?」
「そ、そうなの。色々こう、ぶつかっちゃって? なんだか頭がぼんやりしてる。その前のことがどうにも思い出せないの」
「思い出せないって」ノアは悲痛そうに顔を歪めた。「もしかして、記憶がない?」
「そ、そう!」アリシアは素早く頷いた。これは使える。「記憶が! そう、私、記憶が色々と……」
「記憶、喪失に」
「なっちゃった……みたい。あはは、はは、そうそう記憶喪失」
笑みを浮かべるアリシアに、青年は形の良い眉を困惑気に歪めて言葉を失った。その表情に、アリシアさえも少し言葉に詰まってしまう。
本当のアリシアとノアがどのような関係であったのか、アリシアには推測することができない。先程自分の魔法を思い出した時のように、いつかはアリシアの全てが分かる時が来るのだろう。しかしそうであったとしても、アリシアは、今まで生きてきた本当のアリシアではないのだ。
「えっとその――ええ、ごめんなさい」
「ごめんなさいってそんな」
アリシアという人間は、『ごめんなさい』という言葉を簡単に口に出すような女性ではなかったし、へらりと顔を緩めて笑う人では断じてなかった。
『死神』もしくは『氷の女帝』。それがアリシアの持つ異名の一片。
世界中全ての魔法使いに畏怖と畏敬の念を向けられる魔法使い。有能かつ頭脳明晰、加えて、冷酷無情な女傑。今では鋭い爪を持つ闇夜の梟として活躍し、微笑みの中で光る絶対零度の眼差しは、罪を犯した多くの魔法使いに注がれていた――はずが。
ノアの表情は見る見るうちに強張った。まるで目の前にいる人が突然死んでしまったかのように、顎を落して、瞬きすら忘れ去った視線がアリシアを貫く。わずかに震えた唇を、アリシアは見逃さなかった。その端整な顔が青ざめ、そこには狼狽の色が漂っていく。驚愕に慄く彼の背後をまた何かが高速で通り抜け、巻き上がった風に黒髪が舞った。アリシアは彼のこんな表情を、初めて見たような気がした。
「記憶喪失……」
「信じられない、よね」
「は……いや、むしろ信じられます。そんなまさか……」
茫然と頭を抱えるノアに、アリシアは内心でガッツポーズを掲げていた。よし、記憶喪失でいこう。こうも簡単に信じてもらえるとは、思ってもみないことだった。
「と、とりあえず行かない? なんか、すっごいことになってそう」
アリシアは今な飛び交う光線の先を指さした。ノアは愕然としたままゆるりと頷く。二人は箒の柄の先を向けた。
「どこまで覚えていますか。いや、何を覚えていますか? 俺のことは?」
ノアの声はいくばくか震えていた。
「覚えて――うん、いるというか、いないというか」
「すっごく微妙な返答だ。僕はノア。ノア・エヴァンズです、アリシア」
その瞬間、アリシアの頭の中で何かが閃いた。音にしたら、ピキーンッ、と。咄嗟に片手で頭を押さえると、洪水のように口から言葉が溢れて出てきた。
「あなたはノア。ノア・エヴァンズ。一ヶ月と十五日前から私の部下兼相棒で準一等魔法捜査官。名門エヴァンズ家の次男。《
「良かった、全部が抜け落ちてるわけじゃあないんですね。その調子なら、いずれは戻りそうか」
突然頭を突いて出たようにして口走ったセリフだったが、アリシアはその半分も理解できなかった。どうやら目の前の青年は、魔法使いの中でも『天才』と呼ばれている存在であるらしい。少なくともアリシアはそう思ているようだ。
「……色々なことが抜け落ちてる。何があったとか、どんな話をしたかとか、そういう細かなことは……」
「この一か月と十五日の間のことも?」
アリシアは首を縦に振った。「そうですか」と、ノアは淡々と答える。
「ちなみに私はあなたのこと、なんて呼んで」
ましたか、と今更ながらに聞きそうになって、アリシアは寸でのところで口を閉ざした。気を付けなければ。会って間もない相手に馴れ馴れしい口調で話すことも気が引けるが、背に腹は代えられない。アリシアはこの青年の上司であるのだから、敬語では話していなかったはずだ、と頭のどこかで何かがそう告げていた。アリシアの記憶から、その何かが引っ張られているのかもしれない。
現にこれまでの会話で、ノアはアリシアの口調について――歯切れの悪いこと以外――は指摘はしていない。ここでアリシアが敬語を使って話を始めたら、それこそノアが箒から落ちてしまいそうだ。
ノアはほんのわずかに悩むようなそぶりを見せた後、「――ノア、と」。そう告げて緩く微笑んでから、地面に向かって急降下した。
「……ところで大魔導師って何?」
聞き忘れていた問いに首を傾げたが、答えをくれる人の影は既に、濃い闇の中へと消えてしまっていた。
******
冷たさの残る空気を切って降りると、眼下には、煉瓦造りの建築物と道路に囲まれ、うっそうと樹木が茂る広大な敷地が現れた。微かな光を灯す街灯が、点々と整備された遊歩道を照らしている。遊歩道に沿う花壇には、綺麗に植え付けられた花々が霧雨に濡れた花弁を重たくしならせていた。
そこは来たことのあるような、ないような、闇に包まれた広い公園だった。
木々の間を器用に抜けて、曲線を描く遊歩道の一角で箒を止める。歩道のきわに降り立ったアリシアは、静まり返った周囲をぐるりと見渡した。
爆発音は鳴り止み、雷のごとく鋭い光線はいつの間にやら止まっていた。不気味なほど辺りは静まりかえり、遊歩道にも、木々や芝生の向こうにも、人の気配すら感じられない。先に降りたはずのノアの姿さえ。
「ノ……ノア?」
そこには暗い闇と怪しな街灯の光があるばかり。一歩、二歩、敷き詰められた石畳の上を歩く。ぶわりと冷たい風が全身に纏わり、アリシアは目を閉じて――そしてまた、開いた。
視界に、眩いほどの閃光がいくつも迸る。静かな公園は消え去り、そこは地獄のような喧騒に包まれていた。
「アリシア! ぼぅっとするな、
突如、真っ黒なサングラスをかけた髭面の男が、黒い影に押されるように右側の雑木林の中から現れて、走り抜けざまにアリシアに向かって叫んだ。男もまた闇に紛れるようなスーツに、重たそうなローブを羽織っている。
男は追われていた。ゆらゆらと炎のごとく揺らめく、闇よりも濃い影に。さながらそれは犬の姿形にも似ていた。鋭い目は不気味な赤光を放ち、ぼとぼとと石畳を汚す黒い影からはまた何匹も新たな影が形成されていく。
無造作に後ろで束ねられた黒髪を乱し、男は次々と飛び掛かる黒い犬に向かって手にしていた杖を振った。白い閃光が稲妻のように影を貫く。
「あの野郎、ディゼバの炎とアウセンディーヤの番犬を出しやがった――クソッ! ルーカスのやつ、俺に……覚えてろよ!」
男の魔法は的確に影を貫いていた。しかし影の犬は次々と生まれていく。男はアリシアの目の前を風のごとく走り抜けて、また攻撃を放ち、悪態を付きながら左の雑木林へと横切って行ってしまった。アリシアが最後に見たのは、男の苦虫を噛み締めたような表情だ。
置いてけぼりのアリシアの上空でも、あちこちで極彩色の光線が空を駆け抜けていく。整備されていた敷石は剝がれ、花壇の植物は茶色く枯れていた。木々が遊歩道の上になぎ倒され、森の一角は――もしかしたらあれは先程の爆発かもしれないが――濃紺の空が赤く染まっていた。
その煙の中を、誰かが箒で突き抜ける。人影は二、三見えるが、その中の一人はノアである様にも見える。
火事だ。火の手が上がっている。アリシアは身をこわばらせて後ろに退いて、自分の目を疑った。火の手、というのはあながち間違った表現ではなく、木々をなぎ倒しながら上がった火は人間の手の形をしていた。『ディゼバの炎』。炎の悪魔の化身。見間違いでもない。それは飛び回る人影を追い掛けて、木々の上を横へ動き、くうを薙ぎ払った。一層赤く空が燃え、雑木林の中にのっそりとした動きで、赤い炎の怪物が姿を現した。
「ヒッ」
喉の奥から短い悲鳴が上がった。アリシアは衝撃のまま、後ろに数歩足をよろけさせた。体温が無くなったと思うほど、指先が冷たくなっている。
高いヒールに足が縺れた次の瞬間、熱風が頬を撫で。
――目の前に、人気のない静かな公園が戻っていた。
「……えっ?」
鮮烈な光の筋も、闇を溶かした様な影の犬も、大きな炎の怪物も、そこには誰もいない。空は晴れやかな濃紺に星が瞬き、静謐な森と、ほのかな街灯の明かりが点々と灯る遊歩道が奥へと続いている。
「え?」
熱風ではなく、冷めきった風が再び体に染み込む。アリシアは言葉を失ったまま、もう一度、前へ足を踏み出した。
喧騒が戻る。遠くで白い閃光が走った。上空でも、他の場所でも。色とりどりの光が、闇の中で幾つも弾けている。炎の怪物が立ち上がり、灼熱の炎をまき散らしていた。熱がアリシアの肌を焼く。怪物が箒に乗って飛び回る人物を捉えた。燃え盛る手が大きく振り落とさる。火柱が上がった。一拍を置いて灼熱の暴風が吹き荒み、身体を押されたアリシアはまた後ろへ下がった。
――私には。
静寂に包まれた公園に、梟の鳴き声が響く。
綺麗な石畳に視線を落として、アリシアは思った。無理だ。足を前に出す勇気がない。身体が後ろへと引っ張られてしまいそうだった。
何かしらの魔法によって、本物の公園と、この足一歩分の先にある場所は、同じであって同じではないのだろう。それは理解していた。けれども身体は、何一つとして理解できていない。
そのまま視線は後ろに逸れ、図らずも自分の斜め後ろにあるベンチを映していた。街灯に照らされ、ぽつんと寂しげに佇む木造のベンチだ。
ベンチは、遊歩道に等間隔で置かれていた。けれどもその一つが、やけに目について離れない。ジジ、と街灯が小さく音を立てた。灯火の周囲に虫が数匹集まっている。
ベンチの上には、小さな可愛らしいドレス姿の人形が置かれていた。
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