これを機に生活習慣を見直してください



 こてりと傾いたままの首。つぶらな瞳がアリシアを射抜く。


「そ、そうなの! もしかして分かる? 私はこの人じゃなくて……」

【この人じゃなくて? じゃあ、あなたはいったい誰?】

「私は――……っ!? わたし……あれ」


 アリシアは頭を抱えた。思い出そうとしても、何の言葉も浮かばないのだ。喉の奥まで出かかって、記憶の塊がそっくりそのまま、もうすぐ出てきそうなところで留まっている。


 頭に当てた手を見ると、今までの記憶が全て、両手から零れ落ちていくような気がした。そして、きっとこれから、記憶を忘れたことさえも忘れて――


「わ、わたしは誰だっけ……私はアリシアっていう名前で、ここに来る前の名前は……」

【アリシア。御主人。あなたが元の御主人じゃないことは分かりました。きっと魂が器に定着し始めたんですね】

「え……」


 可笑しな獣は口角を上げてそう言った。


【あらためて、新しい御主人、こんにちは。ボクはアンバー。幻想生物種レヴェリーの有翼クレイスティパノルス犬です】

「アンバー?」


 たどたどしくその名前を紡ぐと、アンバーは嬉しそうにはにかんだ。契約した相手の中身が違うというのに、朗らかで、少しの戸惑いも無い表情だった。まるで、こうなる事をかのように。


 幻想生物種レヴェリーも、有翼ナントカ犬というも、先程までのアリシアにとっては理解不能な言葉の羅列にすぎなかった。そのはずだというのに、いつの間にか脳がその言葉の意味を理解し始めている。


 知らない言葉や知識が、雨垂れの様にポツポツと落ちて、アリシアの中に新しい水溜りを作っていた。


 幻想生物種レヴェリー


 それは古来より語り継がれてきた、伝承と幻想に生きる種族。伝説の獣、伝説の生物、超自然的で神秘的な精霊や神の存在であり、遙か古代より人を魅了してきた、人間に在らざる生き物。有翼クレイスティパノルス犬も、その存在の一欠片として比較的よく知られている生物種だ。

 

【ボクたちは血の契約によって絆を結んじゃってますので、たとえ御主人の中身が別物でも、契約は有効なのです】


 アンバーは綿飴のようにふわふわとした尻尾を揺らしながら続けた。


【新しい御主人には色々と言いたいことがありますが、まず準備をしなければならないのでは?】


「じゅ、準備?」アリシアは素っ頓狂な声を上げた。


 そうだった。外であのノアという青年が待っているのだ。早速タイミングを見計らったように、「シア! まだですかーっ!」と、鋭い呼び声が飛んだ。「ちょっと待って!」と、アリシアは玄関に向かって声を張り上げた。


【アイツ、随分と生意気になりましたね。ああ、御主人の服はこちらですよ! 毎日同じデザインの服なんて着てますから、迷うことはありません】

「え、ア……うん」


 アンバーは空中を歩くように足を動かして、自由自在に部屋を飛び回り、クローゼットらしき扉の前で足を揃えた。アリシアが扉を開けば、そこに、待ってましたと言わんばかりの黒いスーツが何着か並んでいた。


 スーツ以外の服もあったが、どれも暗い色の服だった。アリシアは眉を顰めるしかなかった。まるで、クローゼットの中は喪中だ。


 どれも似たようなスーツを端から端へと引っ張って、アリシアは一先ず、一着を手に取った。着ていたジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを外したところで、じっと此方を伺う生物を見る。


「……あ、アンバー。見られていると、ちょっと恥ずかしいんだけど」


【どうして?】


「あなたは、その、性別はなに?」


【性別ですか。ボクに性別はありません! あぁ、もしかして見られていると気まずいのですか? 恥ずかしいのですか? あはは! 新しい御主人は変わったお方ですね。もうボクは御主人の着替えなんて、数えきれないくらい見てるんですよ!】


「そ……それは前のこの人の話でしょう」


【ウハハ! あのアリシアにも恥じらいの感情があったなんて! ウアハハハハ!】


「恥ずかしいときだってあるよ!」


 空中で腹を抱えるアンバーに、アリシアは小さく息を吐いた。相手は人の言葉を話しているが、犬だ。気にしなければ良い。


 アリシアは仕方なくスーツに着替えた。じろじろと此方を伺う視線を背中に感じながら。


 そうして着替えた後に、アリシアは隣にあった立て鏡に身体を映した。自分ではない姿が、決まったスーツを着てそこに立っている。これまた葬式に行くと言った方が腑に落ちるようなスーツは、やけにこの身体に似合っていて、そして、特別な装いのようのように思えた。


「なんか足りない?」


【お仕事に行くのですから、きっちりとね】


 鏡に映った新しい自分を見て首を傾げる。記憶に残る女の姿を思い出して、もう一度、クローゼットを開いた。足りないのは、ネクタイとローブ。


 扉の裏に皺のないネクタイが掛かっていて、アリシアは慣れない手つきでネクタイを締め、最後にソファに残していたローブを羽織った。


 そして見計らった様に、アンバーがくるりと縦に一回転して魔法を唱えると、アリシアの顔には薄化粧が施されていた。

 幽鬼のような顔が人並み以上になり、鏡の中にはあの時の美しい女性がいた。


【今日だけ特別、明日からは自分で】


 アリシアはそっと、鏡の向こうの自分に手を伸ばす。不思議な感覚だった。自分であるはずなのに、自分ではない。そんな感覚がずっと小骨のような違和感となって、喉の奥に刺さっている。


【それが御主人です】


 その長い耳を片方だけ折り畳んでいたアンバーは、アリシアの肩に乗って一緒に鏡を見ていた。


【御主人。あなたは本当に、『アリシア』になるのですか?】


 アンバーは静かに問うた。


【なぜ突然与えられた別人の人生を、歩もうとしているのですか?】


 たしかに、とアリシアは思った。何もかもが理解できないのに、流されるまま青年を待たせ、本を開き、黒いスーツを着ていた。いつもそうだった。まるで操られているかのように深く考えるまもなく、流されるままに、周りのことが決まっていく。アンバーからそう問われるまで、アリシアは信じて疑いもしていなかった。この身体の持ち主の人生を、引き継ぐことに。


 だが、アリシアは願ったのだ。流されたわけじゃない。自分で、決めた。――まだ、死にたくない、と。そしてそれを、どんな形であれ、あの美しい女神さまは叶えてくれたのだ。


「できることだけでも、やってみるよ。せっかくアリシアが助けてくれたんだから」


 アンバーはアリシアの言葉を聞いて、目を数回瞬いた。


【そうですか。――御主人、色々と分からないことも多いでしょう。これから起こる様々な出来事を通して、さっそく与えられた人生を、さっそく終わらせたいと思うことでしょう。ですがご主人がそう決めたのなら、ボクはそれに従うまでです】


「うん、ありがとう……アンバー」


【ええ! ボクは御主人想いの良い有翼クレイスティパノルス犬ですからね! お助けがボクの仕事です。では御主人、あまりに彼らを待たせると、また怒られますから】


「う、うん……」


 アリシアは玄関に置かれていたヒールに足を入れた。履いたこともない高いヒールだというのに、それはやけに足に馴染んでいた。

 立ち上がって玄関の扉を開けようとしたところで、アンバーがアリシアを呼び止めた。


【でも、いいですか。これだけは頭の中に入れておいてください。御主人は、『う、うん……』なんて頷き方は絶対しません!】


「え?」


 その黄金の瞳はいやに真剣だ。アリシアはごくりと唾を飲み込んだ。


【絶対に、ぜーったいに、御主人が以前のご主人でないと知られてはなりません! 話してもなりません! 玄関の外にいるあの生意気なこわっぱ君にも、あなたの仲間にも、絶対に。特に、同じ魔法使いにはですよ!】


「で、でもアンバーは分かったじゃない」


【それは契約があるからです。大抵は人にも魔法使いにも分かりません。でも、ボロを出したらオシマイですからね】


「え、ええっ、な、なんで?」


【いいですか、ボクは言いましたよ。言いましたからね、じゃないと捕まるんですよ!】


「捕まるって――捕まる!? 逮捕ってこと!?」


 そのとおり、とアンバーは声高らかに同意した。逮捕って、逮捕? 警察に捕まるということ? 手錠を掛けられて、テレビで報道されて(この世界にテレビがあるかは分からない)、きつい取り調べを受けて、裁判にかけられて。


 アリシアは目が覚めてからこれまでの自分の行動を振り返って血の気が失せた。どう考えても、あの青年はアリシアの態度に戸惑っていたじゃないか。


「無理じゃない!? ぜーったい、もう気づかれてるって! いやむしろ仕事には行かない方がいいじゃない! そもそも仕事ってなに? 行かなくてもいい? 私、今日から引きこもりになる!」


【いいえ! 仕事中毒の御主人が行かないってことの方がマズいです。それに御主人は気が触れてることで有名なので、ちょっとやそっとじゃあ疑われませんて! さぁ、御主人!】


「まって、今聞き捨てならないこと二つ聞いた」


 ――つまり、新たな人生を貰っておいて、助かっておいて、早々にお縄になるということ? なんて人生をくれたんだろう。助けてもらったところで悪いが、アリシアは前アリシアに一言物申したくなったし、さっそく「返品!」と叫びたくなった。


【気づかれなければ、きっと……たぶん……だいだい、まあ六割ぐらいは、ダイジョウブ! いってらっしゃい!】


「それは大丈夫じゃない――っうあ!」


 もふもふな肉球で肩を押されて、アリシアは勢いのまま玄関の外に飛び出した。ちょうど扉を開けようとしていたのか、よろけた先でぽかんと立っていたノアに、「はは」と苦笑いを浮かべることしかできなかった。



 *****



「招集って、なんの?」

「徹夜とコーヒーの飲みすぎで、もっと可笑おかしくなったんですか……? 『人形師』の件ですよ」


 箒に乗って、アリシアとノアは空を飛んでいた。

 箒は玄関の外の廊下に立てかけてあり――これはノアにものすごく小言を言われたが――それに手を掛ければ、アリシアの身体は心得たと言わんばかりに箒に吸い寄せられて、気が付けば自然と上空へ舞い上がっていた。魔法使いだ、とアリシアは感動していた。


 ――魔法が使える。夢みたいだけど、夢じゃない。


 部屋の外は、本当に別世界だった。

 アリシアのいたコンクリートの街並みとは全くもって異なる、白や茶色、グレーを基調とした石造りの建物が敷き詰められて並んでいた。

 一つ一つ模様や造り、色が異なり、子供の頃に読んだ物語の中に出てくるような可愛らしい街並みだ。そして、無機質な住宅街に暮らしていた以前と比べれば、此処は緑色が多く、軒先にも植木鉢や花壇が飾られていた。


 だがそれは良く目を凝らさなければ見えないほどで、街は、深く白い霧に包まれていた。

 アリシアの記憶が告げた。この地の名前は〈霧に隠された地セントミア・エリア〉。深夜から朝にかけてのほとんどを乳白色に包まれる場所だ。


 聞くところによると、現時刻は早朝五時半だという。どうりで、眼下の道に人気がなかった。


「『人形師』、ね」

「見張り中の二人から連絡があったようで、王立中央公園付近で魔力が引っ掛かったようです」

 

 アリシアは斜め前を行く影を追いながら言った。思った以上に、霧は冷たく、細かな雨粒が煩わしく顔につく。一定のスピードで飛んでいると、霧雨はまるで細い針みたく肌に刺さった。


 アリシアは濡れた目元を手で拭った。

 その時ふと、頭の中に言葉が浮かび、無意識にそれを口に出していた。


「【セーレハルニア】――」


 アリシアは、顔に当る水滴をどうにかしたかった。目の前にかかる霧だけでも、どうにかする力があれば、と思った。そういう魔法みたいなことをしようと思った結果、あの言葉が口をついて出たのだ。


 そうしたら、街を覆っている霧が


 街の向こうには山脈が連なり、その後ろには星空があった。そして、沈みかけの月が浮かんでいる。ノアが称賛の声を上げた。


「ワォ、さすが」


「……ウソ、まじ?」


「え? はい。ああ、一時間前に、ですが。シアにも連絡がいきましたが出なかったので……、俺が迎えに」


 ノアはそれすらも慣れた様子でいた。少し前をゆくノアの声は不思議とよく届いた。


「あ――わ、そ、そう。それは、ごめんなさい、気分が……悪くて」


「仕方ありません。俺も今日は三日ぶりに少しでも睡眠をとろうと思っていたんですけど、こんな状態。参っちゃいますよね。

 でもそれに比べたら、あなたは今日で五徹するとこだったんです。いくらとかやらと呼ばれるあなたでも、睡眠をとらずに過ごしていれば、体調も悪くなるってことですね。これを機に、生活習慣を見直してくださいよ」


「まって。誰が、なんだって?」


「俺が、三日ぶりの仮眠を」


「それは大変……じゃなくて!」


「あなたが、生活習慣を見直して」


「その前! 私が、だい……なに?」


「大魔導師! 魔法使いの中の魔法使い、抑止力の魔法使い、魔法使いから恐れられる、最も崇高な称号を持つ魔法使い! 今更じゃないですか」

 

 ノアが飛びながら後ろを振り返り、鋭い視線を向ける。もはや驚きを通り越して思考回路を停止させていたアリシアの心臓が、ぴょんと跳ねた。


「シア、もしかしてあなた……」

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